七.

 長く、ゆるい下り坂の果てに、私たちは洞窟の底にたどりついた。

 そこは、それまで通ってきた通路よりも数倍広くなっており、足もとは平らで天井も高かった。

 数本の石筍のようなものの上で青白いような緑色のような炎が燃えさかっていたが、その炎は熱を発してはいなかった。

 そして、どこからか、かすかに水が岸辺を打つ音が聞こえてくるような気がした。

 地上の参道でも洞窟の中の通路でも、ひとりの人にも会わなかったのに、つめたく音のない光に照らされた石の広間のさらに奥のほうには、人だかりができているのが見えた。

 うす暗くぼんやりとした影になった人々は、皆、私たちに背中をむけて、静かに、ゆっくりと歩みを進めている。

 那智谷さんは、ためらうことなく広間を横切り、人々の後ろに並んだ。

 私も、彼女とはぐれてしまわないようについていく。

 近くで見ると、そこに集まっている人は全員、那智谷さんが着ているのとおなじ、丈の長い灰色の外套を身にまとっているようなのだった。

 列は、すこしずつまえに進んでいった。

「あの……」

 これが参拝の列なんですか。

 私がひそひそ声で訊こうとすると、那智谷さんは、くすりと笑った。

「ふつうに喋っても大丈夫じゃないかしら」

「でも、みんな黙っているから……」

「誰も気にしないとおもいます」

 実際、話しているのは私たちだけなのに、それをとがめるどころか、振りかえって見ようとする人さえもいなかった。

 さらに列が動くと、先頭のほうがどのようになっているのか、様子がわかってきた。

 どうやら広間の奥は池のようになっていて、人々は次々に、そこへ小舟で漕ぎ出しているらしいのだ。

 岸を離れていくばかりで、戻ってくるものはひとつもなかったが、それでも舟が尽きることはなさそうだった。

 やがて私たちの番がきた。

 舟は、石神井公園や井の頭公園にある貸ボートと似たようなサイズとかたちの、単純な造りのものだった。

 船体に色は塗られておらず、新しく真っ白な生木のままだ。

 那智谷さんは私の背中を押して、先に乗るようにうながした。

 私が乗り込んで、舳先に近いほうに渡された板にまえをむいて腰かけると、彼女はそのすぐ後ろに座ってきた。

 櫂も櫓もついていないようだったのに、舟はしばらくすると水の上を滑るように動き出した。

 まえや横を見ると、影のような人をふたり、三人と乗せた舟が同様に、漕ぎ手もなくおなじ方向に進んでいる。

「ああ、おもいだしてきました」

 不意に、那智谷さんが私の耳もとでささやいた。

「まえにも来たことがあるんですか?」

 那智谷さんは私が訊ねたことには答えず、あなたも、おもいださない? と、不思議なことを言った。

 いったいなにをおもいだすというのだろう。

 私が返事に困っているうちに、那智谷さんは自分で質問をしたことを忘れたかのように、ちいさな音で鼻歌を歌いはじめた。

 いちども聴いた記憶はないけれど、なぜかなつかしく、泣いてしまいそうになる曲。そんな気がした。

 水面には舟の航跡のほかには波もなく、風もまったく感じない。

 だから、見上げてみるまで気づかなかったのだろう。

 いつのまにか舟は外を走っていた。

 空には満天に星が広がり、前方と左右には水平線までずっと、水がつづいている。

 後ろを振りかえって目をこらすと、私たちがそこから漕ぎ出したばかりのはずの岸辺が、遠くに霞んでいた。

 やがて、進行方向の低い空に月がのぼった。

 奇妙に歪んで見える半月だった。

「星座は詳しいですか?」

 那智谷さんが私に訊いた。

「あんまり……。オリオン座くらいならわかりますけど」

「そう。でもオリオンは、この空には上がっていませんね」

 それからすこしのあいだ、ふたりともなにも喋らなかった。

 上空に、緑や紫色のカーテンのような光があらわれて、ゆらゆら揺れた。

「オーロラ……」

 私がつぶやくと、那智谷さんは、もうそろそろですね、と言った。

 なにがそろそろなのかは、わからなかった。

 そうしながらも舟は水面をすいすいと滑る。

 しばらくして、それまでの静けさを破って、どこからか地鳴りのような音が聞こえた。

 それとほぼ時をおなじくして、舟が、ぐん、と加速した。

 まわりにいた舟もすべて、音の源へ引き寄せられるかのように、速度をあげる。

 さらに、行く手に突然、黒い穴が口を開けたかとおもうと、それが急激に広がって水平線をおおった。

 どうやらそこに、私たちが渡ってきた海の果てがあるらしかった。

 水面が唐突に終わり、水は、どうどうと音を立てて、深淵へと落ちてゆく。

 地鳴りかとおもったものは、その轟きであるようだった。

