朝には紅顔、夕べは白骨、死出の旅

浅葱いろ

刀鋩

 それは、触れるもの全てを切り裂いてしまいそうな、鋭利な三日月が浮かぶ暗夜の事だった。


 暦が四月の半ばを向かえ、日本最北に位置する蝦夷の大地にも、漸く春の気配が到来してきた頃の事。

 肌寒さは未だ存分に残るものの、色付き芽吹く草木の吐息が、この地に散った生命に優しく鎮魂を唱えているかのような——そんな白昼の春陽と喧騒が嘘だったように、深閑へと還される夜の事だった。


 春の夜は霞が掛かり暗い。歩む道を違えてしまいそうな程だ。——そう話してくれた彼の声音は、一体どんな温度を持って紡がれていたのだったか。

 過ぎ去ってしまった年月を思い返してみれば、彼と共に在った期間など数年にしか及ばず、激動に流されて過ごした歳月は、酷く、儚く、短い時間だったように思えた。

 けれど、その間に私が得たものはどんな時と比べても軒並みに多く、全うする人生の中でこんなにも色の濃い毎日を送ったのはこの期間だけだと、最期に遺したとしても間違いではないほど。そして、蘇った一時の情景を鮮明に思い出すには、あまりにも過ごした日々が濃厚で手間取ってしまうほどに。

 送った年月は記してみれば長きに渡り、大切にしまった記憶の引き出しを探り当てる事に結構な時間を要してしまう。


 ——まだ、あの時は京に居た。今となっては懐かしさが滲む浅葱色の隊服を身に纏い、春の夜空を見上げた彼の口振りには僅かな忌ま忌ましさと、思い違いかも知れないが切望も孕まれていたように感じられた。それに何故か絶え間ない焦燥も感じ得たものだったが、あの頃の私は『道を違えてしまいそうな程だ』と言う言葉を間に受けて、提灯を持って歩けばいいのに……と彼の横顔を不思議に見ていたのだった。

 今となっては漠然と、暗喩された意味合いを汲む事が出来る。


 それでも、いつも鋭い眼光が瞬く目を細めて彼は春が好きだと言った。

 普段からは考えられない優しい横顔に驚きつつも、その眼差しを受けている今のような細い三日月ではない肥えた満月に、僅かな嫉妬心を抱く。彼のそんな表情を見たのはあの時限りであったから、尚更に満月を羨ましく思ったのだ。



 何となく呼び出しがかかった時から、忍び寄る嫌な予感は胸に犇めいていた。

 数日に渡り続いた銃撃戦の末、傷付いた兵士を沢山に見ていたからなのかも知れないし、芳しくない戦況の行方にぼんやりと終幕の影が見えていたからなのかも知れないし、私自身もが大変な疲弊の最中に精神を置いていたからなのかも知れない。


 銃弾を受け発熱していた兵士を介抱していた時に、副長からの呼び出しを伝えてくれた他の兵士に頷いた後、私は宛てもなく洋式の窓から夜空を見上げた。


 足先に打つかってから気付く小石のようなものだった。胸に細かな穴を開けて壊蝕して来、我がもの顔で居着く靄のような不安は、きっとこの夜空が原因なのだと。確信を持って気付いた。

 それ程に見上げる者が唯一人としていない春宵は、光乏しい三日月と朧に漂う鈍色の雲がまるで妖気でも生まれたかのように奇しく、人を不安にさせる影響力を持っている。私は暫時、薄い硝子の先から覗き込んでくる夜空から目を反らす事が出来なかった。


 そう感じていた夜空だったが、扉を開けた先に居た副長が、窓の木枠に体重を預けて三日月を見上げている様を見て、こびり付く恐怖が落剥していく感覚に陥る。薄暗い三日月を見詰める副長の瞳には、不安も恐怖も浮かんではいなかったのだ。


 いつもの事だった。人が惑う局面に立たされても、この人の瞳は迷う事を知らない。千里眼でも持っているのではないか、まるで暗闇の先さえ見えているのではないか、そう思えてしまう程、彼の瞳はしっかりと前を見据えて不安も恐怖も微塵に感じさせないのだ。

