第12話 夢の国

『女の手を振りほどいて、男は建物に駆け寄り窓をガリガリとよじ登って中に入って行った。女はヨロヨロと後を追おうとしたのだが、その足元の地面がガラガラと大きく崩れはじめたので思わず後さじりした。それと同時にスっと地面が消えた。消えたように見えるほど早く激しく落ちたのだった。


 男が窓から入り込んだ建物をすっかり取り囲む地面が切り取られ、真っ暗な地面の底へと建物もろとも落ちて行くのが見えたが、すぐに光の届かない距離になったようで何も見えなくなった。ズゥゥゥンと音のしない空気の震えのようなものだけが続いていた。


 パニック映画の登場人物なら、こんな時には「キャー!!」と悲鳴をあげながら男の名を叫ぶ所だけれど、あれは記号だ。現実にこんな場面に出っ食わしたら声なんて出ない。


 足元にある底なしの穴への恐怖から足がすくんで尻餅をついたまま、女は起き上がることも出来ずにいた。後さじりして穴から遠ざかりながら、「あ、あぅっ、あぅっ」と意味のある言葉にならない声を上げ続けるだけだった』


 梨沙は手にしたA4用紙の束をめくりながら大きく息を呑み、静かに息を吐きながら顔を上げ、梨沙の反応を面白そうに見ていた山瀬と目が合った。


「山瀬クン、これは」


 そう言ったきり、まだ言葉を探している梨沙の手元から、明海はそうっとA4用紙を抜き取り読み始めた。


 それはメールに添付されて来たものをプリントした物だが、元がエンピツ描きなので所々かすれたり汚れたりしているマンガのネームで、茂辺地もへじが山瀬に送って来た物だった。


「うわっ、絵は茂辺地先生の『へのへのもへじ』スタイルだけど、内容シリアス~」


「最初、茂辺地先生は四コマ漫画でネームを作っていたんだけど、ストーリーまんがとして作り直してもらったんだ。


 茂辺地先生が描いてもいいのだけれど、茂辺地先生の好みの絵を描く先生に作画をお願いするのでもいいからって提案した。


 だから絵的な技術の限界は考えないで、考えた通りをストーリー化してもらったんだ。それで出来たのがこのネーム。


 絵描きさんの人選はこちらに任せるそうです」


 山瀬が説明するのを聞きながら明海は壁際に並んだガラス戸付きの書棚からコミックスを選びはじめていた。


「劇画タッチの先生が描いたら迫力あるドラマになりますね~!! ファンタジックな感じでもステキです~!!」


「本当ね」明海が書棚から選んで来たコミックスを手に取りながら梨沙が言った。「ああでも、この先生たち、今は無理だわ」


 山瀬はシンとした編集室を見渡した。並んでいるデスクの二割程度にしか人がいないので、ガランとした雰囲気だった。


「出勤して来ないのを見ると、皆んな麗華さんの方に行っちゃったみたいですね~」


 明海が言うのを受けて山瀬は言った。


「麗華叔母さんの『アタクシが作る夢のマンガ本』ですか」


「『START』なんて貧乏臭いそうよ」


 梨沙は書棚に向かって並んだコミックスの背表紙をなぞりながら言った。


「ワタシもお誘い頂いたのですが」と、猫田担当の根津が山瀬たちのいる談話コーナーに来ながら言った。「紙もインクも上質な物を使って、いつまでも手元に置きたくなるクオリティにするそうですのよ」


「香りの出るインクとかって言ってましたよ~。あと、みんなが欲しくなる素敵なお化粧ポーチとかお帽子とかのプレゼントも毎月付けるって言ってましたね~」


「麗華叔母様がデザインして作らせるのでしょう? 高級素材をバカスカ使ってね」


『START』に連載された茂辺地の四コマ漫画には麗華の手直しがまるで反映されていない現実を突き付けられた日に、麗華は大袈裟に嘆きながら、自分がひどく傷付けられ、ないがしろにされたと泣きながら訴えかけたのだった。


 麗華があまりにも泣き続けるので、編集者たちが気の毒に思って近付くと、すかさず、この麗華への仕打ちがやがて編集者たちにも降りかかると、語りはじめたのだと、あの日の様子を根津が説明した。


「いつの間にやら麗華嬢がプロデュースするという新しい本の話になっていて、『あなた達も読者の皆さんも見た事のない、高級で素敵な本とプレゼントをアタクシが作るのよ。それを見たら皆さん欲しくなるのに間違いないのよー』と夢見る瞳で語ってましたのよ。


 麗華嬢の言う事は子供じみているのですがね、あの心の隙間にスルリと入り込む話術が、ある種の人には魅力的に感じるようですのね。なんとも危険なお方ですわよ。


 アンデルセンの童話に、子供たちの目に砂つぶを振りかけて眠らせて、夢の国に連れて行く眠りの精の話があるのですがね、


 麗華嬢のお話を聞いていると、なんだか目がショボショボして頭がボーンヤリして来るのですのよ」


「それで根津さん以外の人たちは夢の国に連れ去られてしまったわけね」


「『梨沙の味方だとばかり信じていたこの人たちが、みーんなアタクシに付いたと知ったら、ホゾを噛んで悔しがるわよねぇ』と、麗華嬢は言ってましたわね」


 根津がそう言うのを聞く梨沙の表情は、別に悔しがっている様子ではなかった。


「自由に使えるお金がウナるほどあるために、くだらない思い付きまで残らず実現出来てしまうのって、ある意味呪いだと思わない? 可視化された黒歴史ばかりが山積みになるのよ。


 麗華叔母様、あの人たちが欲しくて悪夢の国に拉致したのじゃないのよね、なんとも侘しいわ」

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