今だ、ジョー!

tamico

第1話・『篠田丈は傘をささない』

篠田丈はいつだって傘をささない。

「丈」

「なあに」

うららかな級友の声は雨に濡れてかき消される。うまく聞き取れなかったから、聞き返した。

「なんで傘をささないの?雨、本降りになってきたわよ。」

「いいえ、雨の強さは関係ないの。雨は…嫌いじゃないから、うたれるのも悪くないから…ええと」

丈は自分の考えをうまく言葉にできない。昔からそうだった。

「そうなんだ。それはいいわね、けれど」

「そう、濡れるのが嫌いじゃないの、私は。濡れるのと傘を持ち歩くことを天秤にかけて、濡れる方を選ぶくらいには。」

「ええ、そうね…そうなのね。よくわかったわ。でもね、風邪を引くわよ。」

「濡れると?」

「ええ。」

「確かに、そちらのほうが、天秤にかけると、重いのかもしれない。分かったわ、次はさそうと思います」

「わかってくれて良かったわ。」

級友は、そこで話を打ち切った。丈は級友のこのような性質をとても好ましいと感じていた。話の論理が丈にもわかりやすかったからだ。丈にとって日々の会話とは、うまく理解できないものであった。何を感じて何を考えて発言をしたのかわからないことが多かったからだ。

「丈。あなたも遅くならないで帰ったほうがよろしいわ。早く帰ってあげるのは親孝行の誉れだと言うものね。」

「わかりました、ありがとう」

それでも、この級友の会話の中でも度々よくわからないことはあった。例えば今、早く帰ることが親孝行に繋がるという論理には頷けないところがある。けれども、そういった不明を尋ねて回るのは良くないことなのだと…これまたこの級友に忠告されたから、丈はあえて口をつぐんだ。


丈が通っているのは全寮制のミッション・スクールである。そして、今日は長期休暇前の最後の登校日だった。大抵の生徒は修了式の日に寮から実家へ帰省する。件の級友もそうだった。何故かというと、この学校はとても辺鄙な場所にあって、大抵の生徒の実家のある大都市に行くまで、2時間はかかるからである。彼女が丈に早く帰りなさいと忠告をしたのもこのためであった。しかし、丈は帰ろうとする意志があまりなかった。実家が嫌いというわけでもないが、好む気持ちもなかった。帰れば帰ったで、面倒くさい儀式を強要されるのは目に見えていて、その面倒臭さのぶんだけ帰省に二の足を踏まざるを得なかったからだ。

いま、級友と別れた丈のすぐ後方には最早生徒のいなくなった寮がある。この長期休暇は人のいない寮で過ごすのも良いかもしれない。ふと頭をついて出たアイデアに、丈はすぐさま首を降った。丈にはそうできない理由があった。


篠田丈には運命の相手がいる。その相手に会う、絶好の機会こそがこの長期休暇だった。

丈の運命の相手は恋の相手というわけではない。丈が何をかけても…例えば命とか、そういったとても大切なものをかけても否定せねばならぬ相手だった。打倒さねば、平穏と何もかもが訪れないことだけが真実であった。その感情の根拠はなくはないけれども、あまり強い理由ではなかったから、きっと伝えても理不尽さを感じさせることになるだけだろうと丈は考えていた。だから相手には伝えていなかった。

その相手の居住地とこの学校はかなり離れていたから、長期休暇でなくては会えない相手だった。実家に帰らずとも、会いに行かねばならないから、寮で過ごす計画は最初から否定されるべきものなのだった。残念だ、と丈は感じた。いいアイデアに思えたのに…きっと素敵だった、誰もいない食堂、誰もいない歓談部屋。いつもがいつもでなくなる感覚を丈はことさら好いていた。特に、『いつも』ととても近しい場所にある『非いつも』は、丈にとって非常に好ましいものだった。


いつもに丈があまり執着していないからなのかもしれない、丈はそこまで考えて、ふと寮長へ帰省届を出していないことに気がついた。本当なら終了式前に提出しなければならないのだけど、丈は、その制度はほぼ形骸化していること、年中暇を持て余している寮長はいつでも受理してくれることを諸先輩から聞いていたから、結局提出しなかったのだった。


