第57話『聖地巡礼』

 着替えが終わったので、お手洗いで用を足すついでに、それまで着ていた下着と寝間着を洗面所へ持っていった。だるさも残っているけど、処方された薬が効いたり、高嶺さんが汗を拭いたりしてくれたから朝に比べて気分はいい。

 部屋に戻ると、高嶺さんは上半身をふとんの中に突っ込んでいた。


「何やっているんだ?」


 俺がそう問いかけると、高嶺さんは上半身をふとんから出し、俺を見てくる。


「さっき汗を拭いているときに、悠真君の匂いはいいなって改めて思ってね。我慢できなくなってふとんを被ったの。悠真君の匂いに包まれて幸せだよ……」


 言葉通りの幸せそうな表情を浮かべる高嶺さん。まったく、高嶺さんらしいな。

 ベッドに戻って、胸のあたりまでふとんをかける。さっきまで上半身を突っ込んでいたからか、高嶺さんの甘い残り香が感じられる。何だか落ち着くな。それを言ったら、高嶺さんにどんな反応をされるか分からないので言わないけど。


「そういえば、悠真君。起きてからまだ熱を測っていなかったよね」

「そうだな。……測っておくか」


 高嶺さんから渡された体温計で体温を測ることに。その間、高嶺さんは俺の右手をそっと掴み、優しく俺に微笑みかけてくれる。そのことで熱が上がってしまいそうだ。

 ――ピピッ。

 と鳴ったので、体温計を手に取ると、


「38度3分か……」

「まだ高いね。これだと、明日も欠席する可能性が高そうだね」

「そうかもな。ただ、朝は39度4分だったし、だるさの程度も軽くなったから、これでも今朝に比べれば結構マシになったよ」

「それならまだ良かった」


 本当は高嶺さんがお見舞いに来てくれたのも、朝よりもマシだと思う理由の一つだけど。それを言ったら、高嶺さんにどんな看病をされてしまうか不安なので心に留めておこう。


「悠真君。私に何かしてほしいことはある? 悠真君のために看病したいな。とりあえず、胸の中で顔をすりすりしてみる? それとも、もみもみしてみる? 悠真君なら……ちゅ、ちゅーちゅーしてもいいよ? 何も出ないけど。気持ちが休まるかもしれない」

「……遠慮しておくよ」


 言わなくても、高嶺さんはとんでもない看病を提案してきやがった。まったく。今言ったことをしたら、気持ちが休まるどころか心臓がバクバクして、朝の39度4分を軽く越える勢いで熱が上がると思うぞ。

 ――ピンポーン。

 うん? インターホンが鳴ったな。この時間に鳴るなんて珍しい。

 今更だけど、インターホンってそれなりに大きな音が鳴るんだなぁ。中野先輩と高嶺さんが来たときも鳴ったと思うけど、全然気付かなかった。それだけ、ぐっすりと寝ていたってことか。そのときに見ていた夢は凄くヘンテコな内容だったけど。


 ――コンコン。

「はい。どうぞ」


 母さんか? 何か俺宛に届いたのかな。

 ゆっくりと扉が開くと、


「こんばんは、低田君。具合はどうかしら」


 何と、部屋の中に入ってきたのは福王寺先生だった。先生はクールな様子で俺達に軽く頭を下げると部屋の扉を閉める。バッグをテーブルの近くに置いて、高嶺さんのすぐ隣までやってくる。


「さっき熱を測ったら38度3分でした。ただ、今日行った病院から処方された薬のおかげで、朝に比べたらマシになってきてます」

「そうなのね。少しでも快方に向かっているようで良かったわ。途中のコンビニでプリンを買ってきたんだけど、お腹の方は大丈夫だったかしら?」

「はい。普段よりも食欲がないだけで、お腹を壊しているわけじゃないので」

「良かった。小さい頃、風邪を引いて、お腹は壊していないときは両親がプリンを買ってきてくれたから。冷蔵庫に入れてあるからね。ちなみに、この部屋には高嶺さんしかいないのね」


