第7話 アトウッド家の夕食

 

 黒い物体が皿に置いてあった。


 その横にレタスっぽい野草が添えてある。


 スープには小さな肉が浮かんでいた。木製コップには水だ。


(黒パン? 朝食べたものより小さくない? スープに色がついてないし……なんかスープに肉の破片が浮かんでるけど)


 食欲をそそる夕ご飯ではない。

 一方、領主アローンの前には焼いた肉の塊が置いてあった。


「デニスの森で狩った鹿だ。俺よりもでかくてな、大岩を一足で跳ぶ大物だったぞ。どうだ、うまそうだろう」


 遅い、と言った割にしゃべり出したアーロン。

 自慢げに自分の前に置かれた鹿肉を見せつけ、隣にいる婿養子アレックスを見た。


「アレックス、お前もしっかり食べて精をつけろ」

「はい、アーロン様」


 クロエ、ミーリアからロリコンの評価を受けている婿養子アレックスが人の良さそうな笑みを浮かべた。

 彼の皿にも肉が置かれている。


 アーロンとは対照的にアレックスは線が細く、くすんだ赤髪、そばかすが頬に散っていた。どちらかと言えば文系男子に見える。それでも毎日狩りに連れて行かれているため、日焼けして精悍に見えなくもない。


 ミーリアは婿養子アレックスの笑顔が不気味に思えた。


「ボニー、まだなんだろう? お前も残さず食べろ」

「……はい」


 子どもを作れと毎日せっつかれている二十二歳の長女ボニーが消え入りそうな声でつぶやいた。

 彼女の皿にも三切れほど肉があった。


 他の皿に肉はなく、長女ボニーが愛想笑いを向けると、場の空気が急激に寒くなった。次女ロビンですらしかめっ面になりそうなのを堪えている。気づいていないのはアーロンぐらいだ。


「食べるぞ」


 それだけ言って、アーロンが肉にかぶりついた。貴族というより山賊の大将と言ったほうがいい食べっぷりだ。挨拶もない。


 横目で見た妻エラが、セリス教の文言、「――セリス様の御慈悲に感謝を」と小声で唱えてスプーンを手に取ると、他の面々も三々五々つぶやいて食べ始めた。


 会話など一切ない。

 一家団らんなど遠い夢物語に思える鈍重な空気だ。


(毎日狩りに行くならお肉食べさせてよ)


 ミーリアは不満を漏らしつつ黒パンにかじりついた。


(硬ぁっ! 石ですかこれ?! う…………ううっ、歯が痛いッス……パイセン……)


 あまりの痛みに後輩的な発言を脳内でするミーリア。

 一体誰が誰のパイセンなのだろうか。


 問題なのは、朝食のパンよりも硬いことだ。

 仕方なく薄いスープに浸してかじる。それでも硬い。ミーリアは黒パンをスープに浸してぐるぐるかき混ぜた。こうでもしないと、とてもじゃないが噛み切れない。


「――ごほん」


 斜向いにいる母親がじっとりした目線をミーリアに向けていた。


 クロエがあわてて肘でつついて、ようやくミーリアが顔を上げて無作法に気がつき、すぐパンでスープをかき混ぜる行為をやめた。


(八歳児の顎じゃ食べられないよ)


