第5話『せんぱい。』

 放課後。

 今日はバイトがあるため、終礼が終わるとすぐに教室を後にする。

 高嶺さんには終礼の前にバイトのことを伝えてある。掃除が終わったら、伊集院さんと一緒にエオンで買い物をし、バイト先にも来るとのこと。

 昇降口でローファーに履き替え、校門へ向かう。


「あっ、悠真!」


 既に、2年生の中野千佳なかのちか先輩が校門の近くで俺を待っていた。先輩は明るい笑顔で俺に手を振ってくる。そのせいか、ツーサイドアップにした茶髪が揺れる。


「今日は早いですね、中野先輩」

「すぐに担任が来たからね。じゃあ、ムーンバックスに行こうか」


 俺は中野先輩と一緒に、駅前にあるチェーン店の喫茶店・ムーンバックス武蔵金井むさしかない店に向かって歩き始める。学校からだと、歩いて5分ほどのところにある。

 俺にとって、中野先輩は学校だけでなくバイトの先輩でもある。バイトを始めてから日も浅いので、先輩が接客などの仕事のやり方を教えてくれており、基本的には先輩と一緒のシフトとなっている。今のところ、金井高校の生徒の中で一番関わりがあるのは先輩だろう。

 また、お互いの教室が別々の校舎にあるため、平日にバイトがあるときは校門前で待ち合わせをし、今日のように一緒にお店まで行くことにしている。


「今週も木曜まで終わったね」

「ええ。火曜日からだったので、結構早い感じがしますね」

「そうだね。これなら、今年も五月病にならずに済みそう。今年は悠真にバイトで色々教えているからかも」

「先輩には本当にお世話になってます。今日もよろしくお願いします」

「うん! お願いされた!」


 快活な笑みを見せる中野先輩。バイトを始めてから日も浅く、失敗するときもある。だけど、先輩が明るく接してくれたり、今のような可愛らしい笑顔を見せてくれたりするおかげで何とかやれている。


「そういえば。友達から話を聞いたけど、高嶺の花の高嶺結衣ちゃんからの告白を振ったんだって? 今日のバイトのときに確認してって言われたの」


 さすがは高嶺さん。上級生の間でも話題になるのか。

 中野先輩は俺の前に回り込み、俺を見ながら後ろ向きで歩く。上目遣いで見つめてくる姿はまるで小動物のようだ。


「そんな歩き方をしたら危ないですよ」

「大丈夫だって。悠真が目の前に歩いているから」

「俺を頼りにしてくれているのは嬉しいですけど、高嶺さんのことを教えたらその歩き方は止めてくださいね」

「うんっ! それで、例の噂についてはどうなのですか!」


 記者のように、中野先輩は握り締めた右手を俺に向けてくる。


「彼女からの告白を振ったのは本当です。今は友人として付き合っています。ただ、高嶺さんは前向きで、俺を惚れさせると意気込んでいますね」

「じゃあ、告白を振ったっていう話は本当だったんだ。あと、これからの彼女次第で彼女と付き合う可能性もあるってことか」


 なるほどなるほど、と中野先輩は何度も頷いていた。


「満足な回答になりましたか?」

「もちろん! 教えてくれてありがとう。バイトの休憩時間にでも友達に……きゃっ!」


 足が滑ったのか、中野先輩は後ろに倒れそうになる。

 俺は右手で中野先輩の左腕を掴み、勢いよく自分の方に抱き寄せる。先輩が倒れずに済んで良かった。


「先輩、怪我や痛いところはありませんか?」

「うん、ないよ。大丈夫。悠真のおかげで倒れずに済んだ。ありがとう」


 中野先輩と目が合うと、先輩は頬を真っ赤にしてはにかむ。


「ゆ、悠真の注意通り、後ろ向きに歩くと危ないね! 脚滑っちゃったよ」

「気を付けてくださいね」

「……うん。先輩としてちょっと恥ずかしい」


 俺にしか聞こえないような小さな声で言うと、中野先輩は俺の胸の中に頭を埋めた。そのことで、先輩の匂いや柔らかな感触が感じられて。

 足を滑らせたり、俺に注意されたりした恥ずかしさなのか。はたまた、道路で俺に抱きしめられているからなのか、先輩の体はどんどんと熱くなっていき、かなり速いテンポの鼓動が伝わってくる。

