第3話
オギャー!!!
赤ん坊の声がして視界が開けた。
「神田さん、おめでとうございます!!」
ん?ここはどこだ?
「見てください!可愛い女の子ですよ〜。」
真下に分娩室が見え、スミレが泣きながら産まれたての赤ちゃんを看護師から受け取っていた。
「ああ…良かった…産まれて来てくれてありがとうね…。」
スミレは赤ちゃんを抱きかかえながら分娩台の上で涙を流していて、側の看護師さんが一緒になって泣いているのが見える。
「随分時間がかかった難産でしたけど、無事に産まれて良かったですね!本当によく頑張りました!」
「はい…皆さんありがとうございます!」
涙でぐしゃぐしゃになりながらスミレは回りに感謝を伝え、胸の上の赤ちゃんを愛おしそうに見つめていた。
その顔は何故か今まで見た中で一番綺麗だった。髪は乱れ、ノーメイクで、分娩台で足を広げているひどい状態だが…こんなに綺麗だと思ったのは結婚式以来だ。
感動的な場面…そこに俺の姿はない。
そっか、俺、ちょうど仕事の出張で出産に立ち会えなかったんだっけ…。
そこからまた目の前の視界が早送りの様に回っていく。
スミレが産院で一生懸命に赤ちゃんのお世話を習っている姿が映っていた。
また時がゆっくりになる。
「どうもお世話になりました。」
深々と頭を下げるスミレ。退院の日だ。
そこには俺の姿もあり、荷物を車の中に積み込んでいる。
赤ちゃんを大事そうに抱えたスミレが車に乗り込み、チャイルドシートに赤ちゃんを座らせる。出発すると運転している当時の俺が口を開いた。
「昼飯どうしよっか?家に何にも無いけど…。何か買ってく?」
「そう…でも赤ちゃん居るし、先ずは家に帰ろうよ。」
「でも何にも無いよ?お腹空いてるでしょ?途中でコンビニ寄ってく?どうせ今日は飯作れないでしょ?」
「…じゃあ、私は車の中で待ってるから…。」
「了解。」
何気無い会話が流れる。
その時の俺は気がつかなかったけど、スミレの表情はからはさっきまでの笑顔が消えていた。
また早送りの様に視界が流れる。
スミレが一生懸命に育児をする姿が映っていく。
夜、人知れず起きて母乳をあげている。
家事の合間、赤ちゃんが泣いては中断し、オムツを替えたり、母乳やミルクをあげている。
俺が朝会社に出て行ってから、一つの家事を終わらす迄に何回も中断しては赤ちゃんの世話をして居る。
赤ちゃんがいなければ、掃除も洗濯も2時間あれば全部終わるのに…
赤ちゃんの世話を挟みながらやっていると、気がつけば夕方になっている時もあった。
スミレの実家はかなり遠くて里帰りをしなかった。そもそもお義母さんはスミレが大学生の時病気で亡くなっていたので、帰ったとしても育児を手伝う人は居なかっただろう。
ベランダで洗濯物を取り込みながら夕焼けの空を見て、ふぅっとため息をつくスミレの横顔が映った。
部屋の中から「ふぎゃふぎゃ。」とまた赤ちゃんの泣く声が聞こえて来た。
スミレは取り込んだ洗濯物を部屋に放り投げて赤ちゃんのそばに駆け寄った。
正直こんな事知らなかった…。
俺は赤ちゃんが産まれても自分の生活スタイルを変えなかった。
言い訳を言わせて貰えば、男はバリバリ外で仕事をして、少しでも多く稼いで来るのが俺の役目だと思っていたから…むしろ自分から進んで残業を引き受けていた気がする。
休日出勤もかなりしていた。
当時の俺は、会社に貢献して昇進するのが家族の為だと思い込んでいた。
俺がやった育児と言えば、たまの休みの日に家族で出かけたショッピングセンターでベビーカーを押すくらいだった。
場面が変わり、スミレが受話器を当てている。
「もしもし、あ、私です。ごめんね、仕事中だった?
カエデ…熱があって…すごい高い熱だし…。病院に連れて行った方が良いと思うの。18:00過ぎてるから、もう近くの病院は閉まってるし…どうしよう…。」
受話器から俺の声が聞こえる。
「悪い…今、大事な会議やってるんだよ。早くても21:00過ぎないと帰れない。タクシーでも何でも呼んで行ってくれないかな?」
「………分かった…。」
「ごめんね。」
ツーツーとスミレが持った受話器から虚しく音がする。
…そしてスミレは受話器を持ったまま泣いていた。
後ろではオギャーと泣く声がする。
いつもは飛んで駆け寄るスミレだが、その時はしばらく動かずに、ただ涙を拭っていた。
「…誰か……誰か…、たす…け…て…。」
そうスミレが呟いた。
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