 その先に予見するものが例え何であったとしても、だからこそ私は安心して此処までこの人に着いてきた。そして、だからこそ私は、いつも道を照らしてくれ安心を与えてくれたこの人が、告げた言葉が、差し出された文が、信じられず、信じたくなくも理解したくもなく、絶句した。


 言い付けられたのは至極簡単な事だったが、まさかこの人から不安を与えられる事は生涯ないと思っていたから、駆け抜ける焦燥と理解の先に待ち構える衝撃に、私の思考は停止していただけなのかも知れないが。


「……何と?」


 このまま、思考が止まったままで構わないのに。このまま、時が止まってしまっても全然いいのに。

 信じたくがない言葉を理解してしまう前に、このまま心の臓が止まってしまっても、寧ろその方がいいのに。

 酷く後悔する。物分かりがいい人間の脳味噌が恨ましく思えたが、私の薄く開かれた唇から零れ落ちてきた言葉は『確認』をするものだった。この人と行動を共にするに連れて、この人を理解しようと培われた回路は、無情な事に今も正常に働いている。


「同じ事を言わせんじゃねえよ……あと一回しか言わねえからな、また聞き返してきたらぶん殴るぞ?」


 色を持たないはずの溜め息が、淀む白に染められているように感じた。その色を辺りに醸しながらの副長の後ろに見える空は、暗い。星の瞬き一つを失念しているようで、目の前を照らす光が何一つとして失くなってしまうのではないか、と錯覚してしまった程だ。

 一度目を伏せた副長は、あくまでも私に命令を下す普段のように、いつもと変わらない口調で、いつもと変わらない声音で、確認した言葉を再度繰り返した。


「江戸に行け。江戸の少し西に在る日野宿って所に、俺が頼りにしてる奴が居る。そいつにこれを渡して、ここの戦況を詳しく伝えてやってくれ」


 私は身動き一つもする事が出来なかった。瞬きの一つをする事が叶わず、ただ意に反して震え始める瞳と体が、「これ」と言って相変わらずに差し出され続けている文を見つめ、頑なに抵抗するように「受け取れない」と拳を握っている。


 剥がれ落ちていったはずの不安が、予想に反して彼から突き付けられてしまい、膨張して、巡る思考が誇張して、我慢ならずにはち切れてしまいそうだった。先が危ういこの戦況よりも、京で浪士と対峙し絶体絶命の危機に立たされ死を覚悟した時よりも、遥かな恐怖をも感じられる。


『江戸に行け』


 それはこの箱館での戦いを離れ、副長との別離を宣告されているも同然の事だ。前後に様々な理由が付けられるものの、意味する真実は何をしても変えられない。

 私にとって、とてつもなく恐ろしく感じられるものだった。

 新選組隊士として過ごす濃ゆい日々の末に、私は自分一人での歩き方を忘れてしまっている。目の前には常に、浅葱色を纏う背中が在った。道標のように必死で追い掛ける背中は、一人、また一人と減ってしまったが、今も昔も変わらずに、この人の頼もしい背中は目の前に在ったのだ。それで良いと思っていた。私が自分でこの人に着いていくと決めたのであり、歩く道が途切れてしまう時は、この人と共でありたいと望んでいたのだから。


 それなのに、最北の蝦夷まで連れて来てくれたのに、今更離れろと言うのか?


 戸惑いと不服ばかりが鬩ぎ合う目を堪え、唇を真一文字に結んだまま微動だにしない私を見兼ねて、二度目の溜め息が零される。

 仕方なさそうに差し出した文を下げると、副長は一度だけ三日月を仰いでから歩み寄ってきた。そこまで開いていた訳ではない距離は、靴で踏まれることにより軋む床の音数回だけで、容易く縮まされる。


 近くなる距離にも反応を返さないでいると——油断をすれば押し留める涙が零れてしまいそうでだったからだ。副長は震える私の腕を乱暴に握ってくると、開きたくなかった拳に文を掴ませた。文を落とさないよう、振り離してしまわないように、副長の両手はしっかりと私の拳を握らせる。


「要りません、こんな物」

「何言ってやがる。頼み事をしてんじゃねえんだ、これは副長命令なんだよ」


 狡い!