 中野先輩の背中に回していた左手をそっと離すと、先輩は何歩か後ずさりする。すると、顔を埋める前よりも頬の赤みが増していて。チラチラと俺を見てくるところが、小さい子のようで可愛らしい。


「バイトで少しずつ頼もしく思えるようになってきたけど、こういうときにも頼もしさを感じられるなんてね。さすがはあたしの後輩だ」

「それはどうも。困ったときはいつでも頼ってきてくださいね、先輩」


 俺がそう言うと、中野先輩は口角を上げ、


「そうなる日は遠くないだろうね。少なくともバイトでは。さあ、行くよ、後輩」


 俺は中野先輩の横に立って、歩幅を合わせて再び歩き出す。

 さっき、中野先輩を抱き止め、先輩が俺の胸に顔を埋めたからか、ムーンバックスに到着するまで、制服についた先輩の残り香が消えることはなかった。



 ムーンバックスに到着すると、スタッフ用の制服に着替えて、中野先輩と一緒に仕事を始める。

 夕方だからか、金井高校を含めた制服姿の学生さんの姿が多いな。中にはカップルや数人規模のグループもいて。


「ごゆっくり。次の方、どうぞ」


 すると、パンツルックの若い女性がカウンターの前に。赤紫色のポニーテールが特徴的な彼女は、中野先輩曰く去年から度々訪れている常連さんだ。バイトを始めて1ヶ月も経っていない俺も数回は接客している。


「いらっしゃいませ。店内で召し上がりますか?」

「はい。えっと……ブレンドコーヒーのアイス。Sでお願いします」

「ブレンドコーヒーのアイス、Sサイズですね。シロップとミルクはお付けしますか?」

「1つずつお願いします」

「かしこまりました。230円になります」


 代金を支払ってもらい、頼まれたアイスのブレンドコーヒーを作り始める。


「いい感じだね、悠真」

「ありがとうございます。……あのお客様、定期的に来てくださってますね」

「そうだね。背も高くて凜々しいからちょっと憧れてる」


 そう言う中野先輩は背が小さい。胸はそれなりにあるけれど。


「何か失礼なことを考えているように思えるけど……まあいいよ。ノートパソコンで作業してたり、レポート用紙に書いていたりしている姿も見かけるから、大学生かなって思ってる」

「なるほど」


 喫茶店で課題をこなす大学生か。何だか上品で頭がいい感じがするな。

 芹花姉さんは課題を家でやるか、大学で友達と協力して終わらせることが多い。喫茶店で課題や勉強をしてきたって聞いたことがないな。

 アイスコーヒーを作り、俺はお姉さんの待つカウンターに戻る。


「お待たせしました。アイスのブレンドコーヒーに、シロップとミルクでございます」

「ありがとう」

「ごゆっくり」


 お姉さんは俺の目を見て落ち着いた笑みを浮かべ、軽く頭を下げると、トレイを持ってカウンター席の方へと歩いて行った。

 その後も、たまに中野先輩の助けを借りながら接客を中心に仕事を行なっていく。

 そして、今日の仕事が始まって小一時間ほどたった頃。


「悠真君、来たよ!」

「バイトお疲れ様なのです、低田君」


 高嶺さんと高嶺さんの親友の伊集院さんが来店してきた。高嶺さんがとてもいい笑みを浮かべているので、店内にいる客の何人かは高嶺さんに釘付けになっている。アイスコーヒーを頼んだ常連のお姉さんも、高嶺さんをチラッと見た。

