三.

 翌朝。

 家を出るまえにテレビのニュースを見ていると、南太平洋で嵐が発生し、日本船籍の漁船を含む数隻が救援をもとめている、と報じていた。

 その次のニュースは、北海で大シケが起き、孤立した油田で作業員が救出を待っている、というものだった。

「学校終わったら、すぐ帰ってきてやって。お母さん、午後は仕事だから。今日はバイトないんでしょ」

 出がけに母からそう言われたので、しかたなく、図書館に寄るのをあきらめて昼過ぎに家に帰る。

 杏莉は、まだ学校を休んでいた。

 自分の部屋にカバンを置いて彼女のところに行くと、彼女はおでこに冷却シートを貼って、すやすやと寝ている。

 しばらくのあいだ、ベッドの横に座って様子をみていたが、特に苦しそうでもないし、起きる気配もない。

 別に面倒をみる必要があるようにもおもえなかったので、私は立ち上がり、部屋を出ようとしたところでふとおもいだして、杏莉の勉強机のところに寄ってみた。

 粘土の板は、昨晩杏莉が作業を止めたままの状態で机に置かれていた。

 どうやら、なにかを浮き彫りにしたものを中央に配し、その周囲に文字のようなものを刻もうとしていたらしい。

 そして、まんなかにある造形を見ているうちに、私はそれが見覚えのある形状をしていることに気がついた。

 いびつな円形の胴体。

 そこから伸びた八本の腕、あるいは脚。

 一昨日に杏莉がつくった粘土像がかたどっていた生物にそっくりなのだ。

 まわりを飾っている文字は、象形文字なのだろうか、世界で使われているどんな文字とも異なる――あくまでも私が知っている限りで、だが――不思議なかたちをしていた。

 彫刻をひととおり観察してしまうと、杏莉が寝ついているあいだはなにもすることがなさそうだったので、私は一階におりて、居間に置いてあったタブレットを手にとった。

 ブラウザを開いて、ときどき読んでいる真月のブログをなんとはなしに見てみると、トップに「蛸神祭り」と題された記事がある。「蛸神さま」の絵、なるものが、ネット上で空前の大ブームになっている、というのだ。

 例として彼女が紹介していたリンクをいくつかクリックすると、背景まで精密に描き込んだリアルなもの、水彩画ふうにぼんやりとしたもの、なぜか幼げな女の子に擬したものなど、筆致はそれぞれちがうものの、共通性のある主題の絵が表示された。

 瘤だらけの、山のような体。軟体動物の足のような触手や触覚。鋭い鉤爪。背後にそびえる異形の都市……。


 ○


 その次の日の早朝。

 私は喘ぎ声のようなものが聞こえてくるのに気づいて目を覚ました。

 起き出して隣の部屋に行ってみると、杏莉がベッドの上で転げ回っている。

 あわてて近寄って、額に手をあてると、熱はそれほどないようだったけれども、表情が苦しそうだった。

 そのうちに食いしばった歯のあいだから漏れる声がだんだん大きくなり、痙攣をおこしたように、体が二度、三度と跳ね上がる。

「大丈夫? お姉ちゃんがここにいるよ」

 ベッドに腰かけて抱きよせると、杏莉はすがるように両腕を絡みつかせてきた。

 それから彼女は数分のあいだ荒い呼吸をしていたが、やがて、喉で、んっ、というような音を何度かたてたあとで静かになり、私の胸に顔をうずめた。

 しばらくして、細い泣き声と、鼻をすすりあげる音が聞こえてくる。

「もう平気?」

 背中をさすってやろうとした私は、杏莉がびっしょり汗をかいていることに気づいた。

「パジャマ替えよっか。体も拭いてあげる」

 訊ねると、彼女は、うん、とちいさくうなずいた。

 ――夕方、私が帰宅すると、杏莉は居間のコタツに足だけ入れて寝転がり、携帯ゲーム機で遊んでいた。念のために学校は休んだものの、もう熱もさがって、すっかり元気だという。

「一日中家にいたらヒマだった」

などと言っている。

「あの彫刻のつづきはやらないの?」

と訊ねても、え、どれのこと、と、気のなさそうな答えがかえってくるばかりだった。

『そういえば、ウチの妹も、なんか謎の怪物を粘土でつくってたよ。夢に出てきた、とか言ってたけど』

 しばらくして私は、そんなメッセージを真月に送った。

『まじで! 蛸神絵描いてる絵師さんたちも、夢にみたって言ってる人が多いんだって』

という返信があったあとで、さらにもう一通、こんなのがきた。

『まとめサイトとかで読んだんだけど、とある禁断の魔道書だかなんだかによると、眠りについた古代の神々が復活しそうになるときに、夢をとおして語りかけてくるらしいよ。芸術家とか、芸術家の卵とか、特に繊細な人が影響されやすいんだって! 妹さんもそんなひとりなのかもしれないね!』

 そんなこと、現実にあるわけがない、と、そのときはおもった。

 陰謀論、というのとはちょっと違うかもしれないが、噂話としてよくありそうなネタだ。それに……。

 ……それに、私の妹が、そんなに繊細であるはずがない。

 絶対に、ありえない。

 けれども、SNSのメッセージで真月が送ってくれるページや動画共有サイトへのリンクをいくつもたどり続けるうちに、