22 動揺の『テニスの王子様』 05
朝。
ゆうみは重い頭を擡げながら、ベッドの上で唸った。
体が、心が、重い。
それでも上半身を起こし、ベッドから下りると立ち上がる。
ふらつく足下を叱咤しつつ、緩慢な動作で自分の机を見やった。
そこには文庫本サイズのメモ帳が置かれている。
カバーは厚手で、多少表面が濡れても大丈夫という代物。
普段のゆうみが買う安いものではなく、ちゃんとした作りのそれ。
ゆうたからここに、気づいたのを書いておけばいいと渡された。
それを首から提げておいで、と。
渡された時は、小さい子供みたいと言ったが有無を言わさぬ笑顔に負けたのだ。
そんなことをつらつら考えながら朝の支度を整えていく。
メモ帳を手に取り、首から提げる。
目立たないよな、とメモ帳をいじくりながら、恥ずかしさで制服の内側へ滑らせた。
見られて色々と言われるのを避けたかったし、何より昨日の今日だから余計なことで、頭を悩ませたくなかった。
いつものように、朝食の準備をするなか、新の姿がまだないことに気づいた。
新は、三食ウチで取っている。
野暮用で戻っているとのことだったので、夕食時にゆうたが新に連絡を取っている。
心配でゆうみも電話したが、出なかった。
新用に残していた夕食が、きちんと洗われて、乾かされているのを見て取る。
「戻ってきて、また、行ったの?」
ゆうみの言葉を裏付けるように、新の姿はどこにもない。
居間のテーブルの上に、メモが置かれている。
気づかなかった、と思いながら手に取ると、今日は学校へ行けないとのこと。
理由については明記されておらず、素っ気ない。
一人で学校に行けと、あいつは鬼かと毒づく。
ゆうみは制服の上から手帳を握りしめる。
たとえ足がすくんで、恐怖で泣き出したとしても、行かなければならない。
もし、ここで学校へ行かないという選択肢をしたら、一生行けなくなる。
外を歩けなくなる、いやそれ以上のことになりそうで怖かった。
「おはよう、ゆうみ」
「ゆうにーちゃん。おはよう」
起きてきたゆうたに顔を向けると、彼はほにゃほにゃした笑顔で洗面所へ向かう。
何か言われるかと身構えたゆうみを素通りしていくゆうた。
見えなくなってから、ゆうみは深呼吸した。
「がんばろう」
あとは、やるしかない。
**
足が震える。
何度も深呼吸しても、高鳴る鼓動はちっとも落ち着かない。
不審なほどゆうみは、一人、学校の廊下を歩いていた。
普段、一緒に登校するうさぎの姿は待ち合わせ場所におらず、その意図する所は明白だった。
初美が、ゆうみの一人にするためにしたことだ。
他のクラスメイトも同罪と考えるのは、おかしなことだろうか。
当然のように、新の姿もない。
そしてゆうみには、初美を含めたクラスメイトに勝てるモノはなにもなかった。
いくら言ったとしても、伝わらないだろう。
無駄に終わるかもしれない。
だとしても、今まで一緒にいたうさぎとこのままになってしまうのは嫌だった。
やがて、ゆうみは自身の教室へと辿り着く。
扉越しに聞こえるクラスメイトの笑い声、机の椅子が鳴る音、ノート類を捲る音。
それらが洪水のようにゆうみへと襲いかかる。
翻弄される、逃げ出したくなる。
でも。
ガラっ。
勢いつけて教室のドアを開けた。
思ったよりも大きな音に、自分で驚くよりも前に、目の前へ広がった光景に息を飲んだ。
あれほど騒がしかった教室が、一瞬にして無音となる。
誰も彼も動きを止め、教室の入り口に立ったゆうみを見ていた。
ゆうみは、両手のひらを握りしめ、やや俯き加減に歩く。
自分の机へ向かう僅かな距離が、異様に長く感じられた。
一歩一歩踏みしめる床の感触が足先から伝わり、じわじわと体温を奪っていくよう。
「っ………」
うさぎの姿をその中に見つけたゆうみは、ぎこちなく微笑んだ。
あまりにもぎこちなく、頬が引きつっているゆうみのそれを。
うさぎは答えようと手を上げた中途半端なところで、慌ててその手を後ろ手に隠した。
視線を元に戻すと、ゆうみは長かったように感じる自分の机へ辿り着く。
そこにあったのはゴミだった。
鼻をかんだティッシュ、赤い文字でおどろおどろしく書かれた卑猥な単語や死の言葉が彫刻刀で彫られている。
そして、零された牛乳や椅子の上の画鋲。
ゆうみの机の上にあったのは、クラスメイトからの、無言の、悪意。
それに対してゆうみが思うのは手間がかかっているということだけ。
こんなことをわざわざゆうみのために、施し、その反応を伺うクラスメイトたち。
「なに、これ?」
「なにって見ての通りじゃない。分からないの?あなた、バカじゃないの」
いの一番に声を上げた初美に、ゆうみは知ってる、分かると適当に相づちを打った。
「机をさ、ここから落とすとかの方が楽だったんじゃない?こんな手間暇かけてさ、無駄じゃない?」
初美の顔が朱に染まる。
バカにされるとは思っていなかったようだった。
「後片付けめんどうっていうことしか思わない。あと、殴るとか蹴るとか無視とか慣れてるし、そんなものでいいんだって思う。ねぇ、みんなを巻き込んで楽しい?」
体の震えを、全力でゆうみは押しとどめて初美を睨み付ける。
