35 もういいねの『AIR』 02
中学最後の夏休みが始まる。
担任からの聞き飽きた注意点に加え、ここからが本番だと情熱的な言葉が投げかけられる。
しかしそれを熱心に聞いている生徒は誰もいない。
みなが、早く帰って勉強や最後の部活を楽しみたいと思っているのだろう。
(なつ、やすみ、か)
ゆうみは頬杖をついて、蝉が鳴く炎天下眺める。
視界が揺らぐのにも慣れ、半分眠ったような頭でうさぎのことを考える。
お団子結びしても尚、あったうさぎの髪が肩口で切られ、横の毛の片方だけが残された髪型になった。
ずっと、嫌いだったと言って去ったうさぎの背中と、無言で後を行く初美の背。
嫌われていることは薄々気づいていて、それでもうさぎと一緒にいたかった。
ゆうみのわがままを、うさぎは耐えられなかったのだろう。
ずっとというから、自分に声をかけたあの日からと考えると約半年ほど前。
最初、声をかけられた日のことは昨日のことのように、思い出せる。
微笑みを浮かべて、長い髪を揺らして声をかけてきたうさぎ。
ゆうみは最初、罰ゲームで自分に話しかけてきたのだろうと思った。
そういうことは多々あったし、何とも思っていない男子がゆうみへ告白するなんてことも。
頬に口づけをする罰ゲームもあった。
それに対してバカみたいに浮かれて、しまった自分を大急ぎで振り払う。
それに、とゆうみは引き出しの中に置いてある台座に手を伸ばす。
この暑さに比例して、指先に当たるひんやりとした感触。
冷蔵庫にそのまま入れたままにして、出したときの冷たさ。
唯一残った台座の空白が、うさぎのカケラで迷える子羊のナミダ。
ゆで卵のようにつるりとした表面は、指に傷一つ付けさせない。
だから余計に、こうして椅子に座っていることが居たたまれないのだ。
うさぎに付けられた見えない傷が、痛んで、膿んで腐っている。
担任が終わりを告げる声で、ゆうみは周りを見渡した。
生徒たちは夏休みに向けての夏期講習の話や分かりやすい参考書の有無。
夏休み中にある花火大会の誘いや、着ていく浴衣の話と千差万別。
行き交う生徒の中にうさぎと初美の姿を見つけたが、あえて彼女らはゆうみを無視した。
何も言えず、やがて新の姿を見つけるとゆうみは縋る想いで彼の腕を掴んだ。
新はそれだけで分かったように、新はゆうみに支度を調えるよう告げる。
ゆうみは慌てて、通学リュックの中に教科書などを詰め込んでいく。
それから学校へ置き去りにし、なあなあにしていた辞書などの重い物も入れる。
新の促しに、ゆうみが隣に並ぶ。
「で。なにを迷っておるのだ」
「それは………」
新はうさぎが、最後のカケラの持ち主であることを知っている。
恐らく新だけではなく、うさぎにだってバレている可能性がある。
それだけゆうみは、哀れなほど挙動不審だった。
階段を下がり、下駄箱へ向かい、校門を出てもゆうみは無言だった。
それに続く言葉が、見当たらなかったからだ。
うさぎに嫌われているから、お守りに疲れたのだろうとか、受験があるし、ここで精算して終わりにしたかったから。
少し考えればいくらでも、答えは出てくる。
だから、ゆうみは答えられなかった。
「分からないといって駄々をこねるでない。はい、練習」
「いや、ごめんねじゃ、違うし。更正するにも何をやればいいのか分からないし。うさぎのカケラが私に対することだったら、全部を変えなくちゃいけなくなるでしょう?受験のことや将来のことだったら、私だって助けてほしいぐらいだもん」
どこかで言った気がする。
自分を正当化したいわけではないのに、こんなことしか言えない自分が腹立たしい。
どうすれば、どうすればと考えれば考えるほど、ゆうみの口が重くなっていく。
「御巫殿が宿すカケラはそなた関連であって、あやつ自身が解決するものじゃ」
地面からの熱がじりじりと下半身を炙っていく。
吹く風も光も、今までの比はないほどに強く、暑い。
顎から汗が伝って、脇の下にも汗が染みてくるのが分かる。
歩くだけで、思考が奪われて、考えにくいそれが余計に困難なものへとさせる。
「なぞなぞじゃない。私は必要ないってこと、ではないとは思う?」
うまくしゃべれない、考え方がまとまらない。
独り言のようなゆうみの言葉に、新は何も言わないまま黙って歩く。
ゆうみの考えが、まとまるまで口を挟むことをしない。
それは彼がゆうみ以上に彼女のことを、分かっているからに他ならない。
ゆうみ自身が気づいて、語らなければ言葉は力を持たないし、カケラも出現しない。
「それは分からぬ。本人に聞けばよかろう。今までと一緒じゃよ」
ちゃちゃのある交差点へ行き着く、新はようやくゆうみの方を見た。
確かにこれまで通り、カケラを手に入れるためにうさぎの元へ行かねばならない。
だからと、意気込めればいいのだが、ゆうみにはそれが出来なかった。
うさぎに言われた一言が、頭から離れない。
だからといって、頭を真っ白にしている場合ではないことは分かる。
「ではなにを、戸惑っている?」
戸惑っている理由はそれだけではないと、ゆうみは思う。
もしこれで、失敗してしまったならば、うさぎを失うことになるから。
それがゆうみの戸惑う理由だった。
たった一人の友達を、一生失うかもしれないという恐怖が、ゆうみに二の足を踏ませていた。
初美や美幸の時とは違うのだ。
「ちゃんとね、向き合いたいって思う、かな」
「ほう。進歩したのう」
信号機が赤から青へ変わる。
車の通った熱風で、顔が炙られていた。
それのせいなのか分からないが、ゆうみの頬に熱が溜まる。
大切にしたい、うさぎと繋いだ手を離したくはない。
あのとき、うさぎと仲を保とうとして全速力で走ったあの日が過った。
息切れを起こして、お腹だって痛くなって、くたくたになっても、会いに行った。
「分からないけど、たぶん、きっとうさぎにたくさん、迷惑かけた。ちょっと驚いちゃったけど、ちゃんと伝えないと」
「こんなところで、俺にタンカ切れる度量はあるくせに、なぜ本人に言えんのだ?お主は」
「そういうもんでしょうが………」
ちゃちゃの前で新が、肩を竦めた。
ゆうみは頭が朦朧としてきたが、必死になって地面だけを見て歩く。
「まぁ、カケラが集まれば俺はお主とさよならだな」
「はい?」
思わず立ち止まって、数歩先を行く新の背中が見える。
揺れているのは自分なのか、それとも目の前の世界なのかが、分からなくなる。
「当たり前じゃろう?そういう約束だ」
ニコッと何でもないように振り返った新の不適な笑みに、ゆうみは足下から崩れていく感覚があった。
そんなことを思い出しもしなかった自分が恨めしかった。
何でも無いことのように、自分と離れて清々するとばかりの新の笑みに、腹が立つ。
いや、それ以上に。
自分の頬を流れるこの涙は、一体何だというのだろうか。
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