第28話 邪悪な蛇

「梨沙ちゃんたちは不思議に思った事はない?」


 アンティークなふち飾りのある大きな鏡の前に活けられた花を眺めながら登美子は言った。数日前に活けたままで萎れかけた花と開こうとするツボミがあってバランスが悪かった。


「美津雄には悪いけれど、今うちはどう考えても一流じゃないわ。この分野でなら右に出るものはない、と言える強味がないのよ。隆志はーー梨沙ちゃんのお父さんはーー頑張ろうとしてたけど、事故に遭って亡くなってしまった。


 身体が不自由になった龍蔵の後は隆志が継ぐはずだったのに」


 登美子は萎んだ花を詰んで位置を入れ替え花の見栄えを整えた。梨沙は登美子をじっと見ている。


「代わりに若い美津雄が社長を継いで苦労してくれているけど、時代はどんどん難しくなってるから。


 美津雄のせいじゃなくて出版業界は皆大変なの、二人は知っているでしょう?


 全然パッとしないのに、うちは未だに大手として扱ってもらえている。何でだと思う?」


 萎れた花をテーブルに置くと、壁際に並べられた椅子に無造作に置いてある膝掛けを取り車椅子の龍蔵に掛けた。


「龍蔵の身体を着古した着物のように脱ぎ捨て麗華に取り憑いた


 邪悪な蛇。


 龍蔵の脳梁の中で蠢いていたあの蛇が、私たち一族の繁栄を守ってくれているの」


 登美子は龍蔵の車椅子の後ろに周り龍蔵の両肩に手を掛けた。


「邪悪な蛇?」


「何なの? それ何かの比喩?」


 梨沙と山瀬の問に対して龍蔵のスピーカーから人口音声が答えた。


「いにしえの呪術使いが沼の主に挑んだーー遠い昔の言い伝えじゃが、ワシらの先祖がその沼の主と取引をしたのじゃよ。


 邪悪な蛇が沼に住み着き周辺の民を苦しめておったのじゃ。民の願いで、沼の蛇は呪術使いによって未来永劫封じられようとしていたのじゃ。


 ところがワシらの先祖は呪術使いの従者をたぶらかし手引きさせたと言うのじゃ! 何故そんな余計な事をと思わんか? ワシは先祖を殺しに行ってでも止めさせたい出来る事ならな!


 いくらワシが願っても時空を超える事も出来ぬし過去を変える事も出来ぬ」


 龍蔵は無念さに目を固く瞑り眉間に深いシワを寄せた。


「人は正しい事ばかりする生き物ではないのじゃ。人の業と言う物じゃろう。


 呪術使いは従者の手に掛かり、蛇封じの呪術は逆に邪悪な蛇に力を与える結果になってしまったと言うのじゃ。


 狡猾な蛇はワシら一族に子々孫々まで繁栄を約束し、その印として一族の長に宿って永遠の終わりまで共にいようと宣言した。その言葉通りに我が一族は、遥かな昔から強大な力と富を得て、世に君臨して来たのじゃ。


 君臨だ。この世の王よ。


 今のぬるい成功とは比べられんほどの栄雅の限りを欲しいままに出来た」


 龍蔵の目は異様なまでの輝きを放っていたが、それはすぐに失われた。


「ワシらの先祖は蛇にたぶらかされたのじゃ。繁栄を欲しいままにしたのはワシら一族ではなかった。邪悪な蛇め、人間の身体まで手に入れて。


 ワシらは蛇の宿主に過ぎん。これはまるで呪いだ」


「若くして嫁いでから先代、先々代と身近で見て来たけれど、この世での成功の代価は壮絶よ。悲惨な最期を送る事になるわ」


 遠くを眺めるような目をしながら登美子は冷たい口調で言った。


「この人たち、なんて横暴で血も涙もない冷血な血筋なのだと思って来たけど、それでこそ世界を手玉に取れたのだわ。


 それに、その後の龍蔵の変化を見て考えが変わったわ。邪悪な蛇の影響で人格まで変わってしまうのね。人間じゃなかったのよ」


 登美子は龍蔵の肩に置いた白い手を滑らせて、龍蔵の頬を触り髪を撫で、耳たぶをつまんだ。


「ワシは変わり種だ。爺さんもヒイ爺さんも人生の終わる最後の最後まで家長の位置を譲らなかった。蛇に捨てられた後の事が恐ろしくて、どうする事も出来ず蛇にしがみついて生きていたのじゃろう」


 梨沙は車椅子の龍蔵を見た。もしも今の時代とはまったく違う過去に龍蔵のようになったなら、どうやって生きるのだろう。龍蔵の今の境遇はそうとう恵まれている。不自由さも今の時代の技術と、そして何より龍蔵自身の持つ豊かさで補えている。


 いや、その豊かさがそもそも呪いのような蛇によってもたらされたと言うのか。梨沙は自分の身をそこに置きたいと願う程、良い事と思わなかった。


「ワシは最後の一人になろうとしたのじゃ、地獄の底までワシが蛇を掴んだまま離さず道ずれにしてやろうと企んでおったのじゃが、とんだ事で麗華にもぎ取られてしまった。


 身体も動かせず、言葉も喋れず、爺さんたちがそうなったより若くしてこうなって、とてつもなく惨めな残りの人生になるはずじゃったが、この通り、さほど悪くない余生を送っておる」


 満足気な笑みを浮かべている龍蔵を悟りを拓いた仙人か何かのようだと梨沙は思った。


「この強制自白装置の悪い所はな、言わんでもいい事まで音声にしてしまう事じゃよ。愛してる登美子」


 梨沙は老夫婦の睦まじい様子に唖然とした。


「梨沙の顔にーーそのセリフ似合わないーーって書いてありますよ」


 登美子は龍蔵の傍らを静かに離れた。


「人はね、その持っている器以上の世界が在るとは分からないものだわ。


 目の見えぬ者たちが巨大な象を触り、それぞれが触れた部分を指してーーこれこそが象だーーと言っているようなもの。


 ヒトが世代を超えて伝えて来た先人の知恵、努力で得て来たもの、それらが高く積み上がった上に私たちは生きている。


 古代の原始的な人々が頼って来た呪術なんか、遥か下の方の、暖かな陽の光も届かない所に埋もれているわ」


 大きな窓の前に立ち龍蔵に背を向け続けている美津雄の傍に立ち登美子は窓の外を見渡した。


「ああ本当に今年は百日紅サルスベリが見事だこと」

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