パパのお姉さん
百谷シカ
本編
「なんでそこにいるのよ!」
ふりむいたママはバケモノみたいな顔で叫んだ。
バシン!
ぐらり。
わたしは右に倒れた。壁に激突して、ぐにゃりと座った。
髪の毛が視界を塞いで、前が見えない。
左のほっぺたが、ジンジンする。
「あんたなんか消えちゃえばいいのに!」
ママはまだ叫んでいる。
いつも力いっぱい叫ぶ。
「こっち見るなああぁっ!」
体をふるわせて絶叫するママが恐くて、わたしも叫んだ。
「きあああああああああっ!!」
「うるさい! うるさいッ!!」
ママが遠ざかる。
ママはキッチンの棚にあったパンの袋を掴んで、わたしの頭にぶつけた。
ママはまだ遠ざかる。
ママは置きっぱなしの何かに躓いて転びかけた。
「ママァッ!」
「うるさいッ!」
カウンターに掴まって持ち直したママが、レンジの上に置いてあったスープの箱をわたしに向かって投げた。箱はおでこに当たって落ちた。
「いたい!」
「うるさい! 泣くなッ! 泣くなあぁぁっ!」
ママも泣いている。
ママが動物みたいにグエグエ言って、ガチャガチャと抽斗を混ぜ始めた。わたしは知っている。ママは硬いものをわたしに向かって投げるんだ。
「ママ! ママアアァァァッ!!」
「……してやるっ、今度こそ殺してやる……っ……!」
ママが、分厚いお肉を叩くときに使う銀色のトンカチみたいなものを掴んで、わたしを睨んだ。
まずい。
今日こそ、ママは本気だ。
「逃げるなぁぁぁッ!」
力いっぱい怒鳴るママをふりきって、裸足のまま家を飛び出した。
外はもう、うっすら暗くなっている。あと二時間くらいで、パパが返ってきてくれる。パパがいれば、ママはわたしに痛いことはしない。でも待てなかった。
車はぜんぜん通らない。
少し高い位置にあるわたしの家は、この下り坂を通りながら街が見渡せる。パパが下りるバス停も、パパと行くお弁当屋さんも見える。ずっと前はママも連れて行ってくれたスーパーマーケットやケーキ屋さんも見える。
見えるはずだった。
今日は、たくさん涙があふれていて、道路もほとんど見えなかった。
わたしが泣きながら一生懸命走っても、だれも助けてくれない。
というか、だれも通らない。
パパは家族だけで静かに暮らしたいから丘の上のお家を買ったのだと言っていた。
だから、どんなに叫んでも、だれも来ない。
わたしは命懸けでパパを呼びながら、がんばって走った。
「パパぁ……」
でも少し疲れてしまって、走るのをやめた。
ふりかえっても、ママが追いかけてくる気配はなかった。
とにかく、バス停まで行こう。
それで、パパが帰ってきたら、抱っこしてもらって、お家に帰るんだ。
手の甲で涙をふいて、その手をスカートでふいて、ふいた手でぶたれた左のほっぺたをナデナデしてあげた。そうしたら悲しくなって、もう動けなくなって、その場で泣いた。
しばらく泣いていたら、なんとなく気配がした。
うす暗いし涙でぼやけているけれど、前の方からだれか走ってくる。
ママではない。ママは坂の下からは来ない。お家にいるんだから。
でもパパでもなかった。
人形みたいに髪と手足が長い、小さなバッグを腕にかけた、お姉さんだった。
「どうしたの、大丈夫?」
そんなふうに叫びながら、お姉さんは私の前に滑り込んで膝をついた。
お姉さんは、わたしを抱き寄せて、恐がっているような顔でわたしのほっぺたを指先で撫でた。
「ひどい」
お姉さんの手は、冷たくて、気持ちいい。
「なんてこと……嘘でしょ」
「パパ……?」
「ごめんね。パパじゃないの」
そりゃそうだ。
わたしは、パパは一緒じゃないのかと訊いたのだ。
「でも、もう大丈夫。お姉ちゃんがいるからね。大丈夫よ」
「……」
お姉さんは、自分で自分をそう呼ぶのか。
そう言えば、パパも自分をパパと呼ぶし、ママも自分をママと呼ぶ。
わたしは、なんだろう。
「……おうち」
「え?」
お姉さんは、ママよりずっと細くて、きれいだ。だからパパがお姉さんを好きなのも納得する。わたしも、バケモノみたいにふよふよ膨れたママより、いつもオシャレしているお姉さんの方が好き。
パパのスマホに、お姉さんとの写真がたくさんあった。
会うのは初めてなのに、お姉さんもわたしのことを知っているような感じがする。きっと、パパがスマホの写真を見せたのだ。
お姉さんの腕につかまって、涙をこらえて、ちゃんと目を見てお話しをした。
「お家。パパを待つの」
「お家に、帰るの?」
わたしの目を覗き込んで、お姉さんは少し迷っているようだ。
お姉さんは、いい匂いがした。長い髪からは、お花っぽい匂い。ぷっくりしたお胸からは、甘いミルクの匂い。
お姉さんの服はお胸も肩も足も出ていて、なんだかバスタオルを巻いているみたいで布が足りないと思う。でも写真でお姉さんの裸を見たことがあった。すごくきれいだった。だから、お姉さんが薄着したくなるのも当然かもしれない。
ママは汚い。
お姉さんが、もう一度しっかり抱きしめて、頭を撫でてくれた。
それから、しっかりと、何かを約束するようにわたしの目を近くから覗いた。
「そうね。一度、お家に行かなきゃ」
立ち上がると、お姉さんの膝はすりむけて血が出ていた。わたしを抱きしめるために、ずっと地面に座ってくれていたから怪我をしたのだ。とても申し訳なく思った。
お姉さんは、手をつないでくれた。
歩く速さも、わたしに合わせてくれた。ママみたいに引きずらない。
お家に帰って来ると、ママはまだキッチンで吠えていた。髪はボサボサで、服もずっと同じのを着ているから汚れているし臭い。それで床を這いつくばるのだ。豚みたいに。きれいなお姉さんにこれがママですと見せるのはとても恥ずかしい気がした。
「ひっ!」
カウンターの傍に立っているわたしとお姉さんにやっと気がついたママは、一瞬とても恐がって、それからバケモノの顔になって叫んだ。
「なによッ!」
「あなた……」
「あんた誰!」
お姉さんは呆れたように笑って、首をふった。
きれいな髪がふわりとゆれて、いい匂いが辺りに広がる。
「まあ、いいわ」
お姉さんがわたしの手を放して、庇うようにお尻で顔を押してきた。わたしはちょっと下がって、お姉さんとママを見あげた。
もう涙は止まっていた。
「これを見て」
お姉さんが小さなバッグからスマホを出して、床のママに画面を向ける。うす暗いキッチンでスマホの光をうけて浮かび上がるママの顔は、いつもよりずっと悍ましかった。
「あなた母親なんだから、逃げなきゃダメだよ。あの子連れて。何やってるの」
「……あっ!」
ママが短く声をあげて、口を押さえた。
まん丸に見開いた目でじっとスマホを見つめている。
そのうちもう片方の手も重ねて、両手でがっちり口を押さえて、ぶるぶるとふるえだした。でもスマホに釘づけだ。
「そんなに痛めつけられて、辛かったと思う。でも、あの子にはあなたしかいないでしょ。守ってあげなきゃ」
「……ッ……、……」
「ママなんだから」
お姉さんがスマホをカウンターに置いた。ママはびくんと跳ねてお姉さんを見あげた。お姉さんが、お鍋や段ボールやペットボトルを避けて、ママに近寄っていく。
わたしはスマホに手を伸ばした。パパと同じ機種だ。パパのだろうか。
「あなた……どうして、生きてるの……?」
ママの掠れた声が聞こえた。
スマホは動画が一時停止になっていたので、画面下のバーを少し前に戻してみた。ベッドしかない部屋を斜め上から映しているみたいだった。テレビで見る防犯カメラみたいな感じだ。
「……こ……こないで……ッ」
画面ではパパとお姉さんがくっついている。
ぐっと体を伸ばしたお姉さんの喉がすごくきれい。
パパがお姉さんの上にまたがって、その首を左の手で押さえた。お姉さんがびっくしりて起き上がろうとしたとき、パパが右手をベッドの下に入れた。
「こっちへ来ないでよおッ!」
パパがお姉さんのお腹にナイフを突き刺して、切り裂いた。
いつもみたいに。
「……バケモノ……!」
「それ、人間じゃないってこと?」
声を絞り出してふるえるママに、お姉さんは乾いた声でそう返した。
スマホの中では、お姉さんはパパにあちこち切り裂かれてピクピクしている。
「や……いや、こないで……っ」
「人間ってなに? 不倫して、抱いた女殺して喜んだあなたの旦那は?」
「やめて」
「心がなくても人間の方がいい?」
「ッ」
ママが変なふうに息を吸った。
わたしは動画に夢中だった。いつもみたいにたくさん切ったあとの体に重なってクネクネと血塗れになっていくパパ。ドキドキする。すごく体が熱くなる。
「私はいつも
スマホの向こうで、お姉さんがママの前で膝をついた。
そして、ふるえるママの頭を撫でる。さっき、わたしにしてくれたみたいに。
「今日は殺してきてあげたから」
ママを撫でるお姉さんは、優しい。
でもスマホの中では、真っ赤なパパを下からつかんで、暴れるパパの頭をグシャッと潰して、のっそり起き上がった。顔に垂れる髪の間から、ギラギラ光る恐ろしい目が見える。
それで、こっちを睨んだ。
「キャァァァッ!」
わたしがスマホを放り投げて叫ぶと、ママがお姉さんを押し退けて転びそうになりながら逃げて行った。
お姉さんが、それを肩越しに見送っている。きれいだけど、冷たい目で。
「……ぁ……」
逃げなきゃと思った。でも足が動かない。勝手に体中ガタガタふるえて、息ができない。
パパが死んだ。
お姉さんが、殺した。
「……」
お姉さんは軽やかに立ち上がると、わたしが放り投げたスマホを拾って、片手で砕いた。その破片から何か小さなものを拾って、チョコみたいにポキッと食べた。
そして、わたしを見下ろす。
恐い。
でもお姉さんは、わたしを見て悲しそうな溜息をついたと思うと、さっきと同じように目の前で膝をついた。わたしをゆっくり、優しく、がっしりと抱きしめて蹲る。わたしに、つかまるみたいに。
「──」
そのとき、はっきりとわかった。
お姉さんは、パパを殺したけれど、わたしに同じことをしようとは考えていない。とても優しく、包んでくれる。パパみたいに。ううん、違う。たぶん、パパよりもっともぉーっと、大切にしてくれる。
「ごめんね」
わたしを抱きしめたまま、お姉さんは悲しそうな声で呟いた。
わたしも、何か言わなければ。
「……ママ」
「ごめんね。ママにうまく伝えられなかった」
「……でも……」
お姉さんが急に体を放して、わたしの頭をてのひらで挟んだ。一瞬パパみたいにグシャッと潰されてしまうのかと焦ったけれど、違った。お姉さんはおでこがくっつくほど近くからわたしを見つめて、口だけ笑った。目は、たくさん涙をためていた。
「ひとりぼっちじゃないよ。ママにはなれないけど、お姉ちゃんが守ってあげる」
「……」
「人間じゃなきゃ、ダメかな。恐い?」
甘えるみたいに言って、お姉さんは涙をこぼした。
わたしはお姉さんの首にしがみついて、お姉さんを抱きしめた。
お姉さんは、ほっとしたような溜息をついて、またわたしを抱きしめた。
パパが好きになったのもわかる。
お姉さんは、いい匂いがするし、甘え方がすごくかわいい。それにママと違ってきれいだし、とても丈夫だ。
ママみたいに簡単に壊れたりしない。
だけどいくら丈夫でも、やりすぎるとパパにしたみたいに怒ってわたしをグシャッと潰すかもしれないから、気をつけよう。わたしはパパより小さいし。
まあそれでも、叩いたり噛んだり、目玉をつっつくくらいならどうってことないと思う。熱湯をかけたり、ハサミで耳を切ったり。いろいろしたい。
パパがしてたことに比べたら、ぜんぜん痛くないはずだもの。
ふたりとも涙をためたまま、照れたような顔をして見つめ合う。
パパのじゃない。わたしの、きれいなお姉さん。
「一緒にいく」
そう告げると、お姉さんは嬉しそうにふんわりと笑った。
お姉さんが立ち上がったので、きれいな長い足が目の前に来た。お姉さんの膝はもう、つるんと元通りになっていた。
手をつないで坂道を下る。
すっかり真っ暗で、お姉さんの透き通った歌声が夜の中に吸い込まれていく。わたしはうっとりと耳を澄ました。とてもいい声。
──いい、声。
パパのお姉さん 百谷シカ @shika-m
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