第48話 噛みつく

 それは唐突に空中から現れた。大きさは標準体型のヒトよりやや大きい程度だが、ヒトではない。大きな丸い頭部に胴体らしい物はなく、複数の脚か触手のような物が生えている。


 場所は麗華のオフィスである。一人でいた麗華の上から脚のような触手のような物たちがスっと降りて来て床を捉えると、一瞬フニャリとたわんで落下して来た衝撃を吸収して大きな丸い頭部を支えた。


 もちろん麗華のオフィスには天井があり、その上には上階のフロアがあるのだが、いったい、こんなに大きな物体がどうやったら目の前に突然降りて来れるのか?


 麗華はそんな事を考え巡らしたろうか? それは分からない。しかし麗華に覆い被さるように立ちはだかるそれは、暗い色のメタリックで硬質なように見えながら、表面が波打つように動く有機質な様子も見えて不気味だった。


 丸い頭部から複数生えている脚のような触手のような物のうち、いくつかの表面にボコボコとたくさんの丸い突起が現れてスっと切れ目が入ったと思うと開いた。開くと中に目玉があるのが見えた。


 現れたたくさんの目玉は波打つようなヌメヌメとテカる表面に現れたり潜り込んだりしながら触手の先端に移動して行き、それにつれて触手は空中に浮き上がるようにしながら麗華の方に伸びて行った。


 ヌラリヌラリと近づいて来た触手が麗華に触れそうな距離になった時、麗華は表情ひとつ変えずに素早くその触手を両手で掴み引っ張った。メタリックで硬質なように見えながらヌラヌラと有機的で弾力のある触手は、麗華が全力で引き裂こうとしても、まるで手応えがなかった。


 すると麗華は、彼女の最も破壊力のある武器となりそうな歯で触手にダメージを与えようとした。何のためらいもなく掴んでいた触手に噛み付いたのだった。


 最初、触手の表面は麗華の歯をくい込ませただけのように見えた。麗華は眉間に深いシワを寄せ、上唇をまくり上げて歯を剥き出しにして触手を噛み続けている。


 麗華の歯がくい込んでいる周辺では、豆粒のようないくつもの目玉が交互に瞬きをしていたが、やがて皮膚の中に沈み込みながら、丸く大きな頭部の方向に移動して行った。


 麗華は触手に噛み付いたまま、掴んだ両手で引っ張って、ついにその皮膚を引き裂き、麗華の腕にも顔にも触手から吹き出す体液が飛び散った。


 麗華が突然現れた怪物の触手にかじり付いていた時、麗華のオフィスから書棚で仕切られた向こう側では嶋がビーズ刺繍をしていて、金永はパソコンでショッピングサイトを何となく眺めていた。


 動画の作業を終えた瑞江は深いため息をつくと、麗華に確認してもらう為にノロノロと席を立ち麗華のオフィスへ行こうとしていた。瑞江の足取りは重くゆっくりだったが、やがてピタッと動かなくなってしまった。


 書棚の切れ目から出ようとする位置で動かなくなった瑞江の横には、以前『START』編集室に突然現れた時と同じに黒いスーツ姿の浅間がいた。憐れむような目で瑞江を見ていた浅間は、動かない瑞江の顔の前に手をかざしてクルリと手首を回した。すると瑞江は浅間の手の動きの通りにゆっくりと後ろを向いた。


 書棚の横で動かずにいる瑞江の前にある大きな事務デスクでは嶋と金永がピクリとも動かずにいる。


「さて、どうしたものかな」


 独り言を言いながら浅間が、瑞江たちのいるスペースから麗華のいるオフィスに顔を巡らせると、麗華も怪物の触手に噛み付いたままで止まっていた。


 麗華に触手を掴まれ噛みつかれている怪物も動きを止めていた。しかし、その姿はゆっくりとカスミのように消えようとしていた。


「どうしたものかな、ではないだろう」


 突然に響いた低い声に驚いた浅間が、声のした方を見ると、浅間と同じように黒いスーツの男が立っていた。


「昭島教官!」


 そう呼んで浅間は緊張した様子になった。龍蔵が山瀬と梨沙に語った昭島だった。


「時間を止めてまで干渉してどうするつもりだ」


「ですが、あんな怪物ですよ、地球の生き物ではありません」


 浅間に言われて昭島は改めて麗華と怪物を見た。麗華に噛み付かれ口の中に残った切れ端も、麗華の顔や手に飛び散った体液も、霧のように細かい粒子になって薄らいで消えて行こうとしていた。


「録画はしているのだろうな」


「はい、ドローン三基でロックオンしています」


 麗華と怪物の周辺には小さな昆虫がホバリングしている。それが浅間のドローンだった。


「怪物の姿が完全に消えるまで撮影したら、我々も引き上げる。これ以上干渉する必要はない」


 昭島が言うのを聞いて浅間の表情が安心したように緩んだ。


「教官はこの怪物をご存知なのですね?」


「いや、知らん」


 素っ気なく昭島が言うので、浅間は困惑した表情になった。


「では未知の怪物なのに」


「我々が知らずとも、関わりのない物はない。全て複雑に絡みあっているのだ」


 昭島と浅間は、怪物がゆっくりと消えて行くのを見送っていた。

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