初恋の人に拾われました

人の気も知らないで……。


仮にも異性がいるという部屋で、無防備にもグッスリと眠るその人の頬に僕はそっと触れた。


「んっ……」

そのまま軽く撫でると、小さく身動いだその人は、微笑みながら僕の手に頬ずりしてきた。


……っ!

寝ている先輩に悪戯を仕掛けたのは僕の方なのに……負けた気分になる。

まあ、『負け』というのならば、僕は昔から先輩には負けていることになるが……。


寝ている先輩に翻弄されたのがちょっとだけ悔しかったので、僕は先輩が寝ているベットの中に潜り込んだ。


ふふっ。

明日の朝起きた時に、慌てる先輩の顔を見たくなったのだ。


僕がベットに一緒に寝ていた理由は……先輩が寝ぼけて抱き付いてきたという事にしよう。そしたら先輩は僕を強く怒る事は出来ないし……怖がられたりもしないかな?


……かすみ先輩。

僕は先輩の柔らかい身体をぎゅっと抱き締めた。

昔は僕の方が小さかったのに、今では僕が抱き締めるとスッポリと収まってしまえる体格差が何よりも嬉しい。

やっと……ここまで近付けた。


僕は先輩の温もりを感じながら瞳を閉じた。



****

先輩に拾われたのは、半月程前のこと。

雨の降る夜だった。


その時の僕は……どん底まで落ちていた。


『新進気鋭の若手作家』

世間が僕に付けた肩書き。


ペンネームは本名の『桜井 湊斗』からとって、『minato』として活動をしている。


何気なく書いた処女作が賞を取り、書籍化された。その後、順調に続刊を発売し……あれよあれよという間に有名になった僕だが……。


ある日突然、パッタリと何も書けなくなった。


正直、書きたい事はたくさんある。

だが……文章としてまとめようとすると思考が停止してしまうのだ。


書かなければならないのに……書けない。

締め切りは刻々と近付いてくるのに……書けない。


自分の作品の何が面白かったのか……何をしたら喜んでもらえるのか……。

期待に応えたい。

僕の作品を待っている人達の為に……。


そう考えれば考えるほどに……書けなくなった。


……だが、それもそのはずだ。

僕はプロットを綿密に練るタイプの人間ではなく、自分の書きたい事を自由に好きな様に書いてきたのだ。

そんな僕が『考え』たらダメなのだ。


しかし、一度考え始めてしまった事は止まらない。心も頭も一気に余裕がなくなってしまったのだ。


『進捗はいかがですか?』

担当さんからのメール。


気付けば僕は部屋を飛び出していた。


……情けない。情けない。

今、自分は逃げたのだ。

負わなければならない責任から逃げ出した。


……今まで何の為に書いてきたのか……。

ははっ。

所詮……僕はこれだけの人間だった。


シャワーの様に降る大雨を全身に浴びながらぼんやりと天を仰いでいた。


もう……どうにでもなればいい。


そんな時、僕に話し掛けて来た人がいた。


「あ、あの……」

「……何? ナンパ?」

 心に余裕が無い僕は、『鬱陶しい』『早くどこかに行け』そう思いながら、その相手をジロリと睨み付けた。


ウザイ。空気読め。話し掛けんな……。

冷たいとは自分でも感じていた。


だが、自分に余裕が無いのに、見ず知らずの相手を気遣うことなんて出来るだろうか。

 

「雨の中で傘も差さずに……どうしたのかな……って、気になったの」


だから、空気読めよ。

僕は更に瞳を細め不機嫌さを全面に出した。


その人の傘の柄を持つ手が小刻みに震えているのが分かった。


可哀想に。怖いなら逃げろよ。

……僕が逃げ出したのと同じ様に……。


しかし……その人が逃げる事はなかった。


「ええと……私の記憶が間違っていなかったら……桜井君だよね?」

 今まで傘でよく見えなかったその人が、ここでハッキリと見えた。


え……まさか。

僕は自分の目を疑った。


まさかこんな所で……出会うなんて……。


「あなたは……花枝はなえ先輩ですか……!」

「うん。久し振りだね」

呆然としながら言えば、花枝先輩は昔から変わらない優しい笑顔で笑ってくれた。


……花枝先輩は僕の初恋の人だ。

あの時に感じた四歳という年齢差は、このまま越える事が出来ないんじゃないかと思えるほどに……高かった。

それでなくとも僕は、花枝先輩よりも細く小さな子供でしかなかったから。


あの時の未消化の想いは今までずっと心の底で燻り続け……消えてくれることなんかなかった……。

それなのに……。

花枝先輩は僕に気付いてくれたというのに……僕は……。

 

「風邪……引くよ?」

 花枝先輩は背伸びをしながら僕に傘を傾けてくれた。

そんな事をしたら先輩の方も濡れてしまう。


僕は先輩の傘を取って、きちんと先輩の身体を雨から隠した。

ずぶ濡れの僕の事なんて放っておけばよ良かったのに……。


僕はこんなにも変わってしまったのに…。花枝先輩は変わらない。

陽だまりの様な優しさと暖かさを兼ね備えた初恋の人……。


「このままだと風邪を引くし……取り敢えず……私の部屋に来る?」

花枝先輩がそう言い出した時は耳を疑った。


……は? 今、何て?

思わずポカンとしてしまった。


「あ、えーと違うの!桜井君ずぶ濡れだから……あの!」

「……行きます」

僕は即答した。


彼氏がいて誘う様な人じゃないし、花枝先輩の発言は善意でしかない。

もしかしたら僕を弟扱いしているのかもしれないが…………。


いや、これはチャンスだ。

花枝先輩を手に入れる為の最初で最後のチャンス。


こんな無防備な人を一人にしたら、あっという間に掻っさらわれる。

そんなのはもう嫌だ。



そうして花枝先輩の部屋に上がり込んだ僕は、そのまま先輩の部屋に居着いた。


花枝先輩と過ごす日々はとても新鮮で、優しくて、楽しくて……。


あんなに書けなかったというのに、次から次へと話が沸いてくる。


主に花枝先輩の様な可愛いヒロインが出てくる話だが。


花枝先輩は僕を拾った犬だとでも

思っているのかもしれない。

だって、僕は犬の様に従順なをしてその機会を伺っているから……。


そうして僕なしじゃいられない身体になったら……。


覚悟しておいてね?花枝先輩。


僕はあなたを食べる狼になるから。

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