 思わず上げそうになった叫びを飲み込んで、副長の顔を見ず嫌だ嫌だと子供のように首を振った。


「こんな命令は聞けません、聞きたくもないです」


 蝦夷の地に来てからは、聞いたことのなかった『副長命令』だった。

 それを口にされてしまえば、新選組の名は甲陽鎮撫隊と変わってしまったが、今だ新選組隊士としての精神が力強く根付いている私は、ずっとそうであったように命令を聞き入れる他が無い。どんなに納得が出来ず不服なものであっても。

 鉄の掟である局中法度には記載されてはいないが、隊内にあった暗黙の了解である鉄の掟。絶対的な副長命令を、私は、新選組隊士達は、どんな時も守り抜いてきた。


 男子だと偽って新選組に入隊した私が、女子だと知られた時の事を思い出した。

 齢十三に満つか満たないかの頃で、その頃は男女の差もさほど目立たず、小姓隊士として男子と疑われずに新選組に入る事が出来た。だが、入隊して二年が過ぎようとした時だったか。年頃となった体にお馬がきて、実は女子である事が露見してしまったのだ。当然、隠していた事をこっぴどく叱られ、入隊に至った理由を再三に渡って詰問される。


 女子が隊士として名を連ねている事に脱隊の話も持ち上がったのだったが、その頃には隊士に混じり稽古に励んでいたお陰で剣術の腕も映え、何より鳥羽伏見の戦いの最中で人員に欠けていた。私の存続する理由は足りていたが、女子が戦場に立つことに否定的な人は変わらずに居て、それを副長が「脱退は切腹もんだろ」と抑えたのだった。

 鉄の掟。人によっては失禁ものの恐ろしい掟だったが、私が此処に居る事が許されるのは局中法度のお陰だと言っても過言ではない。


 脱退は切腹——本来は脱走が切腹なのであって理由と場合によっては脱退を認められていたが、副長は私の腕を見込み、法度を逆手に取って留めてくれたのでは?

 局中法度と副長の命には忠実であった私は、その思いが渦巻いて今回の命令には、素直に頷く事が出来なかった。


「俺は、女だろうが隊士として身を置く以上は、今まで通り男として扱うし一切の例外は認めねえ。覚悟はあるんだろうなって、聞いたよな。それに、お前は何て答えた?」


 確かに聞かれた。それに私は、覚悟の上ですと答えた。

 歪む私の表情を見て答えを悟ったのだろう、副長は「思い出したんだったら、つべこべ言ってねえで命令に従え。日野は、お前の身もよくしてくれる。何も心配はねえよ」と続ける。私を救ってくれたはずの鉄の掟が、今は手の平を返して私を窮地に立たせていた。それが、今まで信じていたものの全てに裏切られたような気持ちにさせ、今になって突き放してくる副長が憎くも思えてくる。


『難しい顔してるね。まあ…この法度は僕もちょっと厳しいような気がするし、新選組を守る為の隊規って言うか土方さんの為の規則って感じがして気に食わないんだけど。背かなければ死ぬ事はないから、そんなに肩を張らなくてもいいと思うよ?』


 入隊が決まった時に、局中法度を読み聞かせてくれた沖田さんの言葉を思い出す。背く気は露程にもなかったけど、ある意味で私は今、身を裂かれて死んでしまいそうな気持ちをしています。沖田さんの言う通り、副長の意向で加護にも槍にもなり得る諸刃の刃に。


「……それでも嫌ですよ! 此処を離れるなら、士道不覚悟で切腹させられた方がまだ良いです。どうして……何で、私は新選組でありたいんです。新選組隊士として生きたいんです! ここで居なくなったら、それこそ士道不覚悟じゃないんですか!?」


 彼等と同じ誠の義を貫徹する為、浅葱色の背中を追い続けて此処まで来た。道半ばに散って逝ってしまった人達の分も、立派に武士として一生を閉じようと踏ん張って来た。女子の私には少々荷が重かったが、この人が居れば皆が望んだ新選組で居られると、信じて着いて来たのだ。


