第9話

 雪はいつの間にやらその勢いを無くしており、歩くのに邪魔にはならぬ程度になっていた。

 少女が雪に混じる声に気付いたのは、トイレから小屋に戻る最中さなかである。

「おうい――ろ――だ――」

 よく聞き取れない。だが、抑揚のない穏やかな声は、あのおじさんのものだ。声はそう遠くない、少女が今し方出てきた簡易な屋外トイレの裏から聞こえてくる。


「おじさん?」

 そうして覗き込んだ少女は見てしまう。仰向けに倒れた男と、男を押し倒し押さえつける格好で、その腹を割き、肉を喰らうクマの姿を。


 先も触れていた通り、少女はそのクマについて知っていた。ワライグマ。ツキノワグマであれば胸にある三日月型の斑紋が口にある為、笑っているように見える小型のクマ。事前に調べた際にともすれば愛らしい印象さえ受けたそれは、今男の巨躯を軽々と押し倒しており、軽く見積もっても180cmは超えている。口元の三日月は男の血で赤く染まり、一心不乱に肉を貪る眼はけだものという言葉を想起させた。

「逃げろ、クマだ」

 少女が近付いてきたことに気付き繰り返す男の言葉は―皮肉にもそれは全くの逆効果となった―状況とあまりに似つかわしくない程温和であった。

「ぎゃあああああああ!」

 少女の叫びが雪に響く。


 クマは、臆病な生き物である。故に、突発的に出会ってしまった場合、特にそれが食事中であった場合、大声を出すのは本質的に悪手である。驚いたクマが激昂し、襲ってくる可能性は非常に高いからだ。


 今回もその例には漏れなかった。クマは唸り声を発しながら、少女を襲わんと腕を振り上げる。恐怖に固まる少女。


 クマの注意は一時、倒れた男から完全に逸れた。彼にとって、男は既に討ち果たした獲物。息があることは分かっていても、経験上、血に塗れたそれはただ死を待つだけの肉に過ぎない。クマがゾンビを知らなかったことが、2人にとって幸運だった。


 男は、クマの足から解かれた右手で腰に付けていたナイフを引き抜く。そして彼が気付くより速く、刃をその鼻先に突き立てる。

「ぐるぅああああ!」

 不意の一撃に、クマは呻き、そして茂みの中へと逃げ去っていった。危機から脱した、との判断も疎かに、少女は男に駆け寄る。

「おじさん!」

 大丈夫、と言おうとして言葉に詰まる。血だまりの中はらわたを抉られた男の現状から、あまりにかけ離れた言葉であったから。しかし男はあまりにものどやかに言葉を返した。

「ああ、大丈夫だ。大丈夫だからすぐに離れろ」

 少女はかぶりを振り、男を抱え起こす。

「おいやめてくれ、離せ」

 男は少女を振り払うが、そのまま崩れるように倒れてしまう。男の足は、先のクマに乗られた際に折られていたのである。少女はそんな男に再び駆け寄り抱き起こす。男の血が少女の服に染みを作る。

「馬鹿野郎、クマは一度獲った獲物に執着する。俺はもう狙われてるんだ、置いて小屋に帰れ」

 少女は答えず男に背を向け、おぶうように背中に乗せる。なおも少女を振り払おうとする男であったが、少女の口から漏れる嗚咽に気付き、その手を止める。

「ごめん。ごめんね。ごめんね」


 呟くような詫び言と共に零れる涙を、男は知っていた。少女のように自分の生を当に諦めておきながら、他の理不尽な死をおのが責と捉え、涙した身勝手なかつての戦友を。男の巨体を引きずるように運ぶ少女の背はあまりにか細く、男の膂力を持ってすれば振り払うこともできただろう。だがしかし、男が小屋への帰路を拒んだとして、恐らく少女は動けぬ男との心中を選んでしまう。そこを先のクマに襲われては最悪だ。

 ――否。本当に最悪なのは、少女に自分を見捨てさせてしまうことだ。恐らくそれは、少女にとって癒えぬ傷となる――それこそ、彼女がその後自死を選んだ

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