第7話 『START』の恩人

 事故に遭った猫田のマンガ、と言うより茂辺地もへじの四コマ漫画が掲載されたと言う方がいいだろう。その『START』が発売されると、麗華は編集室に連日現れ、談話コーナーでそれを見て過ごすようになっていた。しかし、それを気に掛ける者は一人もいなかった。


 本当の所、明海は気になっていたのだが編集室には麗華の事を口に出せない雰囲気が漂っている気がしていた。麗華は外国から帰国したばかりと言う事だが、何をしていた人なのか見当もつかなかった。


 編集長である梨沙が麗華を叔母様と呼んでいるが、梨沙と叔母の麗華が同年代っぽく見えるのも気になる事の1つだった。宝塚スターからマンガ雑誌の編集長になった梨沙の経歴による存在感の差なのかも知れないが、経営陣一族の方々の事は理解し難いと明海は考えていた。


 梨沙は度々猫田を訪ねると言って外出するので、山瀬もそれについて行った。怪我はひどくなかった猫田は、すでに退院して自宅で療養していた。


 しかし、猫田はすっかりマンガへの意欲を無くした様子だった。まぁ、ノリノリの音楽に乗って気分よくマンガを描いていたら、窓から鉄材が打ち込まれて来たのだから、無理もない。


 代わって梨沙が、滅茶苦茶になった猫田のアトリエの引越し先を探したり、猫田のアシスタントに指示して必要な道具や画材を揃えたりしていた。少しでも猫田の気に入る環境を整えて、早く猫田にやる気を出してもらいたい梨沙の配慮だった。


 事故のCCTVの動画がSNSで拡散され、巻き込まれたのがマンガ家の猫田のアトリエであった事も知られるようになり、『START』の売上も多少伸びた。根津が管理している猫田のSNSもフォロワーを増やしていた。


 猫田が連載に復帰出来るかという大きな問題の陰で、茂辺地の四コマ漫画は2ページずつに分けられて連載される事になっていた。


 茂辺地もまた、とんでもない事故によってデビューした『謎の新人マンガ家』とSNSで囁かれ『START』の売上を伸ばす要素になっていた。


 せっかくデビューしたのだし、この機会を逃さないようにと、梨沙は明海に茂辺地のSNSを開設させていた。掴みどころのない茂辺地のイメージを考慮して当たり障りのない内容をupするという任務を、明海は上手にこなしてフォロワーを獲得していた。


 そんな編集室に麗華は数日来ていたが、やがて又現れなくなっていた。


 それからは『START』の発売日になる度に編集室に麗華が現れて最新号の茂辺地の四コマ漫画を一日中眺めるのが毎月定例となっていた。


 しかし、猫田のアトリエ事故程でないにしても毎月何かしら問題が発生していたので、誰にとっても麗華の変わった行動など特別に気に掛ける事ではなかった。明海でさえ麗華を気にするよりも茂辺地のsnsの中の人をしている方が面白かった。


「ちょっと!! あなたたち、何かアタクシに言うことあるんじゃないの!?」


 茂辺地の四コマ漫画の連載が何ヶ月目かになった時に、麗華がそう言って騒ぎ出した。編集室にいた人々は麗華を見たが、群衆の中では名指しで言われるのでなければ自分に言われたのではないと判断する心理そのもので、すぐにそれぞれの事に視線を戻すのだった。


「それよ!! あなたたち、どうしてそんなに物事に関心がないの!? 他でもないアタクシは『START』の恩人なのよ!! 誰のおかげで首がつながっているのか分かってるの!?」


 麗華は編集室にザワメキが広がるのを期待したのだが、フロアはシンとしていた。


「恩人って、麗華叔母様、それ何のお話?」


 狙ったわけではないのだが、梨沙の冷静さは麗華を余計に興奮させた。


「とぼけないでよ!! 『START』に空いた大きな穴を埋めた四コマ漫画の事よ!! まさか、もう忘れちゃったんじゃないでしょうね!? あの四コマ漫画は、このアタクシがいたおかげで形になって、『START』の穴を埋めたの!! その上、連載する毎に人気がウナギ登りじゃないのよ!!」


「大袈裟ねぇ。まぁ、私のUSBメモリから茂辺地先生を選んで、あらかじめ完成させておいたって言うのは事実なんですけどね」


 梨沙は本当に麗華にそこまで恩を売られる理由がわからず途方に暮れた。


「麗華叔母さん、茂辺地先生のマンガちゃんと読んでる?」


 山瀬は今までずっと麗華の様子に疑問を持ちながら遠巻きに見守っていたのだが、ここへ来て麗華の現実にフィットしない言動に何だか薄気味悪いものさえ感じていた。


「これ、茂辺地先生のネームなんだけど、これと比べながらちゃんと読んでみてよ」


 と、山瀬はあの日ロボットコンビニのプリンタで手に入れた茂辺地のネームを自分のバックパックから取り出して、麗華のいる談話テーブルに近寄り差し出した。


「あ~あ、このネームを麗華叔母さんに突きつけるシーンは、思いっきりイキってポーズもキメてって考えていたのに、すっかり調子が狂っちゃったなぁ」


 がっかりする山瀬の前で麗華は『START』掲載のマンガと山瀬から受け取ったネームを一コマずつ見比べていた。その表情は次第に険しくなっていった。


「何よこれ!! すっかり同じだわ!!」


「え~え、ネームのエッセンスをキチンと仕上げてあって、いい仕事してるわよね~。このキャラクターたちが微妙に手抜きで、へのへのもへじ風なのに下手ながら表情がアルアル~な所なんか、上手いもんだわ~茂辺地先生~」


 麗華の手元のマンガを一瞥して梨沙が言ったので麗華の表情がさらに厳しくなったが、それに気づかず梨沙は続けた。


「あのUSBメモリの中から茂辺地先生を選ぶなんて、麗華叔母様もお目が高くてよ~。センス良く仕上がってるし~」


 機嫌が良い時の梨沙の声は自分でも知らずに宝塚歌劇の台詞まわしのようになる。


「誰を褒めてるのよ!! こんな貧乏臭いマンガのどこがセンス良いって言うのよ!? アタシがあれだけ事細かく直せって言って、キャラクターだってアタシがデザインしてあげたのに、ひとつも言う事聞いてないんじゃないの!!」


「事細かく直せって、それが直ってないって、どういう事?」


 梨沙は正に何が何だか分からないと言う様子だった。この話の噛み合わない状況を説明できるのは自分しかいないと覚悟を決めて山瀬は、USBメモリをポケットから取り出し梨沙に差し出した。

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