第8話 オファー

 梨沙は目の前で銀色のストラップの先に付けられて揺れる小さなUSBメモリを不思議そうに眺めていた。可愛いピンク色のボディに『START』のロゴが入っている。読者プレゼント用に作った物を記念に1つ手元に残していたのだった。


「麗華叔母様に渡したUSB

 どうして山瀬クンが持っているの?」


 雑談テーブルに『START』と一緒にある茂辺地のネームを改めて見やり、


「その茂辺地先生のネームだって

 山瀬クンの手にあるべきじゃないのに

 どうして?

 麗華叔母様、どういう事ですの!?」


 山瀬を押しのけて梨沙は麗華に向かって言った。麗華はムスッとしているだけだった。


 梨沙の中ではUSBメモリの中のデータに関する考えが一時に巡っていた。自分の中で吹き荒んでいるこの言葉たちを吐き出したなら、きっと自分の内側が外側になって何もかもがヒックリ返ってしまうと思った。


「この近くのロボットコンビニのプリンタに置き忘れているのを僕が見つけたんだよ。麗華叔母さんが最初に来た時、後をつけて行ったんだ」


 と山瀬が言った。


「茂辺地先生に電話であれこれダメ出しするのもずっと聞いていた。麗華叔母さんが言っている通り、一度は全く別のマンガになったんだよ」


「茂辺地先生にダメ出しですって!?」


「ほら、やっぱりそうでしょう!!

 アタシは間違いなく直すように言ったんだ!!

 それなのにどうして、元のままなんだ!!」


 梨沙と麗華がそれぞれに声をあげた。


「一体どんな風に変えたって言うんですか!!」


 梨沙は麗華に詰め寄った。


「最初から最後まで

 1つ残らずぜーんぶ変えたのよ!!」


「どうして!?」


「気に入らなかったからよ!!」


 麗華は雑談テーブルにあった『START』を手に取り茂辺地のマンガのページを開いた。その手がブルブルと震えだした。


「あんなに言ったのに

 あんなに細かく教えてやったのに

 一コマずつ確認しながら

 間違いなく直すように言ったのに

 なんでアタシが教えた通りに

 なってないのよ!!」


 麗華は手にした『START』を床に叩きつけた。


「なんて事をするの!!」


 梨沙が麗華に掴みかかり談話テーブルが倒れて茂辺地のネームがヒラヒラと舞い散った。編集室は騒然となった。


「きゃー!! 編集長!!」


 麗華に向かって掌を振り上げている梨沙に、明海がしがみついた。


「離しなさい、じゃまよ」


「ダメです~ 編集長が怪我したらどうするんですか~」


 明海に引き離されて梨沙の手が緩んだと見るや、逆に麗華が梨沙に向かって拳を振り上げた。


「てめぇ!! アタシのマンガはどうなったんだぁ!!」


「アンタが直したってマンガは、どこにもないんだよ。僕が全部キャンセルして、元のネームの通りに仕上げてくれるように茂辺地先生にお願いしたんだ」


 梨沙に向かって行く麗華の腕を掴んで山瀬が言った。


「なんだってぇ~!!」


「麗華叔母さんが下らないダメ出しを全部出し終わるまで見届けた後、僕はどうしたらいいか、何ができるか一晩中考えたよ。次の日になっても答えは分からなかった。いや、答えは分かっていた。このネームは面白いんだ」


 梨沙と麗華の掴み合いで倒れたテーブルを山瀬は起こし、床にバラバラに散らばっていたネームを拾い集めた。


「梨沙ネエがこのネームの入ったUSBメモリを渡して、仕上げるように麗華叔母さんに言ったけど、それはあんな風に滅茶苦茶にしていいって意味じゃなかったはずだ」


 山瀬は麗華が床に叩きつけた『START』を拾い上げると、手で優しくホコリを払った。


「だから、夜になってからだけど、茂辺地先生に連絡したんだよ」


 あの日、麗華からの電話の後、茂辺地はしばらく何も手に付かなかった。しかし、やるしかないと決意してタブレットに向かった。


 翌日、何とか形にしたマンガは、どこがいいのか茂辺地には全く分からなかったにだが、何も考えずに麗華にメールで送った。これで終わったと思って、少しホッとした。


 ところが数分後、麗華の電話が来たのだった。


 仕上げた原稿を見たらアイデアが湧いて、主人公のキャラクターをゆるキャラ風に変えようと言い出したのだった。ゆるキャラはこんな感じだと、麗華が描いたらしいキャラクターデザインまでメールで送られて来た。


 茂辺地はタブレットを使ってマンガを描いているので、絵を描き直すのは比較的簡単にできる。しかし、そう言う問題ではないし、第一その時の茂辺地にはマンガを描こうとする気持ちが全く残っていなかった。


 --ダメだ、こんなにエネルギーを奪われるならマンガなんて描けない。いや、描かなくていいんだ。


 そう思って、断るためのメールを書こうとスマホを手にしたその時、メール着信のメッセージが上がったのだった。開いて見ると『START』編集室の山瀬と名乗るメールだった。


 メールには丁寧な文章で、茂辺地のネームについて麗華と名乗る人物が大変失礼な行為をしたが、それは全て『START』編集室の意向とは何の関係もないものであったと説明されていた。


 茂辺地のネームと連絡先が麗華の手に渡ってしまったのは『START』編集室の事務的な手違いであり、情報管理に落ち度があったためだった。茂辺地に迷惑を掛けて本当に申し訳なかったと謝罪してあった。


 その上で、麗華からの修正の指示は一切無かった事として、茂辺地が作られた本来のネームを元にして原稿を仕上げてもらえないかと言うオファーだった。


 既に茂辺地が麗華のために多くの時間を掛けている事を考慮して、原稿料は通常よりできる限り多く支払う準備があるとも書かれていた。

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