クラスメイトの視線が二人に集まり、やがて波が引くようにさざめく。
「私たち、中学三年生だよ。こんなことして内申点で落とされたらみんなが迷惑する。そうじゃないの?あとさ、私を無視することは全然構わないし、してくれて。いいと思う。だって、それは学校を卒業したあともきっと社会に出てから必要になってくると思う」
ゆっくりと、つっかえることのないよう、ゆうみは話し出す。
感情が高ぶらないようにして、昨日の夜にゆうたと話したことを語る。
ただひたすら正論を言うだけ。
たった一人になっても、一人ではないと分かったから。
「だから。私から言うのは。合法無視をお願いしたい。クラス内での報告ごとや日々の日直とかそういうのだけ、教えてほしい。他のは一切、話しかけなくても構わない。どう?あなたたちのお願いは全部、通るわ」
「冗談じゃないわよ!あんた、バカなんじゃないの!!」
「そうだよ。わたしはバカだよ。それに、バカにバカって言わない方がいい。もう、分かっているから。そして、吉田さん。あなた以外のみんなも私をバカだと思っているなら、言う必要はない。でしょう?」
ひるまず、見返すと初美は黙った。
他のクラスメイトからは、そこまでしなくてもいいんじゃない。わたしたち、そこまで思ってないし、ほら。ねぇ。
ゆうみは聞いたことのあるセリフに、内心辟易しながら唇を引き結ぶ。
自分がクラス内の必要事項だけお願いすれば、無視してもいいと宣言した。
バカだと分かっているなら、皆の承諾も得やすいと考えた。
他のことがもし、起こったとしても、言い訳がたつ。
それに、最初に声をかけた初美が矢面に立てられたことで、ゆうみを援護する人間が出てもおかしくはない。
だって、ゆうみが言っていることは当たっている。
自分たちは中学三年生の受験生。
ここでもめ事を起こそうものなら、これ以上の厄介事を抱え込まなければならなくなる。
今まで何もなく、やってきたのを初美がひっくり返したのだと考えれば。
もし、初美を擁護する者が現れたとしても、その前にゆうみが言わなければならないことがある。
「私は、吉田さんが好きだよ。他のクラスメイトの人たちとも私は、仲良くなりたい」
「!!」
金魚のように口をぱくぱくする初美を、ゆうみが今度は無視をする。
でもこれは、ゆうみの主観的な考えだし、昨日ゆうたに話したら首を傾げられた。
この意味不明な空間に、初美を含めた全員を巻き込ませればいい。
「だから、みんなにお願いする。私はこのとおりバカであほでどうしようもない。それはみんなだって分かっていることだし、迷惑なんだよね」
断定的に言って、みんなを見渡せば誰もゆうみと目をあわせはしない。
「分かっているならあとは簡単。言ってほしい。面と向かって、あとでグチグチ言われるのは困るし分からない。ここではっきり、あなたたちに言っているのはどうしてか分かる?御巫さん」
「えぇ!!わたし!!!?」
急にうさぎを名指ししたのは、ただ単純に思いつきだった。
慌てふためくうさぎを、ゆうみが見返しているとえっととおぼつかない返事が返ってきた。
うさぎには珍しく、発する言葉に迷いがあった。
「なんで、かな?えーと、わたしたちがあーだこーだ言ってくるからかな」
迷っていても正解だから、うさぎはいいとゆうみは思う。
「そう。言いもしないのに文句を言うのは卑怯。言いたいことがあるなら、その場で言って。それでも言いたいというなら、私をクラスから追い出したいというなら、全員が校長に直談判すればいい。他にもやりようがある。そこまですれば、マスコミだって動き出す。さぁ、日本全国民を相手にする覚悟はある?」
何もそこまでは、なぁ。しないし、いや、誰だよ、こんなことやろうってしたやつ。
ざわざわと互いになすりつけが始まっているが、ゆうみは知ったことではない。
むしろ、どうでもいい。
ゆうみは、つかつかと皆を押しのけて教壇へ向かうと、その机を平手うちした。
「さぁ、話し合いましょう。この先、わたしをどうしたいか?合法無視をしたいのか。この先行きを今、ここで!議論しましょう!!!!もし、めんどくさいという人がいるなら、出てって構わないしすればいい。それがあなたの判断とこちらはします。もし、私がその人に話しかけた場合無視をしたら、何度でも何百回でも肩も叩くし、服を引っ張ることを許可したものとします!」
「むちゃ、くちゃ、だ」
「むちゃくちゃ、だと思うのなら話し合いましょう!!さあ、一時間でも二時間でもやりましょう。担任に授業を中止してもらうよう掛け合ってきます!」
やるなら、とことんやってやろうと思う。
彼らがどこまで自分という存在との話し合いをつけるか、はっきりさせたい。
そして、全員の視線を無視してゆうみは、職員室へ向かうためにきびすを返した。
「待って!」
そう言ったのは、クラスメイトのだれか。
ゆうみは、わざとゆっくりと振り返る。
クラスメイトが、ゆるゆるとお互いを見やって、話し合いに応じたのはそのすぐあとのことだった。
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