第36話 アラート

 病院の通路で美津雄と梨沙が浅間と話している間、山瀬は黙りこくっていた。いや、『START』の編集室に浅間が現れた時から山瀬はずっとそうしていたのだった。


 山瀬の頭の中でアラートが鳴り続けていた。浅間の前で何も言ってはいけなし、何もしてはいけない、自分が何を企んでいるか、気配さえ見せてはいけない、そう感じていた。


 誰も浅間にPLUTOプルートの者かと聞いた訳ではなかった。しかし普段のんびりとした雰囲気の『START』編集室が、よりによって血まみれの修羅場となっている時に、それも麗華に関連して事が起こった正にその時に現れたのだ。関係ないと考える方が不自然だろう。


 血を流し錯乱している野呂を前にして山瀬もパニック状態で手も足も出せずにいたのに、浅間は現れた瞬間に場を掌握し的確に動いて見せたのだった。


 龍蔵たちから昭島の話を聞いた時には「そんな誰とも分からない男が突然現れるなどと信じられるものか」と思ったのだが、聞いていた以上にあまりにも当然のように現れ、何もかも素早く適切に平然と手を打って行く訓練された男だった。


 いったいどれ程の情報を掌握しているのだろうか。どうして騒動が起こってすぐに現れたのか? ひょっとして予め普通の社員であるかのように社内に潜入して様子をうかがっていたのか?


 龍蔵の前でだけ気を付けていたら良いと思っていた自分が甘かった。果たして自分にはこれを出し抜いてプランを進める能力があるのだろうか。


 いや、それ以前に自分には何か出来ると考えた事自体が身の程知らずだったのではないかと山瀬は感じていた。


 こうして圧倒的な得体の知れない何かによって自分が縮こまって行く感覚が山瀬を苛立たせた。こんなものに屈したくないと思いながら、心の大部分は何を持ってこいつに楯突こうって言うんだと弱気になっていた。


 やがて野呂は病室へ移された。医師が説明に来たので梨沙が聞いていたが、幸いガラスで切った傷はひどくないようだった。


 編集室で血まみれになっている時には顔からの出血もひどいように見えたのだが、いくつか絆創膏が貼られていても顔の傷は深くないそうだし、肩や腕の傷も神経を傷める程ではないと言うことだった。


 看護師は野呂から家族への連絡先を聞き出すなどしていた。野呂は鎮静剤の影響もあるのだろう、ぼんやりした様子で電話番号などを答えていた。


 医師や看護師が出て行くと、それまで山瀬と病室の外にいた浅間がすかさず病室に入り「スマートフォンで何を見た」と尋ねはじめた。尋問をはじめたと言う方がいいくらい飾り気なくストレートな聞きようだった。


 しかし野呂は何も答えられなかった。答えを拒否しているのではなく、覚えていないと言うのだ。浅間の事も病院のスタッフと区別がついていないような、おぼつかない様子だった。


 やがて、連絡を受けた野呂の妹が来た。救急隊員にも病院にも、書棚の資料を整理している時に何かが当たってガラスが割れたのだと説明してあった。野呂の妹もそれを疑っていないようだ。


 梨沙は野呂に怪我をさせてしまった事を野呂の妹に心から詫びると、一旦引き上げる事にした。


 翌朝には編集室は綺麗に片付けられていたが、これは浅間の仕事という訳ではなく、昨日のうちに特別清掃がオーダーされていたのだった。


 散乱したガラスの破片も、飛び散った血痕も片付けられ、ただガラスが入っていない書棚の扉だけは昨日ここで騒動があったと語っていたが、午後にはガラス屋が来てガラスをはめて行ったので、痕跡は何もなくなった。


 出勤した梨沙は山瀬と共に野呂の病院へ行った。残された明海は昨日の午後から滞っていた仕事をしていたが、ひと通り片付くと普段のようにスマホをいじりはじめた。


 snsを眺めたりしていたが、ふと何か物足りないと感じ、やがて、いつもなら流れて来るはずの『火星人ルル』を今日は一つも見ていないんだと気が付いた。『火星人ルル』のまとめサイトを検索してみたが、それも出て来なかった。


「う~ん残念、著作権の都合でバンされちゃったのかな~?」


 明海はあまり深く考えず、またsnsに没頭して行った。


 梨沙と山瀬が野呂の病室へ行くと野呂は一人でいた。


「あら? 妹さんは?」


 と梨沙が尋ねると、鎮静剤の効果がすっかり切れた野呂は普段と変わらない様子で二人を迎えた。


「昨夜は泊まってくれたんですけど、今朝早くに返しました。付き添いなしでも平気ですし、あの子も仕事がありますから」


「具合はどう? 昨日の事は? 覚えている?」


「すみません、資料の整理が、とか妹が言ってましたが、明海さんと何か話していたな~くらいしか。手の方はこの通り」


 そう言って野呂は包帯を巻いた手をゆっくり動かして見せた。


「痛み止めが効いてるので痛くないし、心配いらないです。ありがとうございます」


 拍子抜けするくらいに野呂は屈託のない様子だった。

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