マイナス7(6)
そして、土曜日。いや、正確に言うともうすぐ日曜日になる。
どうして僕は、過去の世界に来てまで、部屋にあった古いマンガ雑誌を読み漁ってしまったりしたんだろう……。
いや、これもまた、自分の記憶とこの過去の世界に何か食い違いはないか確認する作業なのだ。載っている広告も、作中の時事ネタも、昔見たままだ。
ベッドに寝転がり、枕元で充電していたガラケーを、何とはなしに手に取る。そうそう、大学入学を機にスマホに替えるまで、この機種を使ってたっけ。
意味もなくケータイをパカパカさせて久々の感触を楽しんでいると、ちょうど日付の表示が変わった。そのままボタンを操作していると、ひとつのアイコンが目に留まった。
扉の前にちょこんと座った猫のシルエット。タイトルは『D.O.O.R.』。
思い出した。この頃、学校の生徒たちの間で流行っていたソーシャル・ネットワークのコミュニティだ。
ついつい液晶画面を直接タップしようとしてから気づき、カーソルを合わせて決定ボタンを押す。短く表示された画面には先ほどの猫のアイコンと、“The Door into Summer”という小さな英字のロゴ。
有名なSF小説の原題が元ネタだと、前にタカが話していた気がする。
……なんだろう、それだけじゃない。何かが思い出せそうで引っかかっている。
幸い、ログインは自動でできた。パスワードなんかもうおぼえちゃいないので、でなければ二度と入れなかっただろう。
ログインすると、自分がフォローしている人たちのつぶやきや日記、画像なんかが表示される。しかし僕は、あまり親しくしていないクラスメイトに連絡事項があるときぐらいにしか使っていなかったので、たいした情報はない。タカがまめに深夜アニメの感想を書いていて、顔も知らないよその中高生から妙に人気だったり、ミキが飼っているインコの写真をひたすらアップしていたりするぐらいだ。
ちなみにこのインコ嬢は長生きで、今でもたまに画像がグループ送信されてきたりする。
そう言えば、いちおうweb業界にいるにも関わらず、七年後にこの『D.O.O.R.』の話を耳にしたことがないのはちょっと奇妙な気がする。
うーん、でもスマホに対応できずにそのままサービスを閉じちゃうのも『あるある』だしなぁ。あるいは流行っていたのは本当に僕らのまわりだけという、かなり地域や年齢層が限定された狭いSNSだったのかもしれない。
悪いクセが出てまたついついそんな脱線したことを考えていると、
* * *
日曜の午後。僕はドーナツショップで芹奈を待っていた。さすがに外は暑いので、の窓際の席でアイスコーヒーを飲んでいる。そっか、ファーストフード店とかなら、こういう待ち合わせもアリだった。付き合い始めた頃は、いつもこんな感じだったっけ。
お金は財布の中にいくらか入っていた。今月分の小遣いの残りだろう。
社会人の感覚で使っていると、すぐなくなってしまうから気をつけないとな。
芹奈は休日の朝は寝起きが悪いし、身支度に二時間はかかると見て、午後二時に約束を取り付けた。このへんの手筈は慣れたものだ。
時間の少し前に芹奈がやってきて、まっすぐに僕のほうへ歩いてくる。
タカが大の甘党で僕がコーヒー好き。ケイゴは特にこだわりがなくて僕らに合わせてくれるし、ミキはさらにそんなケイゴに合わせる。そんなわけで僕らが集まるのはいつもこの店で、座る席もだいたい決まっているのだ。
あらためて考えると、高校時代の芹奈の私服はあまり見たことがなかった気がする。
今日は夏らしい白いキャミソールにフリルスカート。大人の芹奈を見慣れていると、少し幼くさえ感じてしまうような格好だ。
「若いね」
「ん? そりゃ若いよ、ピッチピチだよ」
思わずそうつぶやいたのを聞きつけた芹奈が、あまり若そうでない返答をしつつ、僕の向かいに座る。
「えっと……呼んだのって、あたしだけ……なんだよね?」
「うん、相沢だけだよ」
僕がそう言うと、芹奈はなぜか少し眉をひそめた。
「『相沢』?」
僕はあわてて一昨日からの記憶を探る。苗字だけが違っているとか、そういうことはなかったはずだ。そんな僕の顔を見て、芹奈はさらに不満げに言った。
「更衣室のとこでさ、『芹奈』って呼んだじゃん」
「あ、うん」
「いちど呼んだのにまた戻すのも変でしょ。芹奈でいーよ」
「じゃあ……芹奈」
「ん」
短く答えて、芹奈は自分の手の爪をチェックするふりをする。残念ながら、それが彼女が照れたときにするクセなのは、僕はすでに知っているんだけどな。
「でさ……あたしに話、あるんだよね?」
「うん。ちょっと確認したいことがあって」
「なに? べつに彼氏とかはいないよ」
なぜか聞いてもいないことに食い気味で答える芹奈。
「いや、そうじゃなくて……ちょっとゴメン」
僕は席を立って芹奈の横まで行くと、さりげなく身をかがめて、彼女の着ているキャミの裾をほんの少しだけまくりあげた。
「……なっ……!?」
反射的に裾を手で押さえる芹奈だったけど、僕はすでに彼女の白いお腹を確認していた。
やっぱり、ないか。
