秋の気配(2)

 自分のぶんを出そうとする芹奈せりなを軽く手で制して会計をすませた僕は、そのまま先に立って店を出た。

 いつかのあの日、仲間たちは翌日の仕事や別の約束を理由にひとりまたひとりと抜けて、最後に僕と芹奈だけが残っていた。

 高校時代のように他愛のない話をして、別れようとしたところで、芹奈が僕の服の裾をつかんで、目を合わせず下を向いたまま、小さな声でこう言った。


「……いっしょに帰りたい」


 当時は未成年だったから、彼女が素面しらふだったかどうかはあえて触れないでおくとして、ともかくその夜から僕と芹奈は恋人同士になった。


 外では恥ずかしがって手もつながないけど、部屋でふたりだけになると急に甘えてきたり、お互い黙って本を読んだりテレビを見たりしているだけのときでも、意味もなくくっついてきたりするのが、たまらなく可愛かった。

 告白してきたのは芹奈のほうだけど、付き合ってからは僕も芹奈をちゃんと好きになって、僕なりに大事にしてきたつもりだ。今こうして彼女の心が離れていくのを感じて、心臓を直にかきむしられるような気分になるのは、その証拠じゃないか?


「それじゃ……あたし、明日もシフト早いから」


 あの夜、僕の服の裾をつかんだ右手は、今はバッグを提げている。その手首を左手で握るように添えて、今夜の芹奈はそう言った。

 恋愛は野球やサッカーとは違う。どれだけ点を重ねて、一度の失点も反則もなかったとしても、唐突にゲームセットを告げられることがある。


 振り返りもせずに歩き去って行く芹奈の後ろ姿を見送るのもつらくて、もちろん追いかける気にもなれなくて、僕は何かで気を紛らわせようと、以前にここにあった店の名前をスマホで検索してみようとした。

 でも、閉店した店の情報なんて、ちっとも出てきやしない。

 あの夜のことはもう、僕の記憶の中にしか存在しないんだろう。


 ……そのとき、狭い路地のほうで何かが動いた気がした。そちらを見ると、小さな黒い影が、暗がりの中で目を金色に光らせながら、短くにゃあと鳴いた。

 まるでそれに反応したかのように、手の中のスマホが振動する。画面に目を落とすと、そこには見たこともないウィンドウが開いていた。


『"The Door into Summer"』

『kuro-koppeさんから招待が届いています』

『Retry?』


 ポンポンポンと、3行のメッセージが順に表示されていく。職業柄、ウィルスのたぐいには気をつけているつもりだけど、こんなものは聞いたことがない。

 だいたい、まだ何もしていないのに、なぜいきなり『リトライ』なんだ?

 やり直すって、何を?


 もういちど、猫の鳴き声が聞こえたような気がした。

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