四.

「今日は、なんか収穫あった?」

 真月が訊いてくる。

 日曜日の夜。

 各駅停車の列車は、行楽やショッピングから郊外に帰宅する客を乗せて、ゆっくりと走っている。

「うーん、これとかね……」

 返事をしながら、私は肩かけカバンの蓋を開き、オフセット本を一冊とりだした。

「うわ、キてるね。これ、あのヒクマさんって人の新刊?」

 真月は表紙をひと目みたところで率直な感想を漏らす。

 けれども、「キてる」というのは、当をえた表現であるともおもう。

 そこにカラーで印刷されているのは、説明しがたい形状をしたちいさな影たちで、それらは暗い色彩がまざりあい渦を巻いた、混沌とした背景の上に浮かんでいるのだ。

 冊子のなかのイラストも似たようなもので、心の底から拒否感が湧き上がってくるような、ぐるぐる、どろどろとした悪夢と空想に満ちあふれていた。

 この作者の画風は以前はまったく異なるものだったという。

 真月の言葉を借りれば、「萌え系だった」のだそうだ。

 変化がおとずれたのは、去年の冬から。

 彼が「蛸神」の絵を描いたのと、ほぼ同時期であるらしい。

「あ、そういえば、妹ちゃんはどうしてる? まだ絵描いたりしてんの?」

 私が手渡した冊子のページを繰りながら、真月が言った。

「うん、まあ」

 中学三年生になった杏莉は、将来は美術大学に進むといつのまにか決心したようで、高校に入ったら美大専門の予備校に通わせてくれ、と父母に頼んだりもしているらしい。

 その準備のつもりなのか、最近は粘土細工だけでなく、簡単な絵を描いたりするようにもなっていた。

 そして杏莉も、リンゴや自分の手のデッサンにまじって、ときおり、見るものを茫漠とした不安におとしいれるような、「キてる」絵を描くことがあるのだ。


 ○


 唐突だが、「くだん」という妖怪をご存知だろうか。

 人面をした牛で(だから、にんべんに牛、という字を書くのだろう)人語を話し、災害や疫病を予言するといわれている。

 その出現を伝える記事は、古文書や江戸時代の草子、さらには、明治時代や昭和のはじめごろの新聞にまで登場するという。

 ただ、どれだけその出現が文章に書きとめられていようとも、この妖怪が実在したという証拠にはならない、と私はおもう。

 件の目撃の記録は、戦乱や飢饉がつづいた時代、幕末、第二次世界大戦末期、終戦直後などに集中してのこされている。

 つまり、その出現は、社会不安の大きかった時期に報告されることが多いのだ。それはすなわち、この「妖怪」が、人々の不安の反映であったことを示しているのではないだろうか。

 民衆のあいだで高まった不安感が、「件をみた、件の予言を聞いた」という報告を生む。

 件が災厄を予言するのではなく、災厄が件を呼ぶのだ。

 そして、ほんとうに出現するのは、人面をもち人語を解する牛ではない。

 目撃談という文章によって仲介された、社会不安をつかさどる、共有された幻像なのだ。

「人類の誕生よりもはるかに昔、この惑星を支配していたのは、現在地球上にいるいかなる生物とも異なる超空間的な存在だった。それら『古代の支配者』は、いまは海の深みや密林の奥、別の次元などに居場所を移し、眠りについている。だが、彼らが眠りから覚めるときが、いずれ訪れる。そのときが近づくと、『支配者』たちは夢を通して、世界中に潜み、彼らの復活を待ちつづけている眷属、信者たちに語りかけるといわれている。それが、物質的な肉体を持たない彼らが人間に語りかける唯一の方法だからだ。ただし、眷族や信者ではなくても、特に繊細で感受性の高い者はメッセージを受けとってしまうことがある。そういった人々が見る夢――ほとんどの場合、それは悪夢である――に出現する異形の怪物。それこそが――あくまでも人間の頭脳を介して解釈されたものではあるが――『支配者』の姿である。『蛸神』の絵のあいだにみられる共通性は、それで説明することができる。そして『古代の支配者』の復活はすなわち、人間世界の滅亡を意味する。」

 SNSや携帯メールなどをを介して広まっているという「蛸神」現象についての「説明」は、おおむねこのようなものだった。

 多くの場合で、「すべての宗教において異端とみなされている書物」や「歴史から消し去られた歴史書」が典拠であるとされていた。

 私が話を聞いた同人作家たちが皆、おなじ時期におなじ夢を見て、その夢の内容を絵にした、と言っていること。

 それに、これもまったくおなじ時期に杏莉が奇妙な像をつくったとき、ほぼ同時に高熱と悪夢に悩まされたこと。

 さらに、この説明。

 それらのあいだに、とりあえず矛盾はない。

 けれども私は、この不吉な噂も、「件」のケースと似たようなものなのではないかとおもうのだ。

 世界の情勢や、さきゆきに対する不安。(現代社会のおかれている状況を考えると、そういったものを抱く人が多くなるのは不思議ではない。)

 「古代の支配者」にまつわる風説は、そのようなものを温床にして発生したのではないだろうか。

 じわじわと広まったその「話」が、芸術的な素養をもっている人間の無意識に――意識に、かもしれないが――はたらきかけ、似たような絵姿として具現化したのだ。(おそらく杏莉も、学校かインターネット上かで、この話題に触れたことがあったにちがいない。)

 そして、夢にみた、おなじ時期に描いた、という叙述は、いちど「説明」として固着してしまえば、自分の体験と切り離して認識することは難しくなる。

 つまり、私が聞き取りをおこなった同人作家たちは――意図的であるにしろ、ないにしろ――社会的に固定化した説明を自分の話として語ってくれただけなのだ。

 すくなくとも、そう解釈することのほうが、深海の底に沈んだ超空間的存在が人々に夢を送信している、という荒唐無稽な話よりも、論理的で納得できるように私にはおもえる。

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