第10話

「……うわああああ?!」


 眉間の辺りに冷たいなにかが落ちてきて勢いよく飛び起きる。


「あ……朝露か」


 葉が濡れた様を見つけてほっと胸を撫で下ろす。顔に当たる水滴の感覚は嫌な思い出を彷彿とさせる。あの頃の自分が自分でないような叫び声が耳の奥から響く。その声を掻き消すように顔を思いっきり振る。

 昨日は結局町中にはいたくなくて、森の麓の辺りまで来ていた。夜は木の葉に包まれて眠っていたけれど、案外暖かった。まるで野生動物になったような気分だった。


「しばらく……この辺りにいようかなぁ」


 動物達のように木の実を食べて生きていけないかななんて考えていた時、どこからか草を踏む音と唸り声が微かに聞こえてきた。


「も……もしかして狼がいるの? で、でも……こんな場所に狼なんてきいた事ないけど……野犬?」


 もし野犬だとすれば近寄るのは危ない。だけど、どうしてかその時の僕は好奇心にとらわれてしまった。出来るだけ音を立てないよう、音の方向へゆっくりと歩を進める。パリパリという木の葉を踏む音は隠しようがない。それでも僕は足を止める事はなかった。この先に音の正体が……いる。僕はそっと草を掻き分け覗き込む。そこにいたのは……


「大きな……獣?」


 そこには漆黒の身体と先になるにつれ赤がかった翼を持ち、頭部に2本の角を持つ巨大な獣がいた。その獣は眠っていたが目を覚ました後、こちらに頭を持ち上げた。獣と目が合う。まるで炎のようにぎらぎらと揺らぐ赤い瞳が僕の姿をしっかりと捉えていた。


「がッ……はッ!」


 突如身体に強い衝撃を受け、一瞬息が出来なくなる。目の前が白く点滅する。


「お前は誰だ? 俺の姿を見たからには生かしては帰さない」


 僕の身体の上に太く大きな毛むくじゃらの獣の脚が乗せられていた。胸の辺りにチクリと痛みを感じた。爪が食い込ませられている。顔に湿った熱い吐息がかかる。大きくナイフのように鋭い牙が視界に入った。先程の赤い目が3つ。僕を睨み付けている。よく見ると更にそれぞれの目の中に瞳が3つずつあった。その全てが僕を映している。呆然と見詰めていると先程よりも低い唸り声と共にその口が開かれた。


「子供でも容赦はしないぞ」


 喉に牙を突き立てられる。それでも何故か僕は怖くなかった。


「……お前、怖くないのか?」

「うん……それに本当に殺す気なら躊躇わないでしょ?」


 大きな獣はゆっくりと僕の首から牙を離した。


「変な子供だ。 俺は化け物だぞ」

「大丈夫だよ。 僕も……化け物だから」


 数秒間僕らは見詰め合っていた。大きな獣の瞳は僕を品定めするようだった。その瞳を見詰めているうちに不思議と口から言葉が溢れた。


「君は……綺麗だね」

「な……?!」


 大きな獣は狼狽えて少し目を伏せた。


「そんな事を言う奴は初めてだ。 お前は……他の人間共とは違うようだな」


 ふいに僕の胸が軽くなる。押さえていた前脚が退けられたようだ。僕は少し咳き込みつつ上半身を持ち上げた。


「……お前に興味が湧いた。 さっき言っていた事は本当か?」

「え? 君を綺麗って言った事?」

「ば、馬鹿! 違う! お前も化け物だからという話だ!」

「あ……そっちか」


 大きな獣は僕から少し距離を取り斜め後ろに黙って座った。僕はじろじろ見たら失礼かなと思い、そのまま下を向いたままこれまでの経緯を話す事にした。大きな獣は僕の話をただひたすらに黙って聞いていた。そして僕が話し終えると小さく息を吐いた。


「……なるほど。 嘘偽りはなさそうだな」

「信じてくれるの……?」

「俺のような存在がいるのだから何があっても不思議じゃない。 もういい……お前の事は見逃してやる。 せめてもの情けだ。 ただ、もし俺の話を誰かにしようものなら……」

「しないよ」


 はっきりとそう言い放った。


「……そうか」

「ねぇ……君の名前は? 僕はイキルっていうんだ」

「ない」

「そうなんだ……でもないと呼びづらいな……そうだ! 僕がつけていいかな……?」


 思わず後ろを振り返って詰め寄る。大きな獣は僕の勢いに圧倒され、ぽかんとしていた。


「……好きにしろ」

「やったぁ……!えへへ」


 僕の頭にはもう既にある言葉があった。それは彼の瞳を見た時に連想した言葉でもあった。


「じゃあ……『命(みこと)』はどうかな」

「命? 何故そう名付けた」

「君の瞳……炎みたいでとても綺麗だったから。命の輝きの炎……」


 僕は優しく微笑む。彼はしばらく黙って僕を見詰めた後、目を細めた。


「そうか」

「だ、駄目だった?」

「いや……いい名前だ」


 この時僕は初めて命と心で繋がったようなそんな気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る