第8話

 おばあちゃんが、死んでしまった。いなくなってしまった。珠依は泣いていた。僕は何も出来なかった。どうする事も出来なかった。その震える小さな肩を優しく抱いてあげる事も。もう2度と目を覚まさないおばあちゃんに縋り、泣きじゃくる珠依を呆然と見つめて、僕はおばあちゃんが亡くなった虚無感と自分の非力さにただただ黙るしか出来なかった。気付くと珠依はいなくなっていた。近所の人を呼びにいったのかもしれない。しんと寂しいくらいに静まり返った空間に僕とおばあちゃんしか残されていない。僕はほぅとゆっくり息を吐き、おばあちゃんへ近付いた。そしてそっとその節くれだった手に手を重ねた。


「……ありがとう……ごめんなさい」


 僕は家を出た。1人になりたかった。それにあの場にいてもきっと邪魔になるだけだと思った。空は泣き出しそうな程に暗く、冷たい向かい風が吹き付ける。ニット帽とマフラーで深く顔を覆い、足早に歩を進める。


「……やぁ、随分と淋しくなったね……」


 珠依のお気に入りの場所、僕と珠依の特別な思い出の場所……

 葉も殆ど枯れ落ち、ひっそりと佇む大きな木に僕はいつものように腰を下ろした。ゆっくりと瞼を閉じてみる。僅かに残された枯れ葉が風に吹かれ、カサカサと音を立てる。どのくらいその場にいたのだろう。枯れ葉を踏み僕へ歩み寄る足音。


「……ここにいたんだ」

「珠依」


 相当泣いたのだろう、目は赤く、少し鼻声だった。


「……明日ね、おばあちゃんのお葬式をするの。 お父さんとお母さんもこっちに来るんだって……」

「……そう」

「おばあちゃん……死んじゃった……」


 珠依が俯く。僕は、彼女にどんな言葉をかけてあげたらいいのだろうか。今僕に出来る事は……

 僕はすうと息を吸い口を開いた。


「歌……?」


 僕は歌った。彼女の為に。彼女の心に、少しでも僕の想いが伝わるように。心を込めて。


「……素敵な歌だね」

「僕が前にいた場所で大切な人がよく歌ってくれた子守歌だよ」

「へぇ、とても……綺麗」

「そうだね……大好きな歌だ」

「違うよ。 歌もそうだけど、イキルお兄ちゃんの声、とても綺麗で心にとても染み込む……そんな感じ」


 僕の声が綺麗……?


「ねぇ、お願い……もっと歌って?」


 僕は歌う。君が望むなら、また笑ってくれるなら、何度でも。おばあちゃん……貴女もこの歌を聴いてくれてるのかな。珠依は僕の膝の上で泣き疲れ寝てしまったようだ。僕は彼女の頭を優しく撫でる。いつの間にか僕の頬も濡れていた。


 やけに広く感じる、うす暗い冷たい家の中。静かに時を刻む時計の音だけが部屋に響き渡る。今、珠依はいない。今日はおばあちゃんのお葬式。本当なら僕もおばあちゃんにちゃんとお別れをしたかったけれど、僕みたいな身元の知れない人間は追い返されるに決まっていた。1人は、怖い。寂しい。心が酷くざわつき、冷たくなっていくような感覚に襲われる。どれだけの時間待っただろうか、玄関の戸が開く音が聴こえた。僕は珠依が帰ってきたのだと急いで迎えにいった。でも、そこにはいたのは珠依だけじゃなかった。


「……貴方誰?」


 僕に向けられる目……それの目を、僕は知っている。思わず身体が竦む。


「お母さん! この人は……えっと、そう! 近所に最近引越してきたお兄ちゃんなの!」

「最近引越してきた……ねぇ」


 珠依のお母さんは怪訝そうな表情で僕を眺めていた。きっと怪しまれてる。どくんどくんと心臓が激しく鳴り、周りの雑音をかき消していく。


「近所の子供が、どうしてここにいるの?」

「それは私がお留守番を頼んだから……」

「他人を易々と入れるんじゃありません!」


 他人、という言葉が深く胸に突き刺さる。そうだ、珠依にとって僕は他人。分かっていた事なのに、涙が溢れそうだった。


「珠依、早く荷物を纏めてここを出る準備をしなさい」

「え……」

「当たり前でしょう? 貴方をここに1人にさせるなんて出来ないわ」


確かに珠依はまだ幼い、おばあちゃんがいなくなってしまった今、この家を離れて家族と暮らす事は当たり前の事だった。だけど……そうなれば僕は……


「待って! もう少しだけ時間をちょうだい!」

「珠依」

「お願い」


 珠依のお母さんは渋々といった風に僕を一瞥して出ていった。僕と珠依の間に沈黙が流れる。先に口を開いたのは珠依だった。


「……私、お母さんとお父さんと一緒にまた住む事になったの」

「……そっか」

「でも、そしたらイキルお兄ちゃん……」


 珠依は今にも泣き出しそうな目で僕を見上げる。僕は低くかがみ、珠依の頭をそっと撫でる。


「僕は大丈夫……ずっと君に迷惑をかける訳にはいかないよ」


 珠依が震える身体で僕に抱きついてきた。小さくて、あたたかい。


「ごめんなさい……イキルお兄ちゃん……私……」

「ううん。 いつかはこうなるって思ってた……珠依、今まで本当にありがとう……大好きだよ」


 本当は怖い、と叫べたらどれだけ楽だろうか。助けて欲しかった。だけど、もうそんな事は許されなかった。

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