『マイナス7』

マイナス7(1)

 猫の鳴き声が聞こえたような気がした。


「……え?」


 細長い室内に、スチール製のロッカーがずらりと立ち並んでいる。

 カビ臭いような、何かの薬品のような、独特の匂い。それもどことなく懐かしい感じがする。

 見覚えがあるような、ないような。


 ……いや、僕は芹奈せりなと店で飲んでいたんじゃなかったっけ?

 彼女と別れてから……あれ、よく思い出せない。

 記憶が飛ぶほど酔ってはいなかったはず。とてもそんな気分じゃなかったからだ。


 しばらく立ち尽くしていたものの、こんな所でぼうっとしていても仕方がない。とりあえず外に出てみようと、左手に見えた扉のほうに身体を向けたときだった。カラカラと音を立てて引き戸が横にスライドして開き、その向こうにいた人物と目が合った。


「……え?」


 さっきと同じ間抜けな声を、繰り返し漏らしてしまう。

 戸口に立っていたのは、芹奈だった。

 なぜか高校時代の制服を着て、教師から注意されない程度に茶色に染めた長い髪をポニーテールに結っている。

 彼女は、パッチリとした目をさらに丸くして僕のほうを見ていた。


籏野はたの……!? ちょっ、何やってんの!?」


 彼女から苗字で呼ばれるのなんて何年ぶりだろう。とりあえずそんな感想を抱くしかなかった僕めがけて、芹奈は小走りで詰め寄ってきた。

 なんだか芹奈の背が縮んだように感じて、反射的に彼女の足元に目をやる。パタパタという足音がしたのも、ヒールじゃなくて学校用の上履きなせいだ。

 ついでに彼女の太ももが目に入った。スカートの丈がとても短い。確かに高校の頃はこれぐらいの長さだった気がするけど、今の芹奈だったら僕が頼んだって履いてくれなさそうだ。


 ともかく、おかしなことだらけな状況で、よく知った彼女が目の前にいるのは何よりもありがたい。抱きしめたくなる気持ちを抑えつつ、僕は彼女にここがどこなのか聞こうとした。

 そのときだった。部屋の外から、大勢がこちらに向かってくる足音と、女同士の喋り声が聞こえてきた。


「……でさー……そしたらあの女……」

「……えー……ありえんくね? アイツ……」


 戸口のほうを一瞬振り返った芹奈が、深刻な表情になって僕の顔を見る。


「やば……! みんな来ちゃうよ」


 そう言うと芹奈は、後ろのロッカーを開けると、そこに僕を強引に押し込んだ。

 おいおい、そんな漫画みたいな……と抗議しようとすると、外からガタンと音がした。どうやら芹奈がもたれかかって扉を塞いだようだ。そして、たくさんの足音と喋り声が室内に流れ込んできた。

 ロッカーの扉に開けられた細いスリットからは、芹奈の背中と後頭部しか見えない。まあ、もともと閉める時に空気を抜くためにあるんだから仕方ない。中を覗くための穴じゃないし、まして中から外を覗くためでもない。


 前方、そして右左と、周囲からバタンバタンとロッカーの扉を開ける音が響きはじめる。

 聞こえてくる話の内容と物音からすると、どうやらこの薄い扉板一枚挟んだ向こうで、大勢の女子たちが着替えている真っ最中のようだ。


 ……これはちょっと、マズイやつなのでは?

 暗くて狭い空間に押し込められて、他に何もできないせいか、かえって落ち着いて状況を整理できるようになってきた。


 そこまで飲んでいたつもりはなかったのに、酔った勢いでどこかの更衣室に不法侵入してしまったのか。


 それに問題は芹奈だ。なぜか女子高生のコスプレをしているのも、お互いアルコールのせいということであれば話は早いんだけど。


「あれ? セリーヌは着替えないの?」


 扉の外で、女の子が芹奈に話しかけたようだ。そう言えば高2の頃、そういう名前の大物歌手が来日するとかしないとかで、芹奈は一瞬だけそんなあだ名で呼ばれていた。

 扉がまた少し音を立てて揺れる。芹奈がこちらを気にしながら答えるのが聞こえた。


「あ、うん。……ちょっと急にお腹痛くなってきちゃってさ。見学しといたほうがいいかも」

「あー、そうなん? うち、カバンに予備のあるから、持ってないならあげよっか?」

「ううん、だいじょぶ。ありがと」


 昔から芹奈はこんなふうに、誰とでも話を合わせて馴染んでしまえる。

 そんな彼女が、どちらかと言えば変わり者扱いされていた僕らのグループにいたのは、不思議でもあるし、妥当とも言える。

 僕自身も変人に含まれるのは納得いかないところがあるけども、周囲によれば何が起きても妙にマイペースだとか、「気にするとこ、そこ?」みたいな面が多々あるとか、そういうところが理由らしい。うーん、そんなに変かな。


 そんなことを考えているうちに、ひとまず危機は去ったらしい。扉がそろそろと開かれ、芹奈が顔をのぞかせた。無言で手招きし、早く出て来いと僕に合図する。

 芹奈の後ろにくっついて部屋から出ると、彼女は周りに誰もいないのを確認してふうっと息を吐いた。

 廊下に出てみて、僕はひとつ納得する。

 見覚えがあるように感じたのは、僕が通っていた高校だったからで、見覚えがないのはそこが女子更衣室だったからだ。


「籏野さあ……」 高校時代そのままの様子で、芹奈が僕に話しかける。「のぞくにしても水泳前の着替えはシャレにならんって。どうせ高原たちと馬鹿な罰ゲームでもしてたんだろうけど」


 ――


 その理由のひとつに僕は気づいた。窓から廊下に差し込む日差しは真夏日のそれだ。

 芹奈の白い夏服がその光を照り返している。記憶の中にある光景と全く同じように。

 いやいや待ってくれ。そもそもさっきまで夜だったじゃないか。


「あたしだって、あんな所で男子と二人きりでいるのなんて見られたら、なに言われるかわかんないでしょ」


 男女として意識しあう前の、フラットな友人同士としての懐かしい口調。


「で、籏野はサボるの? あたしはほら、体調悪いとかで言い訳できるけど」


 無意識にお腹に手をやりながら芹奈は言う。すぐ表情に出るのが面白くて僕がからかいすぎたせいで、最近ではすっかりポーカーフェイスが上手くなってしまった芹奈だけど、考えていることが仕草に――特に、手に――出てしまうのは昔も今も変わっていない。


「芹奈」


 思わず確かめるようにそう呼び掛けてしまう。


「えっ、な、名前? なんで――」


 僕は動揺する彼女の右手を取って、薬指を確認する。店にいたときは確かに着けていたはずの指輪がない。


「ふひゃっ!?」


 いきなり手に触れられて、芹奈は珍妙な声を上げた。


 目の前にいるのはどう見ても芹奈本人……ただし、高校時代の。


「は、籏野、なに……」

「ごめん、また後で!」

「はぁ……!?」


 校舎の造りは体がおぼえていた。僕は廊下の先の男子トイレに駆け込んだ。

 年季が入って少し曇った鏡の中に映っていたのは、なつかしい母校の制服を着た自分の姿。ヒゲも薄いし、頬にはぽつぽつとニキビができていたりする。


「……マジか」


 どう考えてもありえない、想像を超えた異常な事態に直面して出てきたのは、そんなごく普通のありふれた言葉だった。

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