カムイが貸してくれた空き部屋でその実を食べると、それまで出ていた耳と尻尾が引っ込んだ。

「うわ、これ本物だ」

 琉依が周りを飛び跳ねて、耳の引っ込んだ頭を確かめるようにぐりぐりとかき混ぜる。

 伝承が正しいならばこのまま24時間耳を出さずに過ごせばいい。性的衝動を胸の内に起こさなければいい、それだけだ。けれど簡単なようでいて、意識するのは案外難しいのかもしれない。考えるなと思えば思うほど考えてしまうのが人間の性というものだ。

「俺、別のとこにいようか?」

 心配そうに玲央を見つめた琉依はそう言ったけれど、首を横に振った。

「離れると余計に暴走するのは実証済みだから、ここにいて」

 離れればそのうち気持ちも薄れるかもしれないなんて、そんなのは見通しの甘い愚かな希望でしかないのだと、高校に入ってすぐに気がついた。辛い思いで縛って自分を戒めれば抑えられるだろうとひたすら耐えたけれど、それも逆効果でしかなかった。手に入らないと思えば思うほど欲しくなる。満たされた状態でいる方がきっと安全だと思うのだ。

「わかった」

 琉依は神妙な顔で、人一人分ぐらいの距離を取って玲央に向き合って座る。

「べつに動いちゃいけないわけじゃないよ?」

 なぜだか緊張した様子で固まる琉依が可笑しい。

「丸一日なんだから飯も食うしトイレも行くし、普通にしていればいいよ」

「だって、何かやらかすのは俺のような気がするんだよね」

「俺もそう思うけどね」

 場の空気を和らげようと冗談を言ったが、本当は玲央自身の心の問題の方がずっと心配だった。自分がいかに欲深い人間であるのか、琉依を好きになって嫌というほど自覚をした。心は常に飢えて琉依を求めるのだ。たった一日とはいえ、自分の我慢でどうにか出来るものでもないわけで、乗り切れる自信を持つほど自分を信用できてはいなかった。

「カムイさんもここにいてくれませんか。二人きりじゃない方がありがたいので」

「ああ、べつに構わねえけどよ。…ここ何もねえな」

 退屈そうに周りを見回したカムイは酒でも持ってくるかなと呟く。

「カムイさんも禁欲したらどうですか」

「やだよ」

「だって、さっきこっそりあの実食べてたでしょう?」

 見てましたよと告げれば照れくさそうにそっぽを向いた。

「だけどやっぱり俺の耳は引っ込まなかったし」

「24時間後にどうなるかわからないじゃないですか」

 初代の呪いが解けるというのなら子孫である彼らにも何らかの効果がないとも限らない。きっと過去に誰かが試した事があるから子孫には効かないというのだろうが、そもそも耳が引っ込む事のない彼らは玲央のように何が引き金になるのかも知らなかっただろう。

「性的衝動っていうのが共通事項なのかどうかもわからないですけど、やるだけやってみたらどうです?」

 無責任なことを言うと後で恨まれるぞと琉依に言われたけれど、カムイはやる気になったようだ。別に恨みゃしねえよとこぼしながら二人のそばに腰を落とした。




 時間との勝負だ。まだかまだかと思いながら過ごす時間というのはなぜこんなにも長く感じるのだろう。必要最低限をまかなう小さな発電機しかないこの村ではテレビを見て時間をつぶす事もテレビゲームで盛り上がる事もできず、原始的にトランプとか双六とかそんなことをしてみたけれど、なかなか時間は過ぎていってくれない。

「なあ、これ、寝ちまえばいいんじゃねえ?半日ぐらいはそれで過ぎるだろ」

 三分の一ほどの時間が過ぎた頃、カムイは大きなあくびをひとつしながら言った。もう外は静まり返って暗く、田舎の早い夜はすっかり更けている。ここで眠ってしまって朝を迎えればもう三分の一ほどの時間はすぐに過ぎてしまうだろう。

 しかし実のところそんな簡単なものではないのだ。カムイはどうだか知らないが少なくとも玲央は眠るわけにはいかない。

「だめだよ、寝てる時ほど無防備な事はないんだ。レオなんてエッチな夢ばっかり見るからいっつも寝ながら耳出てんだぜ?」

 玲央の思いを琉依が代弁する。寝ている時の自分がどうなっているかなんて自分ではわからないが、以前にそう琉依にからかわれたことがある。朝起きたら耳が出ている事もよくあるし、事実に違いない。きっと願望がそのまま夢になってあらわれるタイプなのだ。