 流れがさらに速さを増し、舟も暗闇にむけて突き進む。

 私は息を呑み、立ち上がった。

「大丈夫ですよ」

 顔のすぐ近くで那智谷さんの声が聞こえた。

 彼女は、背後から両腕で私の体をつつみこむようにしてくれた。

 そして舟が水と虚無との境界を乗りこえるときがきた。

 私は、ぎゅっと目をつぶった。

 叫ぼうとしたけれど、喉がかすれて声は出なかった。

 次の瞬間。

 奇妙な浮遊感をおぼえて私は瞼を開いた。

 私たちは、落ちていなかった。

 那智谷さんの腕が、私の体を抱きとめていた。

 腰のあたりにまわされた二本の腕と、胸のあたりにまわされた二本の腕が。

 いつのまにか彼女が着ていた外套も服も脱げ落ちてしまっていて、汗ばんだ白い乳房が私のすぐ目のまえにあった。

 そして彼女は、虚空に立っていた。

 ……いや、そう見えたのは間違いで、彼女は実際には、細い、糸のようなものに乗っているのだった。

 わずかに揺れるたび、糸は銀色に耀いた。

 それを掴んでいる彼女の足は、もはや人間のものではなくなっていた。

 細く、茶色っぽい色で、突起や繊毛のようなものが隙間なく生えている。

 それだけでなく、彼女の腰から下のあたりは後ろに長く伸び、その伸びた部分全体が、みじかい体毛におおわれていた。

 いびつなかたちをした脚は、そこについているのだ。二対、四本の脚が。

「おもいださない? 私たちは、皆、こういう糸に乗って世界中にちらばって行ったんですよ。生まれたばかりのときに」

 那智谷さんが話しかけている相手は私にまちがいないようだったが、私にはその内容を理解することができなかった。

 私は、そんな記憶など持っていない。

 いったい、なにをおもいだせばいいのだろう。

「おもいださない?」

 おもいださない? おもいださない? おもいださない? 呪文のように繰り返しながら、那智谷さんは糸をたどって歩き出した。

 私たちがいる場所の右や左、上や下にも似たような糸が無数に張りめぐらされていて、それぞれの上を、那智谷さんとおなじように上半身は人間の姿のまま、下半身を蜘蛛に化身させた人々が渡っていく。彼ら彼女らの目指す先――すべての糸のむかっている先――は、ただの一箇所に収束していた。

 そこには……。

 ……暗くて全貌をつかむことはできなかったが、そこには巨大な山のようなものがあるらしかった。

 表面には半ば埋もれるように、極彩色の光球が連なっている。

 光は、ときどき細くなって消え、また細い線としてあらわれては、ふたたび丸くなることを繰り返していた。

 その耀きで、山肌にあたるところに瘤状のものがぶくぶくと、いくつも盛り上がっているのが見てとれた。そして中腹のところどころからは唐突に、太い、脚とも触手とも、あるいは根ともとれるものが生え、だらり、とぶら下がっている。

 先は下方の漆黒の闇の中に消え、どれほどの長さがあるのか、まったく見当がつかない。

 那智谷さんは糸をたぐり、巨大な山にむかってさらに前進する。

 突然、あたりの空気が振動した。

 私たちが乗っている糸も、大きく上下に揺れる。

 それは、糸の終着点にある山が、表についた瘤や脚――あるいは触手、あるいは根――をぶるぶると振りまわし、身震いしたからだった。 

 揺れのせいか、それとも、そのときあたりに急にただよいはじめた腐敗しきった魚の臭いのような臭気のせいか、私は猛烈な吐き気に襲われて、唾をぐっと飲みこみ目をつぶった。

 瞼を閉じても、熱病にうかされているときのように、目がぐるぐるまわりつづけているような気がした。私は那智谷さんの胸に、ぎゅっとしがみつき……。

 ……しがみついたそこに、肌のぬくもりはなかった。

 ただ、ざらっとしていて冷たかった。

 驚いて、私は目を開く。

 そこにあったのは、なんだかわからないものだった。

 私は、いびつな多角形を不規則に積み重ね、貼りあわせたような物体にすがりついていたのだ。

 表面は打ちっぱなしのコンクリートのような触感で、温度がない。

 とっさに私は、両手両足を突っ張って、「それ」を押しやった。

 肩と腰のまわりを支えていたなにかが外れる感触があって、私は宙に浮いた。

「ああ」

 なんだかわからないものが、那智谷さんの声でそう漏らしたのが聞こえたような気がしたけれど、それは私が、ほかの音を聞き違えただけだったかもしれない。

 そして私は、深淵の底へ落ちていった。

 それから茜の病院で目が覚めるまでのあいだのことは、ひとつも憶えていない。

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