第7話『福王寺先生の部屋』

 午前11時過ぎ。

 結衣と俺は、福王寺先生との待ち合わせ場所である武蔵金井駅に向かう。

 梅雨の真っ只中とは思えないくらいによく晴れている。陽差しがとても暑くて、空気も蒸している。梅雨明けの気候を先行体験しているようだった。ちなみに、今日の最高気温は30度予想。夏本番はこのくらいの暑さでとどまってほしいものだ。


「暑いねぇ、悠真君」

「暑いよなぁ。今日は30度まで上がるみたいだし。暑さにもまだ慣れてないからなぁ」

「そうだねぇ。こういう日に外を歩いていると、プールとか海に行きたくなるよ」

「そうだな。夏休みまでには絶対に行こう」

「うんっ!」


 結衣は楽しげな様子で俺に腕を絡ませてくる。暑くても、結衣から伝わる温もりは全く不快に感じない。あと、ミルクの甘い匂いがほのかに香ってきて。家を出る直前に塗った日焼け止めの匂いだろうか。気持ちが落ち着いてくる。

 以前、俺の家に泊まりに来たとき、結衣は「高校最初の夏を素敵な夏にしたい」って言っていたな。きっと、その言葉通りになると信じている。

 結衣の家から武蔵金井駅までは徒歩数分ほどなので、あっという間に到着した。

 休日のお昼前。今日は晴れて暑い。俺達のように待ち合わせ場所にしている人が多いのか、駅の構内にはたくさんの人がいる。


「あっ、杏樹先生いたよ」


 結衣が指さす先には、デニムパンツに黒いノースリーブシャツを着ている福王寺先生がいた。シンプルな服装だけど結構目立っている。美人でスタイルが良く、銀髪が綺麗だからかな。大人の色気も感じられて。そんな先生に視線を向ける人は男女問わず多い。


「杏樹先生!」

「……あっ、結衣ちゃん。それに低へ……低田君」


 こちらを向いて、微笑みながら手を振ってくる福王寺先生。学校でのクールモードと、俺らを含めた限られた人達の前だけで見せる素のモードの中間だろうか。周りに多くの人がいるし、金井高校の関係者もいるかもしれないからかな。あと、俺のことを低変人様って言いかけたな。


「おはようございます、杏樹先生」

「福王寺先生、おはようございます」

「2人ともおはよう。急なことなのに、すぐに来てくれてありがとう」


 ほっと胸を撫で下ろす福王寺先生。大嫌いなクモを退治してくれる人が来たからだろうか。


「いえいえ。杏樹先生の家がどんな感じか興味があるので。悠真君も気になっているんだよね」

「まあな」

「低田君も気になっているのね。クモと出くわしたから、急いで家を出たけど……多分、男の子が入っても大丈夫だと思う。まあ、低田君になら何を見られてもいいけどね」


 福王寺先生は頬をほんのりと赤くし、上目遣いで俺を見てくる。不覚にも、そんな先生にキュンときてしまった。先生の部屋がどんな雰囲気か楽しみになってきたな。


「さあ、私の家に行きましょうか。北口を出て数分のところにあるわ」


 福王寺先生について行く形で、結衣と俺は先生の家に向かって歩き始める。その際、結衣とは恋人繋ぎで手を繋ぐ。

 休日中心にバイト先のムーンバックスに来てくれるし、先生の家は近所にあるのかなと思っていた。まさか、駅から徒歩数分のところにあるとは。

 俺達は北口に出ると、線路沿いの道を都心方面に歩いていく。


「杏樹先生。先生のお宅ってマンションですか? それともアパートですか? まさか戸建てですか?」

「さすがに戸建てじゃないよ。1人暮らしだし。正面にあるあのマンションだよ」


 福王寺先生の指さす先にあるのは、淡い灰色が特徴的な高層マンション。あのマンション、俺の部屋の窓からも見えるぞ。確か、俺が小学校の低学年の頃にできたはず。あそこに住んでいるのか。


「あのマンションですか! 高校からも見えますよね。凄いじゃないですか! あんなに立派なマンションに住めるなんて!」

「立派よね。確か、20階建てだったかな。金井高校から徒歩圏内だし、1Kでお手頃な家賃だったから。一人暮らしをするには広めの部屋だし。とても運が良かったわ。それに、近くにて……低田君も住んでいるから」


 俺を見てニッコリと笑う福王寺先生。まあ、歩いて行ける距離に大好きな低変人の自宅があったら、そりゃ嬉しくなるか。

 ああいう高層マンションには虫が出ないイメージがあるけど、普通に出るんだな。今回はクモだけど、きっとゴキブリとかも出るのだろう。


「そういえば、2人とも……さっきは一緒に南口の方から来たよね」

「昨日、悠真君が家に泊まりに来たんです。今日はフリーで、明日は朝からバイトが入っているそうなので」

「なるほどね。2人のことだから、今回もラブラブでとっても気持ちのいい夜を過ごしたんでしょうね」

「えへへっ、ご名答です」


 照れくさそうに答えると、結衣は俺の手を掴む力を強めた。

 福王寺先生の言う通り、昨日の夜は……確かにラブラブでとっても気持ちのいい夜だったな。何とか声を抑えようとする結衣がとても可愛かった。いつもとは違う一面だったからかな。