「マジか」

 こっちを見るカムイの顔に真面目そうな顔して意外だなとくっきり書いてある。

「出たり入ったりするのも大変なんだな」

 からかうような哀れみの視線を向けられて少しカチンとくる。それだけ辛い恋をしているのだ、現実で我慢している分、夢の中でぐらいは報われたいと思ったって罰は当たらないだろう。

「思春期の男なんてみんなそんなもんでしょう」

「まあな。って思い出させんな。俺だってまだ思春期に後ろ足ぐらい残ってるんだからな」

 男3人集まれば下ネタがとび出すのなんて当たり前で、気をつけていてもふと思考がそっちへ向いてしまう。うっかりがないように気をつけて気をつけて、気の遣いすぎで耳が出るより前に胃に穴があいてしまいそうだ。

「寝るのも我慢するとなるときっついな、これ。初代も挫折したんじゃねえの?」

「だとしたら24時間後に治るかどうかの確証はないってことになりますね」

「所詮は伝承だからな。一時的な効果に過ぎないかもしれないぜ?」

「駄目なら駄目でまた旅を続けるだけです。人を獣に変える魔法を使った人とそれを解く方法を教えた人がいるわけだから、どこかに魔法使いの子孫がいないとも限らない」

「ああ、確かに」


 そんな話をしていると、いつしかウトウトと琉依が船を漕ぎ始める。やはり子供の体は体力がないのだ。今日もずいぶん長く山道を歩いたし、もう限界なのだろう。

「布団敷こうか。ルイは寝なよ」

 声をかけると琉依は無言のまま首を横に振る。既に言葉を発することもできないほど、ほぼ夢の中なのだ。けれど自分も一緒に頑張るんだという意志だけはなくしていないらしい。

 琉依は今まで保っていた距離を詰めると、玲央に寄りかかる。眠さのあまり、注意すべきいろんなことが何処かに行ってしまったのだろうか。そのうちこてんと玲央の膝を枕にして眠ってしまった。

「これはなかなかハードだね。ほんと、宣言通りにやってくれるよ…」

 もう突ついても起きない琉依のやわらかい頬をぶにっと引っ張って、大きく深呼吸する。こんなふうに可愛くすり寄られて平静を保てなんて酷すぎる。琉依はわかっているのだろうか。

「男で兄貴で子供の姿のこいつに欲情する気持ちはわかんねえけど、すげえ魅力的なお姉さんがしていると思えばたまんねえな。こりゃあ必死で気をそらさねえとな」

 そうして一晩中玲央に付き合って話をし続けてくれたカムイはなんていい人なのだろう。もしもこの実がカムイには何の効果もなかったならば、いつか母と和解してカムイに魔法をかけてくれるよう頼んでみよう。そんな日がくるのか、今は想像もできないけれど。


 やがて辺りは明るくなり、朝がくる。呪いが解けるのは今日午後3時きっかり。

 しっかり睡眠をとってすっきりした琉依は一人元気で、でもその元気な姿を見ているとこちらも元気なような錯覚をおこしてくれるからありがたい。ここまでくると無理矢理にでもテンションを上げないと乗り切れない。朦朧としてしまうとどうしても思考がいけない方に向かってしまうのだ。目の前の琉依を見ながら、ああ可愛いななんて思い始めたら妄想が止まらない。

「あとちょっとだから頑張れ。やり遂げたらご褒美に何でも好きなスイーツ食べていいからなっ。ああ、ここにはケーキ屋さんはなさそうだけど…」

「そういえば、甘いもの食ってないなー」

 琉依の励ましに思わずよだれが出そうになり、ごろんと仰向けに転がった。

 呪いをかけられてからこっち、スイーツを食べるなんていう余裕は金銭的にも精神的にもなかった。ひょっとしたら心に余裕がないのはそのせいもあるのかもしれない。呪いが解けても解けなくても、この村を出て街に出たら琉依と二人でスイーツを食べにいこう。まず、何を食べようか。

「…ああ、迷うなあ…」

「ちょっとレオ、そのまま寝るなよ?」

「今なら幸せな夢が見れそうだ」

「幸せついでにエロい事するからダメ!」

 可愛い手にゆさゆさと揺さぶられて、このまま理性を手放して楽になってしまおうかと悪魔が囁いた。


「おーい、何やってんだ。お前ら、メシだぞ」

 昼食を運んできてくれたカムイの声にはたと我に返る。

「…カムイがいてくれて良かった…あぶなかった…」

「大丈夫か?あと3時間…いや、2時間半だ。頑張れ」

 そう言うカムイも目の下にくまを作りげっそりしている。何気なく引きずり込んでしまったけれど、ここまでやって何の効果も得られないのだとしたらあまりにも酷だ。最初からカムイには効果はないと言われていたのに、ものすごく申し訳ない事をしてしまったのではないだろうか。カムイの場合は目の前に欲情する相手がいないだけ玲央よりはつらくないのかもしれないが、24時間プラスそれまでに起きていた分でおそらく32時間前後、寝ずに過ごすだけでも相当なものだ。