 黒パンはスープに浸したままにすることにした。これにお咎めはないらしい。

 だが、母親エラの隣に座る次女ロビンがハンカチで口を拭き、


「お下品ね」


 と嫌味ったらしくつぶやいた。

 彼女は硬い黒パンをお上品に歯でこするようにしてかじっている。


 仕立ての良いドレスワンピースと黒パンの組み合わせが歪で、ミーリアは一瞬呆けてしまった。ロビンはそれを愚鈍な反応と捉えたのか、わざとらしくため息をついた。


「お父様、チビの食べる分は二日に一食でいいのでは?」

「あ? ああ、そうかもな」


 肉をかじっていたアーロンが無骨な顔を上げた。

 アーロンはあまり話を聞いていなかったようだが、次女ロビンが苦手なのか、目を合わせず曖昧に返事をしている。

 急な話の展開に、ミーリアはロビンとアーロンの顔を交互に見ることしかできない。


「そうですわね。何の働きもしていない人間が食事をするなど言語道断ですわ。では、七女ミーリアの晩ご飯は――」


 ロビンが口の端をゆがめながら言おうとした。

 そのとき、だんまりを決め込んでいたクロエが大きく口を開いた。


「ミーリア、顎が痛くなるからいいのよ。パンをちゃんと戻さないと。ね? こうしてスープにつければ柔らかい状態に戻るから」


 領主アーロン、アレックス、母親、ロビン、四女、五女はめずらしく大きな声を上げたクロエを一斉に見つめた。


「戻るのよ」

「戻るの?」


 驚いてミーリアは思わず聞き返してしまった。


「ええ、そうよ」


 クロエが笑顔を真顔に切り替えて、次女ロビンを一瞥した。


 戻る、というフレーズはアトウッド家では禁句である。


 次女ロビンが近年王都付近の貴族たちでも滅多に耳にできない「正妻が浮気して離縁されて出戻り」という、大変不名誉な記録を作ってしまった。田舎貴族同士の婚姻であったため王都にはまだ漏れていない情報であるが、いずれ醜聞は強風に飛ばされる綿埃のごとく伝播するであろう。

 貴族とは噂社会でもあった。


「………っ!」


 ロビンは持っていた黒パンを持ったまま顔を真っ赤にして震え始めた。


「柔らかく戻った?」


 クロエが黒髪を耳にかけながら、ミーリアに尋ねた。


(戻る、戻る……あ、出戻り…………クロエお姉ちゃん、わざと……!)


 気の強そうな次女ロビンに睨みつけられて、冷や汗と苦笑いが止まらない。

 このまま貝になってどこかに消えたいとミーリアは切に思う。


「おいクロエ。戻るなんて言うな。気を使え」


 領主アーロンがフォークを肉にぶっ刺して片手を上げ、さも得意げに言う。デリカシーのなさは指折りであった。


「そうですよ。アーロン様の言う通りです」


 腰巾着よろしく、婿養子アレックスが便乗して話に乗っかった。

 婿養子も、肯定することが次女ロビンの醜聞を認めていることに他ならないことに気づいていない。

 ロビンは恥の上塗りをされ、思い切り舌打ちをした。


「アレックス様は黙っていてください」

「あの…………失礼」


 ロビンがじろりと視線を向けるとアレックスが押し黙り、アーロンが居心地悪そうに「静かにな」と締めくくって、肉にわざとらしく集中する。


「申し訳ございません。以後気をつけます」

「ごめんなさい」


 クロエが会話の間隙を縫って謝ったので、ミーリアもそれに倣った。

 しかし、どうにも二人の息の合った行動が癇に障るのか、ロビンは腕までぷるぷると震えていた。


(晩ご飯抜きは回避したけど……)


 クロエの機転はありがたかったものの、その後の食卓の空気は最悪だった。


 目を合わせると睨んでくる次女ロビン、肉をかじっているアーロン、失策にようやく気づいて押し黙る婿養子アレックス、終始落ち込んでいる長女ボニー。我関せずの母親エラ、四女ジャスミン、五女ペネロペ。無言を貫くクロエ。


 死神が鎌を投げ捨てて地獄へ帰りそうな凍てついた食卓だった。


(ご飯抜きのほうがマシな気が……。それに、本気でメシマズだし……)


 気を紛らそうにも、夕食の味はお世辞にもいいとは言えない。

 手をつけた野草は苦味がひどく、スープをすすると、薄い塩っけと動物っぽい肉の匂いが鼻腔に広がる。

 野性の風味がほとばしっていた。


(中二のときお婆ちゃんに連れて行ってもらったジョジョ園の焼き肉が恋しいよ)


 日本で最も有名と言っても過言ではないジョジョ園。

 ランチタイムは一般人にも手の届く価格帯で、ミーリアは祖母と一度だけ焼き肉定食を食べたことがあった。

 祖母は中学生だったミーリアの笑顔が見たくて、生活費を削って年金をこつこつ貯めていたらしい。


 ジョジョ園は、ほっぺたが落ちて天国に登りそうな世にも素晴らしい体験だった。


(ほっぺたが引きつって地獄の谷底に落ちそうな晩餐だよ)


 無表情で黒パンをかじるミーリア。


 小麦が栽培できないアトウッド家領地で、毎日パンが食べれるのは領主だけだ。

 そんなパンも、ふわふわの食パンではなく、栄養価の高い雑穀を混ぜて焼いた黒い物体だった。


 いよいよ掲げたマニフェスト「YES焼き肉、NO結婚」への意志が強固になるミーリアであった。

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