 福王寺先生は両眼に涙を浮かべて、両手で俺の右手をぎゅっと握ってくる。


「低変人さまぁ!」


 教室では出さない甘い声でそう言った。ここには高嶺さんと俺しかいないから素のモードになったんだな。


「今朝、39度4分の熱が出たから学校を休むって低変人様からメッセージが来たとき、凄く不安になって」

「LIMEで私にたくさんメッセージを送ってきましたよね。新曲の感想だけじゃなくて、悠真君が心配で仕方ないとか」

「気持ちを落ち着かせたかったからね。ごめんなさい、結衣ちゃん」

「いえいえ、気にしないでください」


 高嶺さんと福王寺先生は笑い合う。先生が生徒と楽しく笑っている様子を見るのは初めてだな。


「今日は絶対にお見舞いに行こうって決めてたの! 低変人様の様子を見たかったし、新曲『天上人』の感想を直接言いたくて。あと、どんな場所で楽曲を作っているのかも知りたかったから。いわゆる聖地巡礼ね!」


 そう言ったときには、福王寺先生はとても興奮した様子になっており、涙はすっかりと引いていた。教師として、体調を崩した生徒を心配してくれているのは伝わってくるけど、聖地巡礼って。低変人の熱狂的なファンだから、その気持ちも分からなくはないけれども。


「受け持っている生徒の悠真君のお見舞いだけなら普通ですけど、低変人さんの聖地巡礼も兼ねていると知ると、途端に職権濫用している印象になりますね」

「今までで一番、教師になって良かったと思ってるよ!」


 可愛らしい笑みを浮かべながらそう言う福王寺先生。まったく、この教師は。クールビューティーとか数学姫なんて嘘じゃないかと思ってしまうよ。これには高嶺さんもさすがに苦笑いをするだけで何も言葉を発しなかった。

 福王寺先生は勉強机の椅子を、高嶺さんが座っているパソコンチェアのすぐ横まで動かし、ゆっくりと腰を下ろした。

 こうして、高嶺さんと福王寺先生が並んで座っている光景はなかなか凄い。それぞれ1人ずつでもオーラがあるのに、2人並ぶと圧巻だ。

 福王寺先生は聖地巡礼中だからか、椅子に座りながら俺の部屋の中を見渡している。そんな先生の眼は輝いていて。


「いやぁ、こうして見てみると、とても綺麗な部屋だね、低変人様。本棚の中もしっかりと整頓されているし」

「ありがとうございます」

「私の部屋よりも綺麗だと思う。……あっ、あの黒いケースの中にギターが入っているのかな?」

「はい。そのギターを使って、思いついたメロディーを録音しています。楽曲によっては弾いた音を使っていますね。アコギのみの楽曲以外は、パソコンに入っているDTMソフトを使って制作してます。あとは、今はパソコンデスクに置いてないですけど、MIDIキーボードを使うこともたまに」

「そうなんだ……!」


 福王寺先生、凄くテンションが高い。心配そうな表情をされるよりも、元気にしてくれる方が気が楽になるからいいな。


「新曲の『天上人』とっても良かったよ! 明るい雰囲気の曲で好みだよ」

「ありがとうございます。新曲の制作に熱中しすぎたのもあって、体調を崩しちゃいました。こうなったのは、今回が初めてじゃないので気を付けないと」

「そうだね。好きだからこそ集中しちゃうと思うけど、体調を崩すまでやったらダメだよ」


 そう言って、ウィンクをしてくる福王寺先生はとても可愛らしい。素のモードでいるときは、今が一番教師らしいかも。


「熱はまだあるけど、こうして話せるくらいには回復して安心したよ」

「私も安心しました。ただ、起きてすぐに『高校生だよね?』って聞かれたときは、熱で頭がやられたのかと思いましたよ」

「朝は39度4分だったもんね。そこまでの高熱、私は経験がないからなぁ」

「……高熱が影響したと思うんですけど、実は……」


 俺は今日、さっき見た幼稚園の夢について簡単に説明する。


「あははっ! 私達が幼児化しちゃうなんて。それはなかなか凄い夢だね、悠真君。後で夢に登場した人達に話そっと」

「まさか、低変人様のお見舞いでこんな話を聞けるとは思わなかった。……ふふっ」


 2人とも夢に登場したし、特に高嶺さんには引かれるかもしれないと思ったけど、楽しそうに笑ってくれて良かった。

 あと、高嶺さんは華頂さん達にも話すつもりなのか。


「それにしても、その夢では低変人様と一緒に幼稚園の先生をしていて、結婚もしているのかぁ。幼稚園の先生になるつもりはないけれど、結婚するっていう部分だけは正夢にしてみる? 早くても高校を卒業したときになるけど」