 一人元気な琉依はカムイの持ってきてくれたごはんをぺろりと平らげ、山のごはんにもそろそろ飽きてきたなーなんてお気楽な事を呟いた。カムイはぶち切れていたが、玲央の張りつめた心はそんな一言で和むのだ。琉依がいてくれなければ到底頑張れない。




 永遠にも感じる長い時間もやがて終わりを迎える。最後は時計の針とにらめっこだ。残り10分を切ったあたりからそこに置いてあった目覚まし時計を目の前に据え、三人でそれを取り囲んでひたすらじっとその針が動くのを見つめる。確実に時を刻んでいく細い秒針がこれほど頼もしく思えた事はない。

「あと1分っ!」

 ここまで来ればもう終わったも同然だ。あとは玲央とカムイの体がどうなるか結果を待ち望むばかり。

「30秒!うおー、興奮してきたぜ」

 当事者たちよりはしゃぐ琉依はじっとしていられないらしく立ち上がる。

 そんなかわいらしい琉依を微笑ましく見つめたその時だった。


 興奮のあまり、なのか何なのか、琉依は服を脱ぎ捨てる。少し汗ばんだ上半身があらわになるのを無防備に目にしてしまった。

「……あっ……」

 玲央の頭にピョッコリと耳が立ち上がった。

「ええーっ!」

 大きな声を上げたのはカムイだった。

「あと5秒だぜ、おい」

「ルイ、なんで脱ぐかな……」

 がっくりと肩を落とした玲央は自分の不甲斐なさに打ちひしがれる。

「なんか、興奮したら暑くなっちゃって…」

「暑いからってすぐ裸になんのかおまえは。人としてどうなんだ、それは!」

 怒る気力もなくした玲央の代わりにカムイが迫力いっぱいの怒声を上げる。

「だって、その、ごめん、癖なんだ」

「おまえそれは、こいつが可哀想すぎるだろ」

 びしっと指をさされて顔を上げると、琉依が泣きそうな顔をしていた。琉依の頭にも犬の耳があったなら、しゅんと折れ曲がってしまっている事だろう。

「いいんだ、カムイ。そうだった、今に始まった事じゃないんだ。俺がうっかりしてたんです、すいません」

「なんでおまえが謝るかなあ」

 勢いを削がれて長いため息をついたカムイの姿は相変わらずの獣人スタイルだった。やはりカムイたちには効き目がなかったようだ。


「なんかわかったぞ。レオがそうやって甘やかすからルイがいつまでもお子様俺様なんじゃねえの?」

「ああ、そうかもしれませんね」

「なんでそこで嬉しそうな顔をするかなあ」

 自分の頭をかきむしったカムイは尻尾を床に打ち付けると勢い良く立ち上がる。怒ったのかと思ったけれどそうではないらしい。

「俺は帰って寝るぞ。レオもしっかり休んどけ」

 予想外に優しい声を残して出て行った。

「ねえ、もう一回挑戦できないの?」

 琉依は言うが、長老が言うにはチャンスは一回きりらしい。

「たとえもう一回があったとしてもこの苦しみをもう一度味わうのは嫌だぞ、ルイ」

 手を引っ張って琉依を引き寄せる。我慢した分欲望は倍増する。

「ごめんね、レオ」

「ルイだけのせいじゃない。他を当たろう」

 腕の中の琉依の温かさとやわらかさをじっくりと心ゆくまで堪能する。

「尻尾出てるぞ、ルイ」

「もういいよ、いっそこのままでも。ルイには戻って欲しいけど」

「何言ってんだよ」

 琉依は玲央を慰めるように優しく頭を撫でて、ふさふさの耳をぱくりとくわえた。全身の毛が逆立つような感覚が走る。あまりの快感に、もうしばらくはこの体のままでもいいなと本気で思う。


「しょうがねえ、また二人で旅を続けるか」

「そうだな。どこへ行こうか」

「とりあえずは仁志んとこにまた一泊させてもらおうぜ。一日で街まで戻るのは厳しい」

「そうだな。笑い話をひとつ土産に持って行くか」

 琉依の体を離して玲央は体を横たえた。限界を超えた体にはすぐに睡魔のお迎えがやってくる。

「…街に下りたらチョコパフェ食う…」

 そんな事を思いながら声を発したような発しないような感じで意識を手放した。

 もぞもぞと、琉依が隣にすり寄ってまるくなるのをうっすらと感じながら。



<わんことぼく、二人旅・終>

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