第6話 四女ジャスミン・上
時はさかのぼり、ミーリアがドラゴンスレイヤーを叙勲してから数十日が経過した頃――
アトウッド領の名物であるラベンダーからは、つぼみが顔を出し始めていた。
次女ロビンはそんな領地内に延々と続くラベンダー畑を忌々しい表情で見つめ、チッとレディらしからぬ舌打ちをした。
ミーリアが王都へ出発してから数か月。
今でも、去り際に言われた「さよなら。浮気出戻りお姉さま」、という言葉が頭の片隅にこびりついていた。
さらに、あのときかけられた金縛り魔法が解けるまで十二時間ほどかかり、ロビンは教会でカチコチに固まったまま、尿意と戦う羽目になった。どうにか失禁は免れたが、魔法が解けた瞬間にお手洗いへと駆け込んだときの、神父のいたたまれない表情は思い出すだけで腹にすえかねる。
魔法が使えることを黙っていたミーリア、それを知っていたであろうクロエ、試験官としてやってきたアムネシアとか言う騎士――全員が憎らしかった。
ロビンは黒髪に小さな宝石付きの髪飾りをつけ、小綺麗なドレスを身にまとっている。ログハウスに毛が生えたようなアトウッド家のキッチンに相応しい恰好ではなかった。一人だけご令嬢ごっこをしているような、不自然な服装だ。
自分だけがこの家で特別だ。
そう思い込んでいるのか、ロビンはミーリアとクロエの存在を思い出して、ギリギリと奥歯を噛みしめた。
「ぼんやり七女の分際でぇ……」
ロビンは思い出したら腹が立ってきて、手に持っていた肉叩き棒を、ダァンとテーブルに叩きつけた。
「ひゃあ!」
隣で鹿肉を紐で巻いていた四女ジャスミンが悲鳴を上げた。
突然真横で爆音を鳴らされ、何事かとロビンを見上げる。
「何よ? 文句でもあるのかしら? この穀潰し」
「……」
「何とか言ったらどうなの? ほらほらほら、何とか言いなさい」
ロビンが肉叩き棒でぽこぽことジャスミンの頭をリズムよく叩き始める。
「……ぅ、……うっ、……っ」
力は強くないが、肉叩き棒が硬いのでそれなりに痛い。
鹿肉の湿り気を帯びた棒で叩かれる不快感と、屈辱が胸の内に広がっていく。
ジャスミンは無抵抗のままじっとしていた。
今年で十七歳になるジャスミンは背が低く、視力はぼんやりと物を認識できるほどしかないため、室内で手作業ばかりやらされている。運動らしきものをした覚えがなく線が細い。反撃しようにも、百七十cmあるロビンとは体格が違いすぎた。
ミーリアがいなくなってからは、攻撃の的がジャスミンに一人になっている。
こうやって二人きりのときはやりたい放題にいびられるので、ジャスミンのストレスは尋常ではなかった。
ジャスミンがラベンダー色の髪で目元を隠しているのも、ロビンにとっては気に食わない材料の一つらしい。攻撃に拍車がかかっている。
「あんたの髪を見てるとミーリアを思い出すのよ。全部剃って売り払おうかしらね? 銀貨三枚ぐらいにはなりそうじゃない」
ジャスミンは背中に氷を入れられたみたいに、ひやりとした。
この次女には常識が通じない。
やると言ったら、本当にやりかねなかった。
「あらぁ、紐が曲がってるじゃないの。目が悪いからって適当にやってるんじゃないの?」
ロビンは燻製用に紐を巻いていたジャスミンの鹿肉を見て、ぽこんと頭を強く叩いた。
「――ッ!」
目の前に火花が散った。
ジャスミンは涙目になって、頭を押さえた。
目が悪いのは自分のせいではない。
「あんたって本当に無口よねぇ。ミーリアとはこそこそ話してたじゃない? どうせ私の悪口でも言ってたんでしょう? どうなのよ?」
ジャスミンの担当してた鹿肉をべちんと棒で叩き、ロビンが腰に手を当てた。
「ああ、ミーリアに会話する頭なんてないわね。あの子、バカでぼんやり七女だものねぇ」
「……」
ジャスミンは何も言わない。
黙り込んでいるジャスミンを見て、ロビンはまた腹が立ってきたのか、棒を振り上げた。
「……!」
ジャスミンの視界にぼんやりではあるがロビンが腕を上げる動きが見えたので、身を固くして後ずさった。
「本当ははっきり見えてるんじゃないのぉ?」
おびえる四女を見て満足したのか、ロビンはにやりと笑って肉叩き棒の先をジャスミンの顎に添え、くいと持ち上げた。
うつむいていたジャスミンの顔が上がる。
長い前髪が、はらりと左右に分かれた。
「綺麗な瞳だこと。嘘ついてるんじゃないでしょうね? んん? 自分だけ楽しようって思ってるんでしょう? 出歩くときは使用人のばあさんと一緒じゃない? いいご身分ねぇ?」