「な、何すんの、こんなとこで……!」
「数年後に盲腸になるから気をつけなよ」
顔を真っ青にして脂汗をにじませながら大丈夫だという彼女を、強引に救急車に乗せるのにどれだけ苦労したか。
親父が元気でいることといい、ハリウッド映画の特殊メイクレベルにまで手の込んだドッキリでなければ、やっぱりここは過去の世界なんだろう。
とつぜん謎の予言者めいたことを言ってひとりで納得している僕の姿に、芹奈も怒るべきなのか反応に困ったらしい。
「あたし、ドーナツ注文してくるから! 丸いやつ!」
まだ動揺してるみたいだ。べつに形を宣言する必要はないし、ドーナツは大半が丸い。
トレイを手にして戻ってきた芹奈に、僕はあらためて言う。ここからが本題だ。
僕の表情を見てか、芹奈もきちんと座り直して姿勢を正した。
「で、芹奈に聞きたいんだけど」
「うん……」
「芹奈はさ、卒業した後は看護学校に行って看護師になりたいんだろ?」
彼女は丸い目をさらに丸くして、ぽかんと口をあけた。
「な、なんで!? まだ誰にも話してないのに……!」
そう、彼女は自分の中でしっかりと決意が固まってからでないと、決して口に出すことはしない。もともと成績はそんなに良いほうじゃなかったけど、ちょうど高2の後半あたりから人が変わったように伸び始め、無事に希望通りの進路を決めた。
思えば、あのとき救急通報を拒んだのも、芹奈の性格からして、看護師の苦労や入院生活の実態をもともと知っていたからかもしれない。
ともかくこれは、この時点の自分が絶対に知っているはずがない未来の情報だ。
つまり――僕が体験した24歳までのあの七年間は夢や妄想じゃなくて、これから実際に起こることである可能性が高いってことになる。
そのとき、隣の席に座っていた女性二人連れが、手にしたケータイを見て素っ頓狂な声をあげた。
「えっ!? 解散!?」
どうやら例の、僕が好きだったバンドの話らしかった。……ああ、そう言えば、ニュースになったのはこの時期だった気がする。
今の自分が知っているはずのない情報。と、いうことは――
「……芹奈に聞く必要なかったな……」
「はぁ!?」
さすがに僕もこれは失言だと思ったので、素直に謝った。
「いやゴメン、嘘だよ。芹奈がこうやって近くにいてくれるだけで、ほんと精神的に助かってる」
これは正直な僕の気持ちだ。
芹奈の顔から怒りの色がすっと消えて、困惑したような何とも言えない表情になる。つくづく、この頃の芹奈は感情がすぐ顔に出て見飽きない。
「えと、それって、どういう意味、かな……?」
「え? 言葉通りの意味だけど?」
それを聞くと、芹奈はあきらめたようにため息をつき、グレーズのかかったドーナツにかぶりついた。
こうやって向かい合って何かを頬張る彼女の姿をどれだけ見てきたか、今の彼女は知らないんだろう。
――その唇に、何度キスをしただろう
もしも今したら、どういう反応をするだろう。
怒るか、真っ赤になってうろたえるか。
七年後の彼女なら、何事もなかったかのように流してしまうんだろうな。
怒りや拒絶よりも、ある意味いちばんキツい。
「あ、じゃあもうひとつ質問」
少しだけ、意地悪な気持ちが混ざってないと言えばウソになる。
「もし仮に……仮にだよ。僕と芹奈が付き合ったら、うまく行くと思う?」
僕の向かいで彼女は盛大にむせた。
水を飲んで一息つき、再び座り直して真顔でじっと僕の目を見る。
「『うまく行く』って、どういうことを指すのか、わからないけど……」
恋愛なんて、凹と凸がピッタリ合うとか、そういうものじゃない。
本来は合わないものを無理やり削ったり押し込んだり、きっと、そういう作業を恋愛と呼ぶんだ。
僕はそんなふうに思ってる。
そして芹奈は、真剣な表情のまま、こう言った。
「相手がそれで幸せになれるかってことなら、たぶん大丈夫だと思うよ。……あたし、がんばるから」
……白々しい、と恨みごとを言いそうになって我慢する。今の芹奈は何も悪くないんだ。七年後の芹奈だって、たぶん悪くない。
例えば、今ここで芹奈に告白して付き合ったら、未来は変わるのだろうか。
いや、冷めるまでの時間が早まるだけだろう。未来でどうしても見つからなかった回避策が、ここで見つかるとも思えない。
……ただ単純に、僕たちはうまく行かなかったんだよ、芹奈。
そんな僕の心の内を知るはずもなく、芹奈はふっと身体の力を抜き、明るい笑顔になった。
「まぁ、
これは本当に予想外の言葉だったので、僕は怪訝そうな顔をしていたのだろう。彼女は続けてこう言った。
「ここ最近ずっと、様子がおかしかったもんね」
……木曜日からじゃなくて、ここ最近ずっと?
「あの子のこと、前から気にしてたでしょ。あたしだってそれぐらい気づいてるよ。彼女、ここんとこまた学校に来てないみたいだけど」
「あの子って……?」
そして芹奈は、僕が思い出すことさえ、考えることさえ無意識に避けていたその名前を口にした。
「
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