「シスター」

丈が寮長室の前で声を上げると、はあい、と間延びをした声が応答した。

「まあまあ、あなた…帰っていなかったのねえ。それに」

シスターは丈の全身を眺めすがめつ、言いにくそうに口を開いた。

「びしょびしょだわ。ストーブは今ちょうど火を落としてしまったのよ。ちょっと待っていてね。」

「いえ、シスター。そうではなくて…」

私は帰省届を提出に参ったのです、と言おうとして止められる。

「遠慮しないでいいのよ。寒いでしょう」

丈は心からこのような会話が嫌いだと感じた。しかし、押し切られてしまっては返す言葉がない。

「それでは、失礼します。」

扉を開く。普段、寮長室に生徒が入ることは許されていないから、今まできちんと認識したことはなかったが、随分雑然とした部屋だと丈は感じた。

「ねえ篠田さん、それであなた、どうしたの?帰るご予定はあるの?」

「ええ、その件で参りました。急なことで申し訳ありませんが、帰省せねばならぬことになったのです。ですから、帰省届を提出せねばならなくなりました。」

「そうなの、まあ…そんな人は毎年いるものよ。でも篠田さん、急なことと言うけれど大丈夫なの?きちんとあなたの意志は了解されている?」

「はい。むしろ…私側の事情で…帰らねばならないことになったので…」

「そう。ならいいわ。じゃあ、届け出を持ってくるから」

「はい」

目の隅でストーブの炎がちらちらとゆらめく。丈は炎のことを嫌いではなかったけれど、こんなふうに檻の中にいるような炎は嫌いだった。どこまでも自由に、空に伸び上がるような炎がいい。焚き火でもだめだ。ただただ自然に動く炎こそがほんものの炎だ。

「篠田さん、書き方は知っている?」

炎にみとれていると、シスターが丈の眼前に用紙を差し出していた。

「はい。ええと」

見ると、あまり特別なものではない。今まで書いたことはなかったが、書き方に別段困るものでもない。すぐに書き終え、シスターに手渡す。

「はい、受け取りました。それでは、良いクリスマスを。」

「ええ、ありがとうございましたシスター。良いクリスマスを。」

形而上の挨拶を終え、笑顔のシスターに頭を下げる。きっとシスターもせいせいしてるだろう…冬の間、この寮には寮長たるシスターのみが常駐することになる。クリスマスに生徒の面倒を見ねばならないのは悲劇だ。

扉を閉める瞬間、シスターの顔が能面の如き無表情になるのを見た。



寮長室を後にして、自室に戻る。すぐに荷造りをしなくては。別に何か特別に持っていくものがあるわけではないが、学生服で出るわけには行かない…何しろ、この学校の制服はやたら目立つ。シスター服に似ているフォルムは日本全国を見渡してもそうないデザインであろうし、何よりもその色だ。暗いワインレッド…丈は血染めという言葉を連想する。その色は、何をせずとも目を引くことうけあいだ。

かといって、ろくな私服を持っているわけではないから、適当な服を選んで身につけていく。恋慕した相手に会いに行くわけでもないから、それなりに人に溶け込める格好であればいい。

逡巡した結果、編み目の荒い白地のセーターと紅いロングスカートを選んだ。結局紅を選んだ自分に丈は深く呆れる。この学校を選んだのだって、山奥にあることと…制服の紅が気に入ったからだ。それでもほんものの紅には程遠い、と丈は思った。ほんものの紅はもっと情念深く自身の『眼』に染み込むものだ。

荷造りを続ける。闇夜の殺戮劇に必要なものは、それなりの金、それから…狂気。兇器と言い換えてもいい。今から自分は人を害しに行く。何の理由もなく、ただ運命の人だから殺しに行く。それにはどうしようもない狂気が必要だ…それこそが兇器になる。丈は深く息をついた。体が冷えて硬くなっている…怖がっているのかもしれない。そのくせ、頭は炎でも出そうなくらい火照っている。でも、と丈は考えた。今からこんなふうに冷静さを欠いていたら彼の前に立ったとき…どうなってしまうんだろう?向かうまでに落ち着けるだろうか?不安で仕方ないのに、どうしようもなく高揚している。不思議だった。こんな気持ちは丈の経験にない。

気づけば、荷造りは済んでいた。


「丈、今から…あなたは…人を殺しに行くのよ。ほんとうに、できるかしら」

窓ガラスに写った自分に話しかける。この行為は世間一般的に異様なものであることは了解していたが、やめようと思ったことはなかった。丈にとって、自分との対話はひどく落ち着くものだった。


(続)

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