第4話 START
街に溢れる光の粒がこぼれ落ちて来るような、この大きな窓から見る夜景が山瀬は好きだった。山瀬の仕事は場所にも時間にも縛られなかった。オフィスに詰めて居なくても仕事は進むのだった。だからと言って、工芸品のような輝きに背を向けて家に帰るのは惜しいと思わせる魅力があった。
どこに居ても孤独なのだから、この窓の前にいる方がよかった。オフィスの価値とはこういう物だろうと山瀬は考えた。もう何日もこの窓に立ち、取り留めもない思いを育てて来た。
デスクに近寄り引き出しを開けた。その引き出しにあるのは数枚の手書きの書類とUSBメモリひとつだけだった。山瀬は満足そうな笑みを浮かべながら手書きの書類に触れた。
「この出会いが僕の願いを叶えてくれた」
山瀬がこの窓からの風景を自分の物にしたのは、わずか数ヶ月前の事だった。その日、このフロアで最も良い場所に置かれたデスクに向かう女性の前で、山瀬は軽くあしらわれていた。
「そんなに粘ってもダメよ山瀬クン」
「梨沙ネエ、親父も爺様もいいって言っているんだよ」
梨沙はメガネの縁越しに山瀬をジロリと見上げた。
「あなたたち男は、この仕事のデリケートさをわかってないのよ」
「それは差別だ、女性に出来て男性に無理だなんて理不尽だよ」
「そんなんじゃなくてね、『START』のマンガ家の先生方はね、感性の鋭い女性ばかりなのよ、男性の担当なんかに近づいて欲しくないわ、生産性が落ちるから」
そう言いながら、カラフルな表紙で女の子のキャラクターが可愛くポーズしているマンガ雑誌を山瀬の方によこした。
『大人女子のトキメキ
S T A R T』
「それでなくたって色々タイヘンな女の城なんだから、坊っちゃんたちはプラモデルとかで、いい子で遊んでてくれるかな?」
幼い頃からバレエと声楽を習って来た梨沙は、花瀬梨沙の名で宝塚歌劇という女の園で二番手まで登り詰めた経歴を持つのだが、引退後また別の女の園を率いることになったのだった。
山瀬は振り返り、梨沙の色々タイヘンな女の城を見渡した。たった今まで山瀬と梨沙のやり取りの行方に神経を集中させていた十数人の女性たちが、それぞれキーボードを打ち始めたり、電話に手を伸ばしたり、書類を繰り始めたりした。
生産性、これ以上落ちる余地あるのかな? と山瀬は思った。
「ボンジュール」
よく通る声が響いて編集室の入口から女性が入って来た。変わった形の帽子にサングラスをかけて、その派手な服装からマンガ家の先生なのかと山瀬は思った。しかしフロアの女性たちは誰一人その女性を出迎えに立たなかった。みな怪訝な表情でその女性を見ているだけだった。
ハイヒールでしゃなりしゃなりとデスクの間を縫うように進み、女性は梨沙の前まで来ると、サングラスを外して言った。
「お久しぶり、アタクシ麗華よ」
「麗華叔母さん!?
ん~、今回はアフリカだったっけ!?
いつ帰ったの!?
何しに来たの!?」
と山瀬が好奇心のままに畳み掛けると、麗華は冷たい一瞥を山瀬にくれながら言った。
「あらバンビーノ、あなたも居たのね。
何しに来たって? そりゃあ、お父様の大事な『START』を救いに来たのよ~」
山瀬が幼い頃から、麗華は日本と海外をフラフラと行き来しているのだが、いつも言うことが大袈裟だった。
「え!? 『START』って、麗華叔母さんの助けまで必要なくらい、絶望的だったの!?」
こんな言い方をしたら梨沙が怒るとわかっていたが、山瀬は構わずそう言った。
「ええ、その通りなのよ
でも、もう大丈夫
この麗華様が来たからね」
梨沙は不愉快そうに麗華をにらんだ。
「叔母様、キメ台詞のつもりならもう少しカッコよく言ってくださるかしら?」
「おぉ~、現実を受け入れるのが辛いでしょう~」
麗華は芝居がかった仕草で梨沙の顔を両手で包み込んだ。梨沙は鼻にシワを寄せながら、麗華の手を振り払った。
「ふん、相変わらず可愛げのない事。
でもいいのよ、あなたの窮地はアタクシがキッチリ救って上げるからね」
梨沙は口の中で何か悪態を呟き、フゥと息を吐いた。そしてデスクの小物入れから何かをつまみ出してマジマジと見た。
「そう、そこまでおっしゃるなら」
それを麗華に差し出す。小さなUSBメモリだった。麗華は受け取ると梨沙とUSBメモリを交互に見た。麗華だけでなく、山瀬も興味津々の様子で身を乗り出していた。
「叔母様のお手並み拝見させていただこうかしら。そのUSBメモリにある中から、お好きなストーリーをひとつ選んで、仕上げて見せてくださる?」
梨沙にそう言われて、麗華はニヤリとして応えた。
「なるほどね、わかったわ。その勝負受けて立とうじゃないの」
入って来た時と同じに、麗華はしゃなりしゃなりと編集室から出て行った。山瀬は編集室に残って梨沙と話を続けるか、麗華の後を追うか考えた。
「何が出来ると言うのよ。今まで何物も成し遂げる事なく生きて来た女が」
梨沙が口の中で小さくそう言っているのを山瀬は聞いた。
「梨沙ネエ、後でね」
そう言い残して山瀬も編集室を後にした。
麗華がどんなふうに生きて来たかは薄ぼんやりとしか知らなかったが、麗華にやりたい放題やらせて梨沙の仕事を、と言うか『START』を台無しにされたら僕も同じに馬鹿だと思われる。
そんな考えが、山瀬の頭の中を巡っていた。
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