 クラスメイトの顔を見ると元気になるな。段々と疲れを感じ始めてきたタイミングだったのでありがたい。

 2人が来店したのは今回が初めてではないけれど、高嶺さんから告白された翌日ということもあって、何だか気恥ずかしい。


「いらっしゃいませ。高嶺さん、伊集院さん」

「いらっしゃいました!」

「……ははっ」


 バイトを始めてからはもちろんのこと、今までその言葉を聞いたことがなかったので失笑してしまう。


「掃除当番終わってから、結衣はずっと笑顔のままで。それもあってか、エオンで買い物をしているとたくさんの人に見られたのですよ」

「そうなんだ。さすがは高嶺さんだな。ご注文をどうぞ」

「あたしはまだ迷っているので、結衣からお願いします」

「分かった。ええと、アイスティーのSサイズと、チョコドーナツ1つください」

「アイスティーのSサイズと、チョコドーナツ1つですね。シロップとミルクはお付けしますか?」

「シロップを1つください」

「かしこまりました」

「あとは、スマイルとハグを……」


 もじもじとそんな注文をしてくる高嶺さん。高嶺さんなら言うと思ったよ。伊集院さんがクスクスと笑っている。


「スマイルは心がけていますが、ハグなんていうメニューは提供しておりません」

「……そっか。じゃあ、今回はアイスティーとチョコドーナツだけでいいです」

「かしこまりました。合計で480円になります。あと、ハグが提供される予定はありません」

「ううっ。……えっと、480円だね」


 高嶺さんに代金を支払ってもらい、俺は高嶺さんが頼んだメニューを用意する。


「高嶺ちゃん、可愛くて綺麗だよね。悠真に告白したからか、あんなことを言うなんて。高嶺ちゃんって面白い一面もあるんだね。イメージになかったな」

「俺もですよ。告白を機に、表に出てきた感じがしますね」

「ふふっ。チョコドーナツはあたしが用意するから、悠真はアイスティーを用意して」

「分かりました」


 中野先輩の指示通り俺はアイスティーを作り、高嶺さんの待つカウンターへと持っていく。トレイの上にはチョコドーナツとシロップ、ストローが乗せられていた。


「お待たせしました。アイスティーにチョコドーナツでございます」

「ありがとうございます! 姫奈ちゃん、先に行ってるね」

「ごゆっくり」


 高嶺さんは俺に向かってにこっと笑うと、2人用のテーブル席のある方へ向かっていった。


「次の方、どうぞ」

「アイスカフェラテのSサイズと、バームクーヘンを1つお願いします」

「アイスカフェラテのSサイズと、バームクーヘンお1つですね。450円になります」

「はい」


 伊集院さんに450円ピッタリ払ってもらい、伊集院さんが注文したメニューを用意する。今回もバームクーヘンは中野先輩、アイスカフェラテを俺が担当する。

 アイスカフェラテを作り終わってカウンターに戻ると、トレイにはバームクーヘンとストローが置かれていた。


「お待たせしました。アイスカフェラテとバームクーヘンでございます」

「ありがとうございます、低田君。……結衣、低田君にフラれてからの方がより元気になっている気がするのです。出会ってから一番かもしれない。大好きな低田君と深く関わるようになったからでしょうか」

「……そうかもな」

「親友として、結衣には幸せになってほしいと思っているのです。結衣のことをよろしくお願いします」


 可愛らしい笑顔でそう言うと、伊集院さんは軽く頭を下げた。親友のことで頭を下げられるなんて。今のような一面を分かっているからこそ、高嶺さんも伊集院さんだけには俺が好きだって伝えていたのかも。


「まずは友人からだけどね。高嶺さんは伊集院さんっていう親友がいて幸せ者だな」


 俺がそう言うと、伊集院さんは頬をほんのりと赤くする。


「て、照れてしまうのです。結衣があなたを好きになる理由を少し実感したのです。……では」

「ああ。高嶺さんとごゆっくり」


 伊集院さんはトレイを持って、高嶺さんの待つテーブル席へ向かっていった。

 それから、高嶺さんと伊集院さんは1時間半くらい店内におり、2人は談笑したり、課題をやったりしていた。たまに、俺に向かって笑顔を見せたり、手を振ったりしてくれて。だから、いつもよりも疲れを感じず、時間が早く流れた気がした。

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