「……」
「ああ。どうせ見えないなら、いっそ目玉をくりぬいて、物好きな貴族にでも買ってもらいましょうか。そのほうがこの家の利益になるわね」
ロビンは名案だと、肉叩き棒をジャスミンの顎から離し、腕を組んだ。
「そのお金で王都に行きましょう。いい男をつかまえて贅沢に暮らすの。私がこんなクソど田舎にいるのはおかしいわ。ねえ、そう思うでしょう?」
「……」
「はあ、コッコにでも話しかけたほうがまだいい反応するわよ。つまらない」
卵を産む鳥の名前を出し、ロビンが呆れた顔をした。
ジャスミンは「つまらない」と言われてほっと安堵する。
大体のパターンで、つまらない、という発言がいびりの終わりなのだ。
だが、今日は違った。
ロビンは何を思ったのか、思い切り腕を振りかぶり、バチンとジャスミンの頬を叩いた。
「――いっ!」
あまりの衝撃と不意打ちに、ジャスミンは床に倒れこんだ。
視界が赤黒く明滅して、耳の奥がキーンと鳴った。
ジャスミンは頬を押さえ、立ち上がろうとする。このまま倒れていたら、きっと蹴られるだろうと思った。ジャスミンの頬は真っ赤になっていた。
「ああああ! イライラするわね! なんで私がこんな家にいなきゃいけないのよ!」
癇癪を起してロビンが床を踏みつけた。
すでにジャスミンの姿は視界に映っていないらしい。
ロビンは肉叩き棒をつかんで床に叩きつけ、足を踏み鳴らして家から出ていった。
「……」
ジャスミンはゆっくり立ち上がった。
まだ頬が痛くて、耳の奥がキンキンと鳴っている。
ぼやけて見えるテーブルの縁に手を伸ばし、手探りでつかんで寄りかかった。
「……ミーリア……元気かな」
ジャスミンはぽつりとつぶやいた。
ミーリアは八歳の頃から雰囲気が変わった。
ロビンにいびられそうになったとき、さりげなく助けてくれるようになった。
それとなく話しかけてくれるようになった。
会話自体は「……今日はいい天気」「そうだね」というような、そんなたわいもないやり取りであったが、地味で視力の悪い自分に注目してくれたのは、ミーリアだけだった気がする。
思えばロビンに叩かれたあと、ふっと痛みが和らいだのはミーリアの魔法のおかげかもしれない。
ミーリアがぼんやりしてるのは演技ではないのか?
そう思ったのは一度や二度ではなかった。
「……」
ロビンが主に手をあげるのは、ミーリアとジャスミンであった。
クロエは反論してくるため苦手だったらしい。
弱い者をとことんいじめ抜く、性根の腐った女だと、ジャスミンはロビンを評価している。
「――ジャスミン、ロビンはどこに行ったの?」
頬の痛みが引くのを待っていると、母親エラが家に戻ってきた。
ぼやけた視界に母のラベンダー色をした髪が映る。
「……姉さまはどこかへ行かれました」
「そう……」
母親エラは、ジャスミンの赤い頬を見ても、何も言わない。
ジャスミンはなぐさめてくれることを期待したが、事なかれ主義の母親に期待するのは間違いだとあきらめ、調理台に置いてある鹿肉を手探りで探し、紐をしめる作業に戻った。
「戻ってきたら、ラベンダー小屋に来るように伝えてちょうだい」
「……わかりました」
母親エラが家から出ていき、庭にある小屋のほうへと向かう足音が響いた。
ジャスミンは、鹿の血で湿った紐を握り、肉を巻き始めた。
二年前、クロエが王都に行ってから、アトウッド家の空気は悪くなったように思う。そのあと、五女のペネロペがクルティス家へ嫁ぎ、さらに家の状況は悪化。最後のダメ押しで、ミーリアが魔法使いとして王国女学院に合格し、家を去った。
家の空気は過去最悪の状態だ。
ジャスミンは、息をひそめるように生活している。
目立たず、静かにしていれば、誰からも何も言われない。
ジャスミンにとって、それが自分にできる最大の処世術であった。
なぜこの家に生まれたのだろう。
なぜ自分は目が悪いのだろう。
貧乏でもいいから自分を大切にしてくれる男性に嫁いで、子どもを何人か生む。そんな、普通の幸せは、何年も前にあきらめた。
「…………」
視界がいつもよりぼやけて、熱いものが頬をつたう。
ジャスミンはロビンに泣いている姿が見つかってはいけないと、あわてて袖で涙を拭った。
ひっそりと息を殺して生きていく。それが自分にできる唯一のことなのだから。
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