ブプレウルムのせい

 ~ 十二月三十日(月) ~

 ブプレウルムの花言葉

       初めてのキス



 ………………あのね?


 俺は高校生男子なのです。


 例えば恋人と一緒に過ごす年末とか。

 例えば新婚夫婦で初めて過ごす年末とか。


 そういったものに。

 女子からバカにされるほどの甘い妄想を抱く生き物なのです。


 でも、君といると。

 すべてを悟ることが出来ますね。


 年末なんていずこも同じ。


 お相手は、君では無いでしょうけど。

 きっと未来の俺も。


 誰かと一緒に。

 こうして埃と汚れと戦って。


 家を綺麗にした分。

 爪の間を真っ黒にするのです。



 繰り返しになりますが。

 お相手は、君では無いはずです。



 いえ。

 もうほんとに。



 君だけは勘弁してください。



「……あのですね。脚立を揺すらないで欲しいのです」

「ぐずぐずしないの。緊急事態なの」

「ご覧の通り、俺は換気扇の掃除で手が空かないのですが」

「早く助けてくれないとママから大目玉なの」


 多分、一日頑張れば終わるような作業が。

 もう三日目。


「仕事を増やしなさんな。自分のやらかした事は自分で収拾つけてください」


 この、二日半分の仕事を作って俺に押し付けるお邪魔虫は藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪は。

 さすがに俺もおばさんもこの二日でへとへとになったのでほったらかし。


 そんな頭の横に。

 ブプレウルムが挿してあるのですが。

 自分でやったのでしょうね。


 君も、花屋の娘なんだから覚えなさいな。


 それ、葉ものです。


「お願いなの、後生なの。今日はお昼ごはんを準備した上にお洗濯までした一生懸命なあたしを助けて欲しいの」

「それで台所がしっちゃかめっちゃかだったのですね。換気扇と戦う前に洗い物をしなくちゃいけない気持ち、わかります?」


 さすがに相手をしていられない。

 大晦日ぐらいゆっくりさせて欲しいので。

 今日中に終わらせないと。


 そんな気持ちで無視していたのですけれど。

 ああもう。

 しょうがないですね。


「泣き出すこと無いでしょうに」

「だって……、もう、あたしの手には負えないの……」


 鼻を垂らして泣きながら見上げられては負け。


 俺は仕方なく穂咲の手を引いて。

 その、緊急事態とやらの現場へ向かおうと廊下へ出た途端。


「…………大惨事」

「早くなんとかするの」

「なにこれ!? 廊下をデッキブラシで磨こうとでもしたのですか?」 


 一面が水浸しなのですけど。

 これ、ほんとにどうしたの?


「水源は、洗濯機なの」

「……まさか」

「ほんとなの。洗濯機の下から、水がどばーって」

「いえ、そっちの意味でまさかと言ったわけではなく。如……、いえ、知人の家で最近同じことになったらしく」

「よくあることなの?」

「よくあるわけは無いのです。そうか。排水溝の掃除なんかしないですもんね、君もおばさんも、あのおじさんも」

「詰まっちったの?」


 いえ。

 多分途中のパーツが詰まっているだけなので。

 外して洗うだけでなんとかなるとは思うのですが。


 幸い、狭い脱衣所なので。

 洗濯機を持ち上げてどかすまでもなく。


 傾けて壁に寄り掛からせて。

 洗濯パンを覗き込んでみると。


 ……うええ。

 これは。

 ちょっと。


「手伝うの。そこが詰まってるの?」

「……狭いので、ここは俺だけでいいです。君は廊下の水をぞうきんで拭いておきなさい」

「了解なの」


 俺の指示に。

 てきぱきと従う穂咲さん。


 その後姿を見送ってから。

 俺は再び、難敵を見つめ直します。


 本当は。

 俺だってこんな汚いものと戦うのは嫌ですけれど。


 君の手は。

 お料理をする手ですもんね。


 仕方ありません。


「……幸い。もう、爪の中まで真っ黒ですし」


 俺は自分に言い訳をしながら。

 冷たい水が未だに貯まったままのパンの中へ手を突っ込んだのでした。


「…………うええええ」


 ぬるっとします。

 でもこれは。

 男子の仕事。


 頑張りましょう。


 ……そう言えば。

 お昼ご飯を準備してあると言っていましたっけ。


 残念ですけど、しばらくの間。

 食欲はわかないと思われるのです。



 ~🌹~🌹~🌹~



「年内の配達はこれで終わり! 道久君、午後は手伝えるからね!」

「お帰りなさい。是非ともお願いします」

「……どうしたの? なんか、ぐったりしてない?」


 幸い、排水溝はすぐに復活したので。

 今後は定期的にメンテすれば大丈夫そうなのですが。


 たまりにたまった汚れをさらう作業のせいで。

 心が折れてしまいました。


 でも。


「お腹空いてるから元気ないのよ。穂咲が朝のうちにパイ焼いてくれてたから、温め直して食べましょ?」

「……パイ?」


 我が家では、絶対に食卓へ上がらないようなお料理の名を聞いて。

 現金なことに。

 お腹がぐうと返事をしました。


「あはは! 正直なお腹ね! じゃあ、手を洗ってらっしゃい。……ほっちゃん! お昼準備して!」

「はいなの~」


 ……汚れをさらって。

 ぐったりしてまで。


 守ってあげた君の手。


 その手でこさえたお料理をいただくことができるなんて。

 なんだか、嬉しくて。

 誇らしくて。


 冷たい水に頭まで痺れるような思いをしながら手を良く洗って。

 居間へ入ると。


「おまたせなの」

「……おお! これは、映画で見た、あれなのです!」

「子供の舌にはちっと微妙な、大人の味なの」


 パイ生地に、お魚のシルエット。

 確かに子供にはアップルパイかミートパイが喜ばれることでしょうけれど。


「お魚のパイなんて、初めて食べるのです! しかもこれ、すべての日本国民が一度は口にしてみたいと願う奴!」

「そうなの? よく知らないの」


 ああ、ほんとに良かった。

 俺は君の手を。

 守ることが出来て。


 朝は、嫌いの側に倒れていた心の天秤。

 でも君が、包丁でパイを切り分ける姿を見ていると。


 逆の側へ倒れていく。



 ……ご飯は。


 美味しいばかりでなく。

 こういった楽しいも運んでくれる。


 君はそんな幸せを運ぶ仕事につきたくて。

 俺はそんな君を……。


「ああ、そう言えばね?」

「はい」

「あたし、初めてキスってやつにトライしてみたの」

「………………え?」


 手にしたフォークが。

 テーブルにかたんと落ちて。


 しばらく、呆然自失に陥ってしまったのですが。


 おばさんの笑い声を聞いて。

 ようやく我に返ります。


「ほっちゃん! そんな言い方したら勘違いしちゃうって!」

「え? 何を勘違うの?」

「いつものお魚じゃなくて、キスでパイを作ったんでしょ?」

「厳密に言えば、キスも混ぜてみたの」

「……ああそうか! そうなのですね?」

「なにがなの? 道久君、なんか驚いてた?」

「いや、別に驚いてないですよ?」

「いいわよ誤魔化さなくて! じゃあ、ほっちゃんのキスの味、道久君からお先にどうぞ!」


 そんなからかい文句と共に手渡されたお皿。

 お魚の香りに混ざって。

 ほのかに甘い香りが漂ってくる気がするのですが。


 俺は耳まで熱くなっているのを誤魔化しながら。

 パイにかぶりついて。


 そして、心からの感想を口にしたのでした。




「ししゃも!」




「もともとししゃものパイなの。キスも混ざってっけど」

「ししゃも!」

「……なんだか、道久君はしょっちゅうししゃもって叫ぶの」



 そう。


 だから俺の天秤は。

 振り子のように。

 メトロノームのように。


 ぎったんばっこん。

 あっちこっちへ倒れるのです。



 ………………

 …………

 ……



 今日の所は。

 プラマイゼロ。


 そうしておきましょう。



 そう思いながら布団へ入ると。

 お隣りから、叫び声が響いたのでした。




「にゃあああ! お風呂場の水が流れなくて大洪水なの!!!」




 俺は、もちろん。


 掛け布団を抱えて。

 押し入れに隠れたのでした。

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