 駅を出てからずっと見えていたからか、先生の住むマンションにあっという間に到着した。マンション名は『メゾン・ド・カナイ』って言うのか。いかにもマンションらしい名前だ。


「近くで見ると、とても立派ですね! そびえ立つといいますか」

「私もここに住み始めたとき、この高さに圧倒されたわ。私の家は808号室よ」


 808号室か。福が舞い込みそうな感じがする部屋番号だ。福王寺先生らしい数字な気もする。

 オートロックのエントランスを通る。竣工して10年も経っていないからか、マンションの中もとても綺麗だ。結衣は目を輝かせながら中の様子を見渡している。

 エレベーターで福王寺先生の家がある8階へ向かう。

 とても落ち着いた雰囲気の廊下だな。綺麗なデザインだし、高級ホテルに来たんじゃないかと思える。


「もしかして、杏樹先生の家ってあそこですか?」

「そうよ。どうして分かったの?」

「……玄関の扉の前に、殺虫スプレーらしき缶が置かれていますから」


 確かに、結衣の指さす先には殺虫スプレーっぽい缶が置かれていた。


「いやぁ、家に戻ってすぐにクモと出くわしても大丈夫なように、家にある殺虫スプレーをここに置いておいたのよ。……ということで、低変人様」


 はい、と福王寺先生から殺虫スプレーを渡される。


「これでクモを退治してね。退治したら何でもお礼するから」


 とっても可愛い笑顔で福王寺先生からそう言われる。

 殺虫スプレーがあれば、クモ退治をできそうな気がするけど。ただ、メッセージには巨大なクモと書いてあった。大きすぎて立ち向かう勇気が持てなかったのかな。


「分かりました。毎年、この季節になるとクモとゴキブリ退治をしているので、任せてください。俺が退治するまで、2人は廊下にいてもらってかまいませんよ」

「いえ、私は行くわ。頼んだ身だし、ここの住人として責任を持って見届けたい」

「私もついて行くよ。クモは怖いけど、クモを退治するかっこいい悠真君の姿を見たいから」


 そうは言うけど、クモを見つけたら悲鳴を上げたり、パニックになったりしそうな気がする。ただ、2人の気持ちは受け入れてあげたいな。


「……じゃあ、3人で中に入りましょうか」


 すぐにクモを見つけたときのためにも、持参したティッシュを、何枚も左手に持つことに。

 福王寺先生に鍵を開けてもらい、俺達は3人で808号室の中に入る。その際、右腕を結衣、左腕を福王寺先生にぎゅっと抱きしめられる。

 クモと出くわして急いで出たからか、電気が点けっぱなしだ。

 とても綺麗なところだな。すぐ近くにはIHやシンクがある。1Kだと、玄関を入るとすぐにキッチンという間取りが普通なのだろうか。正面にある扉の向こうが、先生の部屋なんだろうな。


「クモは……いませんね。ちなみに、先生がクモと出くわした場所はどこだったんですか?」

「扉の向こう。私の部屋の中。録画したアニメを観ていたら、テレビの後ろから巨大なクモが出て……!」

「分かりました。じゃあ、部屋に入りましょうか」


 俺は部屋の扉をゆっくりと開ける。

 結構広い部屋だ。ベッドやテーブルに漫画が置かれているくらいで、基本的に綺麗だ。絨毯が桃色で、ベッドシーツ、掛け布団の色が淡い水色だからか、爽やかな雰囲気だ。心なしかいい匂いがする。

 本棚の側面に男性アイドルアニメの短冊ポスターが貼ってあったり、テレビ台にミニフィギュアがいくつも飾ってあったりしており、先生の漫画やアニメ好きが垣間見える。

 テレビの後ろからクモが出てきたと言ったので、そちらを見ると……クモはいない。

 そこから視線を動かすと……レ、レースのカーテンの向こう側に、ベランダに干してある先生の下着が見える。黒や紫、赤と大人な雰囲気。今日は梅雨の合間の晴天なのでまとめ洗いしたのかな。