「ちょっと待ってください。何さらっとプロポーズみたいなこと言っているんですか」


 一瞬にして真剣な表情になり、鋭い目つきで福王寺先生を見つめる高嶺さん。そんな彼女とは対照的に、先生は落ち着いた笑みを浮かべて高嶺さんを見ている。


「ふふっ、夢の中で結婚しているのが嬉しくて、つい。でも、ここだけの話……低変人様は今まで告白してきた金井高校の関係者の誰よりも素敵だと思っているよ」

「……そうですか」

「わ、私だって世界で一番、悠真君のことが好きだし、素敵だと思っているからね!」


 それは告白されたときから分かっていることだけど、こうして言われるとキュンとくるものがある。もちろん、福王寺先生に素敵だと言われたことにも。


 ――コンコン。

「はい、どうぞ」

「ユウちゃん、具合はどう?」


 扉が開くと、そこには大学から帰ってきた芹花姉さんが。高嶺さん、福王寺先生だけでなく姉さんまでこの場に居合わせるとは。下手すると、俺にとって凄くまずい状況になりそうだ。

 芹花姉さんは心配そうな様子だけど、福王寺先生がいるからかすぐに真面目な表情になる。そういえば、姉さんは高校で理系クラスだったから、福王寺先生に3年間数学を教わっていたんだよな。入学した日に福王寺先生が担任だと話したとき、そのことを教えてくれた。


「熱は38度3分あるけど、朝がかなり高かったから、これでもマシな感じがしてる。だるさもあんまりないし」

「そうなんだ。朝より良くなっているなら一安心だよ。あと、結衣ちゃん、杏樹先生、こんばんは。先生はお久しぶりです」

「お邪魔しています、お姉様」

「久しぶりね、芹花ちゃん。大学生活の方はどうかな? 確か、東都科学大学理学部の生命科学科に進学したんだよね」

「はい。講義にもついていけています。大学で友人もできて、漫画系のサークルにも入っているので楽しいです。あと、今も駅前のドニーズでのバイトを続けてます」

「そうなんだ。この春に卒業した子が、楽しい大学生活を送ることができているのを知って嬉しいよ」

「は、はい。どうもです……」


 芹花姉さん、素のモードで福王寺先生が話しているからか戸惑っているな。

 低変人が俺じゃないかと福王寺先生に言われたとき、家族は俺が低変人として活動しているのを知っていると話したからな。それに加えて、芹花姉さんは卒業したから素のモードで接してもいいと思ったのかも。


「芹花姉さん。実は今が先生の素の姿なんだ。姉さんが高校に通っていたときもクールだったと思うけど、それは教師としてしっかりとするためらしい」

「低変人様の言う通りだよ。でも、このことはご家族と結衣ちゃん以外には言わないでね」

「……分かりました。高校ではとてもクールな雰囲気だったので驚きました。数学の質問をしたときは、優しく教えてくれましたけど。ただ、卒業後でも、先生の可愛い姿を知ることができて嬉しいです。あと、高校時代の数学が大学での勉強に役立っています。先生、ありがとうございます!」


 ニッコリとした笑顔で芹花姉さんはお礼を言うと、両手で福王寺先生の右手を掴む。


「いえいえ。芹花ちゃんが当時から頑張って勉強したからだよ。でも、そう言ってくれて嬉しい。こちらこそありがとう」


 福王寺先生は優しくて温かい笑顔を芹花姉さんに向ける。姉さんの頭を撫でる姿は恩師らしく思えた。そんな2人を高嶺さんが微笑ましく見ているのが印象的だった。

 まさか、自分の部屋でこういう光景を見ることができるとは。今回、風邪を引いて良かったとちょっと思うのであった。

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