第13話 這い上がる

 ポタリ


 ポタリ


 シンクに水滴の落ちる音が続いている。ワンルームの小さい部屋では物音が遮られる事はない。


 ポタリ


 ポタリ


 緩んでいるカランを閉めに行くために私はゆっくりと立ち上がった。軽い立ちくらみのような感覚がしていたけれど、ずいぶん長く部屋にこもって何もしないでいたためだろう。金属のカランに手を触れた時、記憶の泉から湧き上がって来るものがあった。


 子供の頃、フェリーに乗って家族で海水浴に行った帰りだったのだけど、台風の影響で海のうねりがひどかった。とてもデッキには居られず広い船室で横になっていたけれど、船体がズズズズズっと上がりグググググっと下がる度に目が回り胃にズンと来るものを噛み締めながら、いつしか寝付いていた。


 ドンという衝撃を感じると同時に意識が戻ったけれど、自分がどこに居るのか、その衝撃は何だったのか、何も判断できなかった。そのくらい深い眠りから突然覚まされて脳細胞が混乱していたのだった。空白の数秒を経て激しい痛みが全身に響き渡った。


 船室の中で雑魚寝する乗客たちの合間を縫って歩いていた小さい子供が、日焼けした私の腕に足を引っ掛けたのだが、日焼け止めがすっかり流れ落ちているのも構わず水遊びを続けていた私の肌は、たとえ天使の羽が舞い降りて来たとしても激痛を感じる状態だった。


 一人で暮らす小さな部屋で、キッチンのカランを閉めた時に不意に感じたものは、その数秒の出来事に似ていた。


 生涯で最高の物語一話分描きあげた満足感に浸って重力を感じない中にフワフワとただよっているこころよさから、ドーンと重苦しくややこしい思いの中に呑み込まれた。


 エレベーターの扉が音もなくズリ下がり誰かが暗闇に吸い込まれて行く


「あれは夢よ」


 考えを止めるために私は小さく声を出して言ったが痛みは全身に伝わって行った。


「夢でないなら私は見捨てて逃げて来たって事じゃないの、そんな事、そんな」


 これを言葉にしてはいけない、言葉にして存在させてはいけない。そう思った。


 頭の中を占領しているその気味の悪い考えを止めるために私は絶えず何かを意識的に続けていなければならなかった。


 やがて、小さな部屋の中に留まっていられなくなって外に出ることにした。玄関から通路に出てエレベーターのボタンを押した。


 扉が開くとエレベーターは無く薄暗い空洞に構造物が見えるだけだった。薄暗い中から現れた手が床を掴むのが見えた。エレベーターの扉の敷居部分のわずかなでこぼこに爪を立てている。もう片方の手が伸びて来て腕全体で床を捉え、それは空洞から這い上がろうとしていた。


「動け、動け、動け」


 すくんだ体に私はそう命じて、ようやく足を動かしてそこから遠ざかった。階段を駆け下りて建物の外に出た。恐ろしすぎて後を振り返れなかった。行く宛もなくヨロヨロとさまよっていたが、路上駐車した車の下、商店の前に置かれた看板や陳列台の物陰、ありとあらゆる暗がりから、あの手が出て来るように見えた。


「駄目だ、駄目だ、駄目だ」


 私はあの店に行こうと決めた。分からないからモヤモヤとして恐怖心が湧き上がるのだ。ペンギン男がどうなったのか確認するのがいい。


 店に入ると、いつもペンギン男が仲間たちと賑やかに過ごしていたテーブルを見た。そこでは以前とまったく変わらず数人が騒いでいた。ペンギン男がその中に居ないのが不思議なくらいに盛り上がっていた。


 そのテーブルを囲む人々が私を見てハッキリと私と分かった様子なのに変わった様子はなく、ただ話を続けている。しばらく店内にいて話題が取り留めなく移り代わって行くのを見ていた。そうするうちに頭の中で感じていた強い圧迫感がすぅっと消えた。


「何もなかったんだ」


 ペンギン男が姿を見せなくても、何食わぬ顔で私が現れても、何も変わっていないのだ。私が深刻に考えるような出来事はなかった。だから今までと変わらない日常が続いているのだ。


「私が大袈裟に考え過ぎていたみたい」


 ある日を境に人ひとり居なくなるなんて、よくある事なのだ。仕事の都合か何かでペンギン男はどこかへ行ったのだろう。どこかへ行って、そこでもきっと賑やかな人々の中に入り込んで楽しそうに時間を送っているだろう。


 人が移動するのが大変だったのは大昔の話で、一人暮らしだろうと契約金なしで家具付きアパートを借りてその日から生活出来るのを私はよく知っていた。


 大きな観葉植物の葉の陰から、色ガラスで飾られた間仕切りの後ろから、あの手が伸びて這い出して来るのが見えたとしても、それも何でもないのだと考える事にした。

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