恋の味
少しだけ大人向け(?)です。
********
「―――すみませんでした!!」
後方の事務所内で、私は深々と頭を下げた。
頭を下げている相手は、マネージャーの小早川さんだ。
デパートに入社して五年目の私は、とんでもない事をやらかしてしまった―――。
『誤発注』
衣料品インナーウエア担当の私は、ストッキングの発注指数を大きく間違えていた。
三十足発注したつもりが……三百足の発注がされていたのだ。
ストッキングは
ましてや、パッケージの変更時期にぶつかった日には―――値下げ指示が飛んできて、差益は減少……会社に大きな損失を与えることになる。
今回は、異常発注に気付いた卸しメーカー側が発注の停止をしてくれ、連絡をくれたから良かったものの……。
……やらかした。
もう新人と呼べる勤続年数ではないというのに……。
「今回はメーカー側のご厚意でどうにかなったから構わない。今後は気を付ける様に」
「……はい。申し訳ありませんでした」
私は唇を噛み締めた。
こうしないと自分が情けなさすぎて、泣いてしまいそうだったのだ。
社会人として仕事中に泣くなんて真似はしたくない……。
「充分に反省したなら――もう気にするな。お前達の失敗ぐらいは上司の俺がカバーする。だから笑え。それがお前達、
小早川さんはそう言って笑いながら、私の肩をポンポンと叩いた時、その左手の薬指にしっかりとはまった指輪が目に入った。
「あー!小早川さんがセクハラしてるー!」
私達のやり取りを見ていた事務員さんが、笑いながら声を上げた。
「うおっ?!マジか!これって今はセクハラになんのか!」
小早川さんはそれにおちゃらけながら乗っかる。
「コンプライアンス違反増えてますからね?注意して下さいよー?」
「うへぇ……クビになったら困るって。相談室に電話するのは勘弁してくれよ?」
事務員さんから私に視線を戻した小早川さんは、いつも通りの優しい笑みを浮かべていた。
「久し振りに飲みに行くか?―――って、これもアルハラになるか?」
「……それは、その人の受け取り次第かと」
「そうか。生き辛い世の中になったよなー」
小早川さんは苦笑いを浮かべる。
「小早川さん、まだ若いのにおじさんみたいですね」
「いやー……俺ももう三十代後半だからな」
「まだまだ若いですよ」
「そんな嬉しいことを言ってくれるは、林だけだって」
「ふふっ」
「……笑ったな? じゃあ、そろそろ仕事に戻れるな?」
「はい。大変申し訳ありませんでした」
私は最後にもう一度だけ深く頭を下げてから、事務所を後にした。
……しっかりしろ。私。
もうあの人に私の失敗なんて見せたくない。
私は気合いを入れる為に両手で頬をパチンと叩いた。
****
「大ちゃーん!お酒もっとー!」
「春花さん……そろそろ止めた方が」
バーのカウターのテーブルに頬を押し付けながら、私はバーテンダーの大ちゃんこと……大地に向かって、グラスを掲げていた。
「……いーいの。こんな時ぐらい飲ませてよー。ほら、はーやーくー!」
店内には私と大地だけだからこそ、こんな醜態を晒せる。
バーテンダーの大地は私の年下の幼馴染みだ。小さな頃から仲が良いのをいいことに……こうしていられるのだ。
「はい。はい。じゃあ、次はこれ?」
大地は、大きな氷の入ったグラスを私に差し出してきた。
このリキュールの香りは……。
「大ちゃんのいじわる……」
私は思い切り唇を尖らせた。
「ふふっ。だって好きでしょう?」
そう言いながら瞳を細める大地にドキッとした。
……私がドキッとしたのは大地にではない。
大地が出してくれたこのお酒にドキッとしたのだ。
ムクリとカウンターから上半身を起こした私は、姿勢を正して座り直した。
グラスをゆっくり回すと、カランという心地良い音が響き、スモークの香りがふわりと鼻腔を擽る。
「……ふっ」
涙が一筋溢れた。
入社してからずっと憧れていた。
―――大好きだった。
笑うと八重歯が見える子供の様な笑顔が好きで、聞いていると落ち着く声が好き。
優しくて、頼りになって……でも少しだけ抜けているところも可愛くて好きだった。
「結婚することになったから」
あの日。朝礼の最中に小早川さんがそう言った。
付き合っている恋人がいるという噂も聞いた。
だから、私は誤発注をしてしまった。
こんなの言い訳に過ぎないが……動揺したのだ。
心臓がバクバクと嫌な音を立てながら、私の胸を締め付けた。
―――――「
恋人と間違えてキスしたこと……覚えていますか?
酔って押し付けられた唇の温もりがまだ残っている。熱く……そして蕩けるように柔らかかった。
あの熱が他人のモノだなんて……。
私はあのまま自分の心臓が止まれば良いと思った。
「ささやかだが貸し切りのパーティーをするから、みんなにも参加して欲しい」
小早川さんは知らない。
私があなたに恋をしていたことを……。
私の中ではまだ全然心の整理が出来ていないことを……。
「―――っ!!」
私はグラスの中のウイスキーを一気に煽った。
あの日からこのお酒は、あの人とのキスの味に変わった――――。
どのみち……少しほろ苦くて濃いウイスキーは私には合わなかった。
初めから相性が悪かったのだ……。
だから、私ではダメだった。
「あー!一気に飲んだらダメでしよう?」
「放っておいて……」
驚いた顔をする大地を睨み付けた。
こんなの一気に飲み干さなくて……どうする。
―――終わった恋の忘れ方を教えて欲しい。
私は溢れる涙をごしごしと拭った。
もう……アイラインもマスカラも落ちて酷いことになっているかもしれないが……ここには大地しかいない。
「全く……もう。人の気もしらないで」
大地が呆れた様な声で溜め息を吐いた。
……え?
ぼんやりと大地を見上げると、カウンター越しにいたはずの大地がすぐ隣にいた。
「本日の営業は終了です」
「ええと……じゃあ、帰らないと……?」
「いえ、帰しません」
「え……?」
カウンターの椅子に座った状態のままテーブルに背中を押し付けられ、大地の腕の中の閉じ込められた。
大地は手に持っていたグラスを一気に煽ると……。
「……っ?!」
柔らかく熱が唇に伝わる。
押し退けようと伸ばした手はそのまま握られ、動きを封じ込められてしまった。
「今日からはこれがあなたのキスの味です」
そう言って微笑んだ大地は今まで見たことがない、男性の顔をしていた――――。
「……大ちゃん!?」
「あはは。謝りませんよ?……ずっとこうしたかったんだから」
再度、近付いてくる大地の顔……。
大地はズルい。
こんな弱っている時に優しくされたら、流されてしまうじゃないか……。
新しいキスは―――大人な蜂蜜の味がした。
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