 いかんいかん、あまり下着ばかりを見ては。視線をベッドの方に動かすと――。


「あっ、いましたよ。ベッドのすぐ近くの壁に」

『きゃああっ!』


 結衣と福王寺先生、両サイドでほぼ同時に悲鳴を上がる。さすがに体がビクついてしまった。あと、耳が痛い。

 壁にいるクモは無反応。よく見てみると、あれはアシダカグモだな。足を含めて15cmはありそうだ。アシダカグモの中でもかなり大きなクモだと思う。


「ア、アレよ! さっき遭遇したクモは!」

「ううっ……私、クモはゴキブリよりもマシだけど、あんなに大きなクモはダメ! 怖いよ!」

「は、早くその殺虫スプレーをぶっかけて! 何ならスプレー缶で叩き潰してもいいから! どんな手段を使ってでも退治してください、低変人様!」

「分かりました。そのためにも、2人は俺の腕を離してもらえますか」


 俺がそうお願いすると、結衣と福王寺先生は俺から離れ、2人でぎゅっと抱きしめ合う。本当にクモに怖がっていると分かる。あと、こうして寄り添っているのは可愛らしいな。

 2人の恐怖心を早くも和らげるためにも、早くあのクモを退治しないと。

 クモが今もベッドの側にいるので、俺はそっとベッドに近づく。


「先生。ベッドに乗ってもいいですか?」

「もちろん! 何なら寝てもいいわ!」

「……さっきの2人の悲鳴で、眠気は完全に吹き飛びました。では、乗りますね」


 そっとベッドに乗ると、福王寺先生の匂いが香ってくる。まさか、この匂いにつられて、ベッドの近くにいるのか? クモにも嗅覚があるとネット記事で見たことがある。

 俺がベッドに乗ったからか、クモが動き始めた。


『きゃああああっ!』


 背後から結衣と福王寺先生の悲鳴が。さっきよりも大きいような。嫌いな虫が動くと怖いか。あと、何度も大きな声を上げると、ご近所さんが来てしまいそうだ。

 逃げられてしまう前に、俺はクモに殺虫スプレーを吹きかける。

 効果があったのか、クモはその場に留まる。壁から落下してきたところを、左手に持つティッシュで掴み取る。


「よし、これで大丈夫ですね。先生、スーパーかコンビニの袋ってありますか?」

「あるわ。昨日も帰りにコンビニでスイーツを買ったし……」


 福王寺先生はそう言うと、キッチンへ向かい、すぐにコンビニの袋を持ってくる。

 俺は先生から受け取った袋に、クモを包んだティッシュを入れる。ビニール袋をキツく結んだ。さっき、家に入ったときに見えたキッチンのゴミ箱に入れた。


「これで大丈夫ですね」


 さっさと解決して良かった。

 結衣と福王寺先生の方を見ると、2人はうっとりとした様子で俺のことを見ている。


「どうしたんですか、2人とも」

「あまりにも早く、鮮やかにクモを退治してくれたから、低変人様がとてもかっこよく見えて。凄くキュンキュンしてる。ベッドに押し倒したいくらい」

「その気持ち、凄く分かりますよ! 私も悠真君にキュンキュンです! 2人で悠真君を押し倒しちゃいましょうか?」

「何を言っているんですか。教師として、恋人としてまずい会話をしている自覚はないんですか」

「いやぁ、悠真君がとってもかっこよかったから、つい」

「本当にかっこよくて頼もしいわ。さすがは低変人様! クモを退治してくれてありがとう!」


 このくらいのことで、こんなにも感謝されるとは。ただ、大嫌いな人にとっては虫の退治は一大事か。

 クモを退治できたし、福王寺先生の部屋の雰囲気も分かったし、結衣を連れてもう帰ろうかな。先生の家で、似たもの同士の2人が盛り上がっているからか、身の危険を感じるのだ。財布とスマホは持っているから、このままエオンで昼食や買い物でも――。


「低変人様! クモを退治したお礼をしたいんだけど」

「……け、結構ですよ。先生の部屋を見せてもらいましたし……」

「そんなのお礼のうちに入らないって!」

「そうだよ! それに、もらえるものはもらっておいた方がいいよ!」

「3年前から素敵な曲を聴かせてもらっているお礼も含めて、低変人様の希望することなら何でも叶えるつもりだよ!」


 そう言って、両手で俺の右手をギュッと掴む福王寺先生。真剣な眼差しを向けられると、このまま断り続けるのが申し訳なく思えてきた。

 しょうがない。せっかく福王寺先生の家に来たし、結衣も先生の家に興味があるから、もう少しここに居させてもらうか。


「分かりました。暑い中、結衣の家からここまで歩いてきましたので、冷たいものをいただけますか。ブラックコーヒーだと嬉しいです」

「分かったわ! 結衣ちゃんはどうする? コーヒーは苦手なのよね?」

「最近は慣れてきましたけど、砂糖やミルクがないとキツいです」

「そっか。じゃあ、アイスティーを作ろうか? 私も飲みたい気分なの。どうかな?」

「アイスティーいいですね! お願いします」

「オッケー! 2人は部屋で適当にくつろいでて」


 福王寺先生は結衣と俺にウインクしてくる。プライベートな空間で、私服姿だから凄く可愛く思えるな。

 結衣と俺は再び先生の部屋の中に入るのであった。

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