 憧れであった。

 羨望でもあった。

 彼はいつも私の道標であり、掲げられる誠の旗と同様に、いつまでも揺るがない『副長』であった。強い鬼の副長で在り続ける事は望んでいたが、今告げられる命令は『副長』で在ってほしくなかった。江戸に戻れだなんて、何かの間違いだ。


「新選組隊士として居たいって言うんなら、最後の副長命令くらい素直に聞きやがれ」


 ここで私は、拒絶するまま見ようとしなかった副長の顔に、弾かれたように目を向ける。

 知らぬ間にほおを通り過ぎていく風の如く、自然と流れていく声音に乗せられた『最後』の単語に、雷に打たれたように理解した。


 混迷にも恐怖にも揺らがない彼の瞳が道の先に見据えたものは、私がぼんやりと見た戦況の終幕と同じく、確かな終わりなのだ、と。彼は、この戦いに敗れると、誠の旗は折れると、そして蝦夷の地で命を落とすと、予見している、覚悟している。

 彼が思うのならば本当だ。兼ねてからの信頼が確信を生み、ならばせめて私も一緒に終わりたい。そう尚も言い慕りたかった。


 目を向けた先に在る彼が、私が在り続けてほしいと望んだ『鬼の副長』の顔をしてくれていたのならば、共に連れて行って下さいと聞き訳もなく言い縋れたのだろう。だが、そこに在ったのは、いつの日か春の満月を見上げていた時のような、優しく緩められた瞳だった。その瞳へと宿る私の身を案じてくれる気遣いを確かに感じられて、うっと声が詰まったように口許に手を当てたくなる。

 優しい顔は望んだ『鬼の副長』には似つかわしくなかったが、私が見てきた情の深い『副長』そのものだったのだ。


 やめてくれ! 悲鳴を上げたのは胸の中だけであった。満月に嫉妬さえした眼差しを前にして、場違いにも嬉しさが込み上がったが、別の不安と呵責もが際限なく産声を上げる。

 何もかも達観したかのような瞳が怖かった。己の死さえも享受する穏やかな瞳が怖かった。

 常に隣にあった既に覚悟を決めていたはずの死を、信じる人の言葉によって目の前に提示された時、この上がない程の恐怖を感じる。それでも、一緒に逝きたいと願望のように強く思い、新選組を離れたくないと思うが、私だけでも生きろと遠回しに『生』を托した副長を前にして「行きたくない」と言えなかった。私だけ戦を離れて生きるなんて出来ないと、抗えなかった。彼がくれた優しさであり気遣いであり、願いなのだ。

 でも、でも。


「ならば一緒に参りましょう!? 私は江戸の地理も、その人の顔も分かりません!」

「何馬鹿を言ってんだ。俺が此処を離れる訳にゃいかねえから、お前に命令してんだろうが」

「私一人では迷子になってしまいます、この命令を終えた後も……副長が居なければ迷ってしまいます!」

「なんだって聞き訳がねえな……仕事を終えたら、直ぐに戻ってくりゃ良い話じゃねえか」

「嫌です! そもそも何故私なんですか、こんな伝言、他の人でも事足りるでしょう!?」

「おいおい……落ち着け、俺の遠縁に当たる奴なんだ。そこらの口が堅いかも分かんねえ野郎に任せて、途中で官軍にでも捕まってみろ。ほいほい情報を吐いちまって、俺の遠縁って事で日野宿にも迷惑が掛かるかも知れねえ。信用してるお前だからこそ、頼める仕事なんだよ」


 狡い、狡い、狡い。元より意見が通るとは思っていなかったが、副長にそんな事を言われては、消化出来ずに沸き立つ思い丈を打つける事も出来なくなる。やはり、副長は狡い、酷い。


 二の句が紡げなくなった私は、込み上がる涙を雑句場乱と何度も拭い、流さないように努めた。鼻の奥がつんと痛い。染みるような痛さに呼吸が詰まり苦しくて仕方なかったが、泣くべき場所ではないと思えて血が滲む程に唇を噛み締める。

