第四章:崩壊の序曲は前触れもなく/04

 齧り付いたスパイダーが息絶えた青年の身体を食い散らかすのには、ものの一分と掛からなかった。

 土色をした異形の足元に、ぐちゃりと生々しい嫌な音を立てて……さっきまで青年だったものが落ちる。原形を留めないほどに食い荒らされた彼の遺体は、さながら熊に食べ残された生魚のような様相を見せていた。

「フシュルルル……」

 その後も、突然現れた理不尽の塊たる異形、スパイダー・バンディットはこの商店街で暴虐の限りを尽くした。

 ある者は両腕の鉤爪で胴体を両断され、ある者は強烈な飛び蹴りを胸に食らい、複雑骨折の末に捕食されて息絶えて。ある者は先程の青年のように蜘蛛の糸で拘束され、絞め殺されたり鉤爪で引っかかれたり、或いは先の例のように喰い殺されたり。

「と、止まれ!」

 そうして……十人ばかしの犠牲者が出た頃だっただろうか。商店街で起こった、このただならぬ騒ぎを聞きつけ、商店街の中にあった交番……スパイダーが飛び降りた場所のすぐ近くに偶然あった交番だ。そこから泡を食って三名の制服警官が飛び出してきたのは。

「…………」

 警官たちに叫ばれ、それに反応するかのように振り返り。スパイダーはギロリと警官たちを睨み付ける。

「ぶ、部長……! コイツ、例の……!!」

「分かっておる! どう見たって人間ではない……!!」

「だったら!」

「と、特例が適用される相手だ! 威嚇射撃も必要無い、構わん撃て!!」

 複眼に睨まれた警官たちは恐れおののきつつも、しかし己が職務を全うすべく異形の前に立ちはだかり。すると三人がほぼ同時に、腰に帯びていたホルスターから各々のリヴォルヴァー拳銃を抜いて、撃鉄を起こしたそれを目の前のスパイダーに向けて構えた。

 一様に震える両手で保持するそれは、古い国産のニューナンブM60が一人、S&W社製のモデル360Jが二人だ。地方の交番が故に、都市部みたく強力なグロック19自動拳銃はまだ配備されていなかった…………。

 三人が構えたそれは、いずれも非力な三八口径スペシャル弾が五連発の、スナブノーズという短い銃身の得物。生身の人間相手ですら些か威力不足なそれが、果たしてこんな化け物に対して本当に効果があるのか…………。

 疑問ではあったが、しかし撃たないよりは絶対にいい。例え効果が無くても……それでも、無力な民間人を逃がすだけの時間が稼げるのなら。

「う、うわああああ!!」

 だから、迷っている暇などなかった。

 三人の中で一番若い、警官生活二年目の若い一人が叫びながらモデル360Jの引鉄ひきがねを引いたのを皮切りに、三人の警官はスパイダー目掛けて一斉に拳銃を発砲し始めた。

 タン、タンタンと銃声が続けざまにアーケード商店街に木霊する。

「う、嘘だろ……?」

「まるで効いていない……なんて、そんな」

 ――――が、やはりスパイダーに対してはまるで歯が立たなかった。

 三人が一斉に発砲した三八スペシャル弾は、その全てが土色をした硬い皮膚に吸い込まれて……ほんの僅かに皮膚を凹ませただけで、そのまま貫通することなく皮膚の弾力に弾かれてしまう。

 まるでボールがクッションの上を跳ねた時のように、潰れた三八口径の弾頭がパラパラ、とスパイダーの足元に転がり落ちる。

 そんな絶望的な光景を目の当たりにして、若い二人の警官は怯えた声を上げ。そして撃たれたスパイダーの方は……複眼を有したその異形の顔で、ニヤリと不敵に笑んでいた。

「シュゥッ――――!!」

 とすれば、スパイダーは唐突に地を蹴って距離を詰め、警官たちに飛びかかっていく。

「やめろ、来るなぁっ!!」

 既に五発を撃ち切っているから、なけなしの拳銃は弾切れ。再装填している暇なんてあるはずもなく。矢面に立っていた若い警官二人は殆ど無抵抗のまま、飛びかかってきたスパイダーの毒牙にかかってしまった。

