ベビーシッター
高校時に理系科目を選択した人達は物理式を覚えているだろうか。物体が移動した時、そのエネルギーは質量×速度の二乗×二分の一だ。軽乗用車の重さは大体六百〜七百㎏。速度は後の警察曰く時速七〇㎞程だったとのこと。秒速に換算して十九・四四四……m。ザッと計算すると! まあ、つまり、私はとんでもない一撃を貰ったわけである。
あの交番に突っ込んできた軽自動車はブレーキをかけず、むしろアクセルを踏み込んでいたらしい。私は背中から衝突したわけだが不幸中の幸いだったのは交番の玄関とその他障害物のおかげで速度が多少なりとも減速されていたことだ。そのままであれば、私は間違いなく死んでいただろう。と、言われた。実際、私は背中を強く殴られたような衝撃でそのまま意識を失ってしまったが何とか生きている。それも背中の打撲のみという比較的軽傷で済んだ。
次に目が覚めたのは大学に併設されていた病院で、私は背中の酷い痛みと目眩と、猛烈な吐き気(二回程やった)で起きたが、この後、知り合いの警察から聞かされた話の方が私が交番で車に追突されたことよりもショッキングに聞こえた。
「よう。大事無いか?」
片手で背中を抑えて、片手で口を抑えているところに長谷部刑事がニヤニヤ笑いながら来た。屈託無く笑顔を晒している。オールバックの髪型に一本の纏まった髪が前に垂れ、広めのオデコ、警察官らしからぬ目は邪気の無い子供みたいで口元も同様に。端が上がっているから余計にそう見える。一八〇程の高い身長と背広の上に茶色く真新しいトレンチコートを羽織っている。事故の被害者を嗤う警察官。とても失礼だ。私はちょっとした苛立ちが上ってきて、それを急いで手近な桶に吐いた。長谷部刑事の笑顔も歪む。
「うわお。酷いな」
「(水で口を濯ぎ、ナースコールを押しつつ)……外傷自体は背中だけなんですけどね……失礼さん」
それは悪かったな。と長谷部さんは言う。笑いながら。一つ言っておくと彼は交通課ではない。殺人担当、つまり所轄の一課だ。つまり、本来の仕事はサボってきた。
「オサボリさんですか? 交通事故はあなたの担当じゃないでしょう」
「あんたを見舞いに来たんだよ」
ほお。それはありがたい。
「なら林檎とか梨とかバナナとかそういう物を持ってきてくださいな」
「良く言うぜ。長期入院でもねえくせに」
え? そうなんですか?
「え? そうなんですか?」
長谷部さんは頷いて、片手に持った紙を一枚掲げる。
「医者の診断によると和光(わこう) 令美(れみ)は背中を強く打ち付ける。軽度の打撲が確認。内臓へのダメージはほとんどなし。一日安静の必要はあるが経過観察は不必要と考えられる。だそうだ」
おう。まいかるて。
「病院のカルテ勝手に持ち出したら駄目じゃないですか」
「いや。実は勝手じゃない」
私は小首を傾げた。長谷部(はせべ) 晃一(こういち)は県警第一課の刑事。彼は主に私と組むことになっている。妙な縁で最初の事件と次の事件で組むことになり、それからと言うもの私が首を突っ込んだ事件には彼が飛んでくる。
「あの軽自動車には二名程乗っていて、さっきどっちも死んだ。というより、一人は最初から死んでいたみたいでな。で、たった今事故を起こした方、あんたを引いた方が今死んだ」
「それが?」
一度県警にお邪魔したことがある。まるで学校の職員室みたくデスクが並んでいて、そこは個人の領域とばかりに散らかっていたり整っていていたり。その正面には一課の掲示板がデカデカとあってそこの右上には私の名前が書いてある。
「うん。別件であった強姦未遂事件な。あれの犯人だったんだ。乗ってたの」
それはまだいい。問題は私の名前の下にある。
「六徳 五木と一条 宗治。東堂 みゆき強姦未遂事件の容疑者だ」
そこにはこう書かれてる。
『ベビーシッター、長谷部 晃一 御用命の時は呼ぶこと』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます