第25話 宿主

「麗華が何をしているか聞く前にワシの話をしよう。梨沙たちは知らぬ話じゃ。これを知らずに麗華の事も理解できまい」


 言葉を自ら発せられない龍蔵の思いは眼鏡グラスにあるスピーカーを通して、龍蔵の声に似せたという人口音声で語られた。


 登美子は紅茶や果物をサービングしている使用人を静かに人払いした。美津雄はテーブルを離れ美しく手入れされた庭の見える窓へ向かった。梨沙と山瀬は龍蔵が語り始めるのを待っていた。


「ワシの気持ちは誰にも分からんと思って生きて来た。ワシが語る事は出来ても相手に理解させる事は出来まいと思っていたのじゃ。


 想像出来るか? 頭の中に邪悪な蛇がいて、それが日々育って行く。


 頭蓋骨と脳ミソの間を、脳ミソのシワの隙間を蛇がのたくり回っているのじゃ。ワシの意識は日を追うごとに片隅に追いやられ、ワシの肉体もワシの人生もワシのものではなかった。


 そればかりではない、邪悪な蛇はワシの肉体ワシの地位を使い、世界中に災いと不幸を撒き散らす事だけを考えておるのじゃ。蛇がするのではない、ワシが、このワシが自らそれをするようにと仕向けて来る」


 龍蔵はいくらも動かない顔の筋肉を精一杯に動かし目をカッと見開かせて無念だという表情をした。


 梨沙も山瀬も、龍蔵の語る邪悪な蛇とは何なのか一体何かの例えなのかと気になっていたのだが、高齢で身体も不自由で、しかも機械の補助無しでは喋れない龍蔵のもどかしさを思って、まずは聞くことに専念していた。


「ワシは邪悪な蛇の支配を受ける身となっても、自ら邪悪なものにはなりたくなかった。


 何を考えていたか分かるか?


 ワシの中に災いの蛇を閉じ込めたまま家族と世界を守ろうとしていたのじゃ」


 龍蔵は車椅子を動かして窓辺に立つ美津雄を見た。美津雄は車椅子の動く気配を感じていたが、振り向いて龍蔵を見る事はなかった。


「ワシの親爺も死ぬまでワシを認めなかった。一人で全てを背負って、一番強いのは自分じゃと。


 しかし親爺は間違っていた。蛇を閉じ込めて置けるのは生きておる間だけじゃ。人は必ず死ぬ日が来る。親爺が亡くなったとき、ワシは何も知らぬまま邪悪な蛇と対峙する事になった。


 予め何が起こるか知っていたら、万全でないにしても、何か対策を立てられたのではないか、邪悪な蛇に意識を蝕まれながら、そう思って悔しさの余り泣き叫んださ。


 親爺もあの世とやらで、さぞ悔やんだ事じゃろう」


 龍蔵の言葉を聞く登美子の脳裏には当時の光景が、夫と舅との凄まじい葛藤の日々が去来していた。


「ワシは親爺以上に家族を、特に息子たちを守ってやろうとした。親爺がしたように、いつまでも息子より強くあろうとすると同時に、この邪悪な蛇の災いを遠除ける術はないかと探り続けた。


 分かった事は、邪悪な蛇はワシの血筋の中で最も力のある者を選ぶという事実だ。ワシが息子より弱っていると見れば邪悪な蛇は息子を選び、息子は邪悪な蛇に苦しめられる。


 ワシは邪悪な蛇を自分の体に閉じ込めコントロールしたつもりでいた。


 自分は上手くやったと思っていた」


 龍蔵は一瞬、満足気な笑みを浮かべ、すぐにその表情は消えた。


「ワシは息子の雷音らいとが苦しんでいる事を知らなかった。雷音は家族と、ワシと暮らすのが苦しいと、一人出て行った。そして麗華が生まれ、連れて来られた」


 麗華が生まれた頃の事を覚えている梨沙は思わず口をはさんだ。


「え? 雷音って? 麗華叔母様の?」


「梨沙ちゃん、雷音はね、あなたのお父さんのお兄さんよ。双子だったの」


 幼い子供だった自分が、赤ん坊の麗華を抱く祖母の口から「お婆ちゃまの赤ちゃんよ」と不思議な思いで聞かされた日を梨沙は思い出した。


「あら、嫌だ、私てっきり」


 そう言って梨沙は口を押さえ龍蔵をチラリと見た。梨沙が何を言おうとしたのか察した登美子は「ホホホっ」と笑った。


「まぁまぁ、あの頃は梨沙ちゃんも赤ちゃんだと思っていたけど、おマセさんだったのねぇ。


 麗華は家出した雷音の子よ」


「え? 梨沙ネエのお父さんの双子の兄さんの子って事はさ、じゃあ、麗華は叔母さんじゃなくて従姉いとこって事じゃん!」


 大人しく聞いていた山瀬が言った。


「本当だわ、従妹いとこよ! 叔母様、叔母様って、バカみたいに呼んでたんだわ!」


 梨沙が口惜しいとばかりに言った。


「それで? 雷音伯父さんは?」


 山瀬が冷静に聞くと、登美子は静かに首を振った。


「うちに連れて来られたのは麗華一人よ」


「ええと、それで、お祖父様の言いたい事っていうのは終わったのかな?」


 雷音伯父についても気になったが、山瀬は冷静に言った。


「あれは、麗華が12才頃の事だ。麗華は誘拐された事があるのじゃ」


 龍蔵の言葉がスピーカーから出るのを聞いて、梨沙は軽い目眩を感じた。その頃自分は中学3年で、両親を事故で亡くしたのだった。


「たった一人で遺されたのはわかるけど、梨沙ちゃんに、うちに来てもらう事は出来ないわ。うちには麗華がいるから。梨沙ちゃんまで恐い目にあったらどうするの!? 危険過ぎるわ」


 目眩と共に梨沙の頭の中には、声をひそめて登美子が言う声が、繰り返しくり返し響いていた。

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