 一番若い警官は、口から出てきた蜘蛛の糸で首を絞められ、そのまま糸で首をへし折られて死に至り。そしてもう一人の方はというと、鉤爪を有したスパイダーの右手での貫手ぬきてを喰らい……腹に大穴を開け、即死してしまう。

「三島! 工藤! くっ……なんてことだ……!!」

 ――――――恐怖。

 その光景を目の当たりにしていた、残った最後の一人……三人の中で最も歳のいった、部長と呼ばれていた中年の彼。一番階級が高いその警官がグッと歯噛みをする。

 皺の寄った顔に浮かぶのは、大事な部下を目の前で喪った悔しさと哀しさ、そして抗いようもない存在に対する強い恐怖心。

「仇は討つ……私が、必ず!」

 だが、それでも彼は絶望しない。警官として、法の番人として……無辜むこの人々を守る防人さきもりとして、やるべきことが残っているから。

「くっ……!!」

 血が滲むぐらいに唇を噛み、悔しさを堪えながら彼は踵を返し、すぐ傍にあった交番の中へと駆け込んでいく。

 部下二人の遺体にスパイダーが気をとられている内に……状況を打開する為の切り札を用意する。その為に彼は悔しさを堪え、辱められている部下の遺体に敢えて背を向け、一度交番に戻っていくのだ。

「確か、この中に……!!」

 交番の中に飛び込むと、すぐさま常備されていたガンロッカー――――ここ数年の怪物騒動を受け、全国の交番に配備された物だ。それに飛びつくと、彼はガンロッカーの扉を叩き破った。

「あった!」

 そうして、ガンロッカーの中に収められていた物々しい殺人兵器を手に取る。

 ――――H&K・MP5‐Fサブ・マシーンガン。

 本来ならSATが使うような強力な銃だが、最近は対・敵性不明生物――――日本警察ではそう呼ばれている怪物、即ちバンディットに対抗する為にと、数年前からガンロッカーと共に全国配備が開始された代物だ。

 中年の警官はそれを取り出すと、一緒にロッカーの中にあった弾倉も引ったくる。

「確か、確か訓練ではこうして……!!」

 そうして彼は、訓練で習ったことを必死に思い出しながら……震える手でMP5の装填作業を始めた。

 伸縮式の銃床をガシャンと延ばした後、まずは前方にあるコッキング・ハンドルを手前までいっぱいに引き、上にある切り欠きにハンドルを引っ掛けて薬室を解放。それから弾倉を装填し、最後に切り欠きへ引っ掛けておいたコッキング・ハンドルを上から殴り付けるようにして前進させ、そのままボルトキャリアを前進させて薬室を閉鎖…………。

 割と簡単な手順だ。これで彼の持つMP5には九ミリパラベラムの対バンディット戦用・特殊徹甲弾が装填されたことになる。

「よ、よし! これで……!!」

 だが、普段から銃をあまり扱い慣れていない彼には大仕事だった。よく手順通りに出来たな、と自分を褒めたくなるぐらいには、彼にとっては大仕事だったのだ。

「待ってろ、私が必ず仇を討つ……!!」

 そうして装填を終えたMP5の銃把を右手に握り締め、彼はまた交番から飛び出してスパイダーに相対した。

「くっ……!!」

 しかしその時にはもう、部下二人の死体はスパイダーの手を離れていて。少し離れたところへと雑に、まるで物を扱うように……二人分の無残な惨殺死体が投げ捨てられたシーンを、丁度彼は目の当たりにしてしまった。

 ヒトだったものが軽々と、それこそゴミのように投げ捨てられていく。

 優しかった彼が、新人故のやる気と希望に満ち溢れていた彼が。そんな新人を先輩としてキッチリ教え導いていた、しっかり者の彼も……まるで等しく価値がないと言わんばかりに、雑に投げ捨てられる。