 男の子のように短く切った髪の毛が、霞む視界の端に映っていた。その先で「ぐしゃぐしゃにすんじゃねえよ」と、あくまでも普段通り、握り締めた文に眉根を顰める副長の声を聞く。だけど、いつもよりも優しく、まるで子供が泣き止むのを待っているかのように、それ以上は何も言わず見守ってくれる姿が、痛く、痛く、混乱する心中に介入してきた。それが口惜しいのか、まだ覆す事が出来ない現実に藻掻きたいのか、彼が死に向かう事を信じたくないのか——その何れかして、聞き入れて貰えないと分かりきっている言葉を張り上げた。


「貴方はこんな所で死んでもいい人間じゃない! 副長が居なくなったら武士も居なくなってしまいます、誠が消えてしまいます、忘れられてしまいます! だから、だからっ、生きて下さい!」


 誰も言葉にして「死ぬ」とは口にしていないのに、死んでしまう事を前提として言った私に、副長は驚いて一瞬だけ目を見開いた。一拍も置かずに開かれた瞳は緩められ、困ったように口角も上げて笑まれてしまう。


「ああ、だから、お前が未来に誠を語り次いでくれ」


 残酷だと思った。死に向かう事実に否定も肯定もせず、今まで副長命令だと言い続けていたのに、その口振りは「命令ではなく頼み事だ」と「自分が出来ない事を托しているのだ」と克明に表している。

 如何なる時も鬼の副長として居た彼は、私の望みを裏切り、最後の最後の時に副長で居てくれなかった。だけど、私が貫徹したかった新選組隊士として在りたいと言う願いは、彼と一緒に死に花を咲かす形とは違えど、後世に語り次ぐと言う形で叶えてくれている。


 残酷な優しさだ。私一人では重すぎる任務を命令として告げ、迷ってしまうかも知れない道を、これからは一人で歩いて行けと言う。生きてくれ、と言う。

 狡く酷い人。だけど、確かに私が慕った土方歳三だった。立派な人だった。


 托された任務を投げ出せるはずがない。そう新選組隊士として生きてきた私が、新選組隊士として在り続ける為には江戸に行くしかなくなっていた。口調と瞳は命令ではないと告げていても、副長が口にした言葉は命令そのものなのだから。

 文を握り締める手が震え、とうとう本格的に泣き出してしまいそうな私の頭に手を乗せて、副長は強い口調で言った。


「お前は、俺を追って来い」


 一緒には来るな。先にも行くな。存分に生きてから、地獄か天国か分からない其処へ来い。其処で、待ってる。


「……承知しました」


 言葉に秘められた意味を掬い取り、私は断腸の思いで泣く泣く承服した。




 春の夜は霞みが掛かり暗い。道を違えてしまいそうな程だ。——托された願いと文を消失しないよう大切に懐へと抱え、私は江戸に続く迷ってしまいそうな道を必死に走る。後ろ髪を引かれる思いで、何度も、何度も、数え切れない程に振り返った。

 涙が涸れるなんて嘘だと理解った。何故なら江戸に辿り着くまでの道中、一度も涙が止まる事など無かったからだ。




 貴方は「新選組隊士なら潔く死ぬ覚悟を決めろ」と言った。

 貴方は「武士で在りたいならめそめそと泣くんじゃねえ」と言った。

 だけど最後に貴方は、泣き出しそうな私を咎める事はせず「意志を次いで生きろ」と言った。

 それは、触れるもの全てを切り裂いてしまいそうな、鋭利な三日月が浮かぶ暗夜の事。

 暦が四月の半ばを向かえ、日本最北に位置する蝦夷の大地にも、漸く春の気配が到来してきた頃の事。肌寒さは未だ存分に残るものの、色付き芽吹く草木の吐息が、この地に散った生命に優しく鎮魂を唱えているかのような——白昼の春陽と喧騒が嘘だったように深閑へと還される夜の事で、春は未だ浅いと空を見上げて嗚咽を上げた四月十五日の、今から五十年も昔、春宵の事でした。





もう存分に生きました。直、私は貴方を追って逝きます。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝には紅顔、夕べは白骨、死出の旅 浅葱いろ @_tsviet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