第38話 暗闇
この数日間、山瀬は塞ぎ込み勝ちだった。それは山瀬の日常に新たに組み込まれた、梨沙と一緒に入院中の野呂に会いに行くという日課に関連していた。
野呂は事故当日の記憶は戻らないままなのだが、体の方は日毎に回復していて、それ自体はいい事だと分かっている。編集長である梨沙などは手放しでよろこんでいるのだが、それも当然の事だと思っていた。
しかし事故当日の様子から考えると、何か違和感があると山瀬は感じてしまうのだった。散乱したガラス片、血まみれになっていた野呂の姿、戻らない記憶。何か違う、具体的に分からないがこうでは無い気がしていた。
そんな中、山瀬宛に荷物が届いた。コウメイからで、簡単な作りの
「これ、どうやって使うの?」
山瀬はその場でコウメイにホットラインしたが、コウメイと開発をはじめたアレだとすぐに気がついていたし、頭の中には、少しでも早く試してみたい気持ちばかりが渦巻いていた。
「デモを入れてあるから、すぐに見れるよ、というか危険だといけないからテストをしたいのよ。モニターしてるからはじめてもらっていいかな?」
コウメイは有無を言わせない勢いだったが、もとより山瀬もためらう理由がなかった。指示通りに操作して山瀬の脳内で山瀬一人だけを観客にした映像の上映が始まった。
デモというのは、ある月の『START』掲載のマンガをデータ化したものだった。山瀬は迷わず茂辺地原作の連載マンガを選んだ。
はじまりは暗闇だった。鼻をつままれても分からないと言い表されるが、本当に光がひとつもない闇の中では、目の前に何かがあっても分からなかった。顔の前にモヤモヤとした何かがあるような気もしていた。これが視覚情報がある時には気がつかない空気の感触なのだろうか?
そんな暗闇の中に人物がいて、それは前回のラストシーンでシンクホールに呑み込まれようとする建物の窓から室内に飛び込んだ男だった。そして、それは同時に山瀬自身でもあった。
ただ物語の登場人物を眺めているのではなく、そのシーンで登場人物が感じている思いが山瀬の心の中にジワジワと広がって行くのだった。
暗闇の中で山瀬は不安を感じていた。建物はシンクホールの中を落ち続けているのだった。落ちる速度は次第に早くなっていた。早すぎる下りエレベーターを超えたと感じる頃、肉体の移動に追いつけず意識がやや遅れて行くような奇妙な感覚がしはじめ、やがて山瀬の意識は頭蓋骨の外に飛び出てしまい、糸を引くように肉体について行くのだった。これは自由落下の感覚だった。
「う、うわぁ!!」
山瀬の口から自分でも知らずに叫び声が漏れ始め、自分でそれを止める事が出来ず、自分の声ひとつコントロール出来ないと言う現実がさらに恐怖心を掻き立てた。
(止まれ、止まれ! 止まれ!! )山瀬の意識はその言葉を繰り返しているだけだった。いったい、どの位落ち続けていたのだろうか? ふと、落ちて行く感覚がフワリと止まり、山瀬の意識は肉体の中に戻った。
息をつく間もなく、登場人物の男は暗闇の中を動き始めていた。
『出口はどっちだ』
自分のではない意識を山瀬は感じた。登場人物の思いなのだろう。
建物の隅の方で、わずかに青白い光を放つ球状の物がゆらりと動くのが見えた。不規則に放電を繰り返している弱い稲妻だと言えばいいのだろうか? 建物の構造物に沿ってエネルギーを得ながら移動しているようだった。
登場人物の男はその青白い光について移動して行った。青白い放電が強くなると一瞬建物の中が照らされるが、それでも薄暗い中を進むのは不安感を駆り立てた。
進んで行く先に扉があるのが見えて来た。あの扉を開けたらこの嫌な感覚から解き放たれるだろうか? そんな思いがあって、その先への期待が高まった。
ところが近ずいて見ると扉まで行く暗闇の中に何かあるのに気が付いた。うずくまる人の姿のようだった。それがゆっくりと振り返りこちらに顔を向けたのだが、山瀬はその顔から目が離せなくなっていた。
黒い髪の向こうにふっくらとした頬の輪郭が見えて来て、こちらに向いた白い顔、しかし
「顔が、無い!! 」
目鼻のあるはずの所には暗い闇があった。肉がむしり取られてえぐれているが血は流れてはいなかった。その深い傷はえぐられた形そのままで癒えているのだ。それほどに深く肉体を傷つけられてなお、それは生きている。それが山瀬を最も恐れさせた。胴体の奥底から恐怖の冷たい感触が這い登って来る。
「うわああああああ!!」
山瀬の口から叫び声が響いた。数日前に祖父母の家で披露してみせた三文芝居とはレベルの違う慟哭だった。心臓はドクドクと音を立て続けていた。ややあって、山瀬を取り囲んでいた暗闇が一瞬に晴れ、梨沙が山瀬を呼んでいるのに気付いた。
「山瀬クン、どうしたの!?」
そこは『START』編集室のパーティションに囲まれた山瀬のデスクの前だった。パーティションの向こうから梨沙と明海がけげんそうに山瀬を見ていた。山瀬はその状況を理解出来なかった。
「予想外に恐怖の反応が強いから、強制終了したよ。あんたパニックを起こしたんだ」
ホットラインのVR映像のコウメイがそう言うのを聞いて、ようやく山瀬には試作品のテスト中だったと言う記憶がゆっくりと戻って来た。息苦しさを感じるほどだった心臓もおとなしくなり、山瀬の体中を駆け巡っていた恐怖の感覚が消えて行き、もはやそれがどんな感覚だったのかも思い出せなかった。
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