「貴様……貴様、よくも私の部下をぉぉぉっ!!」

 そんな光景を目の当たりにしてしまえば、彼が激昂しないはずがなかった。

 雄叫びを上げた彼は、バッとMP5を両手で持ち、銃床に肩付けした教科書通りの立射姿勢で構える。

 そのまま親指でセレクターを弾き、安全位置からセミオート(単射)を通り越して一気にフルオート(連射)へと合わせた。

 ――――この三十連発の弾倉、緩く湾曲したバナナ型の弾倉には、対バンディット戦用に特別に調整された特殊徹甲弾が装填されている。

 火薬量を限界まで増し、弾頭も普通の九ミリパラベラム弾とは比較にならないレベルの貫通力を有した特殊な徹甲弾だ。

 そんな超強力な弾が、三十発も装填されている。それだけ撃ち込んでやれば、幾らあの化け物とてひとたまりもないはずだ…………!!

「うぉぉぉぉ――――っ!!」

 だから部長の彼は、確信とともに雄叫びを上げて引鉄を引いた。

 タタタタタ、とMP5が続けざまに銃口から火花を散らす。

 蹴り出された金色の空薬莢が宙を舞い、商店街の地面に次々と落下してはカランコロン、と小気味のいい音を立てる。

 そうして撃ちまくる中、続けざまに肩を襲う鋭い反動を……慣れない身体で必死に押さえ付けながら。彼は目の前の異形に向かって、大切な部下二人の生命いのちを奪った仇敵に対してMP5を撃ちまくった。

「グ…………!?」

 流石に対バンディット戦に特化した特殊な弾だけあって、続けざまに喰らったスパイダーは苦悶の声を上げて怯んだ。

 着弾の度にスパイダーの身体、土色の肌に次々と火花が散り、小さな煙が上がる。

 間違いない、効いている――――!!

 部長の彼は確信しつつ、尚も撃つことをやめないまま。弾倉に装填されていた三十発の特殊徹甲弾を全弾、スパイダーに対して叩き込んだ。

 だが――――。

「き、効いていないのか……!?」

 ――――――三十発を喰らったスパイダーは、まだ元気な様子でそこに立っていた。

 確かに怯みはした。特殊徹甲弾は一定の効果があったのだ。

 だが……単に怯ませただけで、虎の子の特殊徹甲弾ですらも決定打にはならなかった。今目の前で仁王立ちするスパイダーの姿こそ、その何よりもの証だった。

「っ、弾が!?」

 それでも、撃ちまくればいつかは倒せるはず。

 そう思った彼は更に撃とうと引鉄を引いたが、しかし内蔵の撃鉄は空を切るだけで、九ミリ弾は撃ち出されない。

 最初は装填不良かと思った。何度もコッキング・ハンドルを引き、そして何度も何度も引鉄を引いたが……しかし何度やっても撃鉄は空を切り、弾が撃ち出されることはなかった。

 ――――弾切れ。

 弾の数は有限だ。それは至極当たり前のこと。レーザーライフルでもあるまいし、物理的なカートリッジを使う銃火器な以上……これは古今東西、世界の何処へ行ったとしても不変の法則だ。

 だが、彼はそれを失念していた。激昂故に、異形に対して無意識に抱く恐怖心が故に、その絶対不変の法則が頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。

「シュルルル……!!」

「し、しまっ――――!?」

 彼は己の迂闊さを呪ったが、しかし後悔先に立たず。

 部長の彼が弾切れを起こしたと悟ったのか、スパイダーは慌てる彼に飛びかかり、そのまま巨大な顎で皺の寄った首元に噛み付いた。

「や、やめ――――!!」

 断末魔の叫びも上げられぬまま、彼は喉笛の何もかもを……首の前半分をガッポリと噛み千切られ、即死する。

 スパイダーのくちゃくちゃとした咀嚼音が響く中、バタリと三人目の警官の遺体が地面に倒れる。それと同時に、弾切れのMP5もガシャンと音を立てて地面に転がった。

「フシュルルルル…………」

 落ちたそのMP5を強く踏みつけ、バキンと踏み壊しながら、スパイダー・バンディットは異形の顔でニヤリと笑んで。そうすれば次なる獲物にありつかんと、また商店街の中を駆け出していく――――――。





(第四章『崩壊の序曲は前触れもなく』了)

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