終章

薄明


 その身に受けた呪いを解かれて一年、彼らがまた普通の青年になった頃の話。





「ああー、もう、勉強やだ」

 机の上に広げた教科書をわざと大きな音を立てて閉じ、琉依はゴロンと後ろに転がった。両手両足を大きく広げて幼子のようにじたばたと暴れると、手も足もあちこちにぶつけて痛い。

「ルイ、もう小さくないんだから暴れないで」

 小さな座卓を挟んで向かいに座っていた玲央は、しこたま蹴飛ばされ眉間にしわを寄せた。


 暖房の効いた自室で額を突き合わせ、大学入試に向けて勉強中の二人は、鏡に映したように同じ顔、同じ体型だった。ただし、おつむの中身は向かいに座った玲央の方がはるかに上だ。それでも同じ大学に行きたいと、ただいま絶賛琉依の頭脳強化中なのであった。


「大丈夫だ、ルイ。素材は同じなんだから俺と同じだけ勉強すれば同じになれる」

 玲央は至極真面目な顔でそんなことを言うけれど、ストイックな玲央と同じだけ勉強をするということがまず琉依には不可能だと思うのだ。

 そもそもこれまで何年分ものストックが足りない。今玲央と同じだけ勉強をしたって永遠に追いつきはしないのだ。つまりは玲央以上に頑張らなければいけないのだが、そんなことは到底無理である。玲央がとんでもなく頑張り屋だということを琉依は嫌という程知っている。


 だけど、玲央と同じ学校に行きたい。その思いの強さだけは誰にも負けない。多分玲央にも負けない。

 別々の高校に通えていた日々はそう長くはなかったけれど、隣に玲央がいないことが毎日悲しくて仕方がなかった。朝、行ってきますと家を出る時間さえも違い、玲央のいない目覚めからずっと寂しかった。楽しいことも苦しいこともその生活のほとんどを共有できない日々は本当に辛かった。友達とはそれなりに楽しくやっていたけれど、いつも心にぽっかりと穴が開いていた。その穴に気づかないふりをして、上辺だけの自分だった気がする。


(多分、離れられないのは俺の方だ)


  玲央は自分で決めて自分で進める人間だ。ただストイックすぎて拗らせてしまうところもあるけれど、ちゃんと自分の意志で動ける奴だ。人に頼って勢いのままに流れ流されていく琉依とは違う。

 琉依は玲央がいないと自分の立っている場所がわからない。進むべき道も見えない。玲央が「ほら、ここだよ」と自分の隣を指し示してくれないと居るべき場所がわからない。玲央が「そばにいて」と求めてくれないと生きていられない。


(レオに逃げられた俺は、立ちすくむことしかできなかった。だから俺は)


 玲央を逃げられなくしたのだ。雁字搦めにして飛べなくした。壊れていく玲央を見ていられなかったというのも嘘ではない。けれど、本当は琉依が先に壊れていた。母にも玲央にも辛い思いをさせてしまった。


 だから二度と離れないと決めた。それしか二人が壊れずにいられる方法がない。魔法に阻まれたって母に泣かれたって、一緒にいるしかない。


 とはいえ、だ。固い決意がそのまま成績に結びつくわけでもなく、わからないことだらけでこうしてすぐ心折れてしまうのだ。

「レオの考えてることだったらわかるんだけどな、なんでテストの解答はピピっと飛んでこないかなあ」

 こんな発想になってしまうのも琉依が琉依である所以であり、決して玲央にはなれない部分である。

 しかし、いくら双子の神秘といえども伝わるのは何となく胸の奥からくるぼんやりとしたものだけであり、はっきりとした言葉が伝わるわけではないので、そんな便利な使い方はできない。勉強は自力でやるしかどうしようもない。


「ちょっと待って、流石にそれは怖い。答えが書けるほど明確に頭の中が伝わるんだったら俺は生きていけない気がする」

 琉依のぼやきに怒るかと思った玲央は、思いがけず双子カンニング法の想像をしたらしい。そしてなぜか勝手に落ち込んで両手で顔を塞いでしまった。


「なんだよ、俺に何か隠し事でもあるのか?」

 琉依は絨毯に横たわっていた体を起こし、玲央の顔を覆う掌を引き剥がす。そんなに力を込めているわけでもなく、顔はすぐに露わになるが、その目は固く閉じられていた。


「俺の気持ちが重くてルイにドン引かれる。嫌だ」


 うつむいたその姿に幼い頃の玲央が重なる。かつて喧嘩をしたときに一度だけ「レオなんて嫌いだ!」と言ったことがある。自分が悪くないと思ったら絶対謝らなかった玲央が、その瞬間に琉依の手に縋り「ごめん」と何度も謝り涙した。いつだって琉依に嫌われることを何より恐れている。こんなに大きくなっても変わらない。


(かわいいかわいい俺のかたわれ


 身を乗り出し、その頭を抱きかかえて髪をかき回す。


「何?ちょっと、やめてよ、ルイ」

 玲央の耳が赤くなる。あの頃だったらフサフサの耳がぴょこんと可愛く飛び出していただろうけれど、今はない。


 だけどこれ以上のことはしない。それが母との約束だ。想いは否定しないけれど、せめてちょっと仲の良すぎる程度の兄弟でいてほしいと。


 結局あの旅は、不本意ながら母に屈することで終結したのだ。

 子供の体だった琉依が病にかかり、どうにもならなくなった玲央が文字通り母に泣きつき呪いを解いてもらうこととなった。

 当時意識が朦朧としていた琉依にとっては納得いかない部分があるのだが、玲央が「琉依が死んじゃう」と泣きながら家に戻ったという話を母から聞いて、可愛さのあまり不満は飲み込むことにした。

 玲央は「泣いてない、そんなにかっこ悪くない」と母のするモノマネを終始否定していたが、それだけまた玲央を一人で追い詰めてしまったことを悔いた。


 だから母の要求も飲む。ただし、母の前ではだ。この先自立して家を出てしまえば誰も咎める人はいない。あの旅の日のように。


「ねえルイ、俺が志望校合わせようか?」

 一向に進まない琉依の勉強具合を見て玲央は言う。高校受験の時は琉依と離れるためにレベルの高い学校にしたが、玲央自身にさほど上昇志向はないらしい。琉依と一緒に居られるなら琉依が確実に受かるレベルのところでも構わないと言う。

 でも。


「それは嫌だ」

 琉依にだってプライドがある。足を引っ張る存在ではありたくない。玲央の可能性をつぶしたくはない。


(だってもう俺はたくさんのものをレオから奪ってる)


 これ以上、玲央の持っているものを一つだって捨てさせたくはない。


「俺がレオのレベルに合わせるの!妥協とか嫌い」


 嫌いと言うと、ほら、途端に不安になる。玲央の心が流れてくる。


「だから頑張って俺を賢くしろよ、レオ」

「え、それ俺が頑張るの?」

「頑張るの得意だろ?」

「いや、教えるけどさ、ルイが頑張ってよ」

「頑張れるようにして」

 琉依の理不尽に少し考えた玲央は、琉依の手を取り口付ける。


 それは騎士の誓いのように。


「ルイは頑張れるよ。大丈夫」


 遺伝子レベルで琉依を奮い立たせる祈り。


(大丈夫。レオが呼んでくれたら俺はどうやってでも隣に立つ)


 そこにしか琉依の居場所はないのだから。

 どんな高みにだって這い上がろう。

 どこにいたって。


(レオの隣は俺の特等席だ)


 あの日も、今も、これから先もずっと。





<終章・終>

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わんことぼく、二人旅 月之 雫 @tsukinosizuku

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