第3話
男と少女は、仄暗い森の中を歩いていた。男の方が歩幅が広いので、自然少女が男を追う形となる。
「もし、俺がゾンビだったとしても、だ」
男は振り返らずに、マスク越しのくぐもった声で話す。
「咬んでいいなんて言うもんじゃねえぞ。俺は目の前で生きながらゾンビになった奴を何人も見てきたが……何と言うかな、気持ちの良いもんじゃないのは確かだ」
「おじさん、軍人だったの?」
ゾンビがファンタジーから抜け出し現実に出てきた、とは言っても、その実、その姿を目にしたことのある者は稀である。これは、ゾンビウイルスの、生物化学兵器としての残虐性に由来する。道徳的観点から未だその使用について議論がなされているゾンビウイルスは基本的に民間人を巻き込みかねない場では使われない。少女が男に軍人なのかと尋ねたのは、そういった事情からである。一呼吸置いて、ああ、と男は肯定する。
「じゃあ、あたしがゾンビになりたいって言ったら怒る?」
男は、乾いた笑いを口にした。
「死にたい、じゃなくてか?」
沈黙した少女を背に、男は歩みを止めぬまま続けて言う。
「この季節に樹海に入ろうなんてのは、自殺志願者だけだぜ」
「じゃあ、おじさんは?」
「俺か?俺は、アレだ」
そう言って男が指したのは、前方の空。しかしその先は鬱蒼と茂った木の葉に阻まれている。男はそれに気付いて言い直した。
「あーほら、ここに来るまでに見えてただろ、この道を真っ直ぐ行くと、山の麓に出る。俺は登山家だからな、冬山登山だ」
「あ、あたしもあたしも‼一緒に行く?」
「ハァ!?」
少女の無邪気な提案に、男は思わず目を剥き、立ち止まり、振り返る。
「ダメだダメだ。あのな。あの山は一流の登山家でも気軽には入れない場所だ。それをそんな軽装で行くのは、死にに行くようなもんだぞ?」
ふざけるな、と語気を強める男に、少女は口を尖らせる。
「だから行くんじゃない、おじさんさっき言ってたでしょ、アタシは自殺志願者だって。当たってるよ。あたしはここに死にに来たの」
自嘲的に笑いながら舌柔らかに喋る少女に、眉をひそめる男。少女はそれを感じ取り尋ねる。
「あ、やっぱり怒った?」
「何故俺が怒る」
「だっておじさん軍人なんでしょ?死にたくないのに死んだ人いっぱい見てきたんでしょ?だったら、だったら戦争が終わったのに死のうとするあたしは、多分面白くないでしょう?」
舌に任せて喋る少女の瞳に、男はかつての戦友を重ねた。生を、ひいては世界を諦め、死んでいった彼らに。そして同時に納得する。彼女の目に奇異に映っているであろう自分に物怖じせず話しかけ、不躾な物言いをするのは、不遜でも向こう見ずでも無く、既にこの世に関心を無くしているが故なのだろうと。男はその合点は顔に出さず、代わりに言う。
「いんや。だが、もったいないなと思っただけだ」
「もったいない?若さが?」
「いんや。ただ、あの山の頂上からの景色は最高なんだ」
「え?」
「前言撤回するよ。どうせなら見てからくたばれ」
男のマスク越しのくぐもった声に、トゲは無かった。
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