第19話
家に帰ってきてからもずっと僕達の間に気まずい雰囲気が流れていた。僕はぬいぐるみを抱き抱えて顔を半分埋め、ぼんやりと座り込んでいた。
「……イキル」
静寂を遮ったのは意外にも命の方だった。命は誤魔化すように首の後ろを掻いた。
「あー……なんか、その……悪かったな」
「え?」
「変なとこ見せて……」
「べ、別に……」
気にしてない。と言いたかったが言葉が詰まって出て来ない。本当はさっきの光景がずっと頭から離れないでいたからだ。
「あ……そ、そういや『クロ』って? 本当は名前あったの?」
「違う。 それは名乗らずにいたら向こうが勝手につけていた名だ」
「そうなんだ……」
もっと気になる事があるのにそれについて言及するとまたさっきみたいに教えて貰えないかもしれない。命に拒否される事が怖くて仕方なかった。自然と涙が滲んできそうになるのをぬいぐるみで抑え堪える。
「……イキル。夜、もう一度出掛けるぞ」
「え? 夜に……? どうして?」
「見せたいものがある」
「わ……分かった」
正直もう出掛ける気分じゃないのだけど、せっかく命が誘ってくれているのだから断わるのは野暮かと思った。それから僕達は夜まで時間を潰した。
「……ごちそうさま。 ……あの、出掛けるのはいつくらいになるの?」
「……まぁもう少しだな」
「……?」
命はカーテンを少し開け窓の外を覗いて呟いた。夜に何があるのだろう。考え込んでいると疲れていたのかいつの間にか眠ってしまっていた。
「イキル」
優しく肩を叩かれゆっくりと瞼を開く。命が僕の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か? そろそろ行こう」
目を擦りぼんやりする頭のまま準備をした。扉を開けると冷たい風が頬を掠め思わず身震いした。外は昼とは違い静かで空はすっかり暗くなっている。
「こっちだ」
命に連れられ人気のない公園の茂みにやってきた。
「えっと……命さん?」
「……ちょっと人が来ないか見張っててくれるか」
「う、うん……」
後ろを向いて辺りを見回していると小さく布擦れの音が聞こえてきた。
「もういいぞ」
振り向くと命は獣姿になっていた。炎のように輝く命の瞳が闇の中に浮かび上がっていた。
「乗れ」
「えっ」
「背中に乗れ」
命がその大きな身体を屈めて言う。命の背中に乗れる事に対して感動を覚えてしばらく呆然としていた。
「……おい。 早くしろ」
「あ……はい!」
ハッとして慌てて命の背中によじ登る。乗るのに手間取っていると命は鼻先で僕のお尻をぐいっと押し上げて乗せてくれた。
「わぁ……ふわふわ……」
「しっかり捕まっていろ」
命は大きく翼を拡げ、宙へ飛び上がった。僕は振り落とされそうになり咄嗟に命さんにしがみついた。顔面に当たる強い風に耐えられず目をぎゅっと瞑る。耳の側でひゅうひゅうと風が通り過ぎる音が聞こえる。
「イキル。 目を開けて下を見てみろ」
「ん……わぁ」
そっと目を開き、落ちない程度に下を覗くとそこには建物や車の灯りが宝石のように輝く夜景が広がっていた。
「綺麗……!」
「ふっ……もっといいものを見せてやる」
命は軽やかに夜空を駆け出す。肌に当たる風はとても冷たかったが、命の身体に身を委ねるとふわりと柔らかな毛に埋もれ優しい温もりに包まれた。少し顔を傾げもう一度下を覗くと街からは離れていっているようだ。
「命さん……一体どこへ?」
「まぁ行けば分かる」
しばらくすると周りに建物はなく、見渡す限り山や森の殆ど何も無い場所にやって来ていた。命が飛ぶスピードを緩める。
「今度は上を見てみろ」
「上……?」
空を見上げると溢れ落ちてしまいそうな程視界いっぱいに瞬くたくさんの星がそこにあった。力強い美しい光を放つ星、弱々しくも優しい光を放つ星、白い星、黄色い星、赤い星、青い星……本当に色んな星がある。ずっと見上げていると星空に手が届きそうな錯覚に陥りそうになる。吸い込まれそうな程に美しい満天の星空にただただ見惚れていた。
「……どうだ?」
「凄い……綺麗……本当に」
「そうか。 ……イキル、俺を汚いと思うか?」
「え?!」
思わぬ言葉に命の方を見る。命は前を向いていて表情は見えない。が、どこか寂しそうな雰囲気を漂わせていた。
「……俺はお前と出会う前、あいつやあいつ以外の人間と身体の関係を持っていた」
「身体の…‥関係?」
「分からないか……まぁ分からないならその方がいい。 お前もいずれ分かる時が来る」
「えっと……恋人じゃないけどキスしたりするって事?」
「そういう感じだな……汚いと思うよな」
命は淡々と静かに呟いた。あれ程聞かれるのを嫌がっていたのに今どうして話してくれたのかは分からない。だけど命が本当の事を話してくれるのなら僕もそれに答えなければならない。僕は深く息を吸った。
「……そんな事思わない。 確かに少しもやもやした感じはしたけど……それは命さんに対してじゃないし……命さんがどんな事をしていたとしても僕はきっと命さんを嫌いになれないよ」
しばらく黙っていた命がふっと短く息をつく音が聞こえた。
「……そうか」
命も僕と同じで何かを怖がっていたのかもしれない。声が少し和らぎ普段の命に戻った気がした。僕はそっと命の背中を撫でる。そうすれば僕の気持ちが命に届くと思ったから。
「帰るか。冷えるからな……」
「うん」
そうして命は再び星が瞬く静かな夜空の中を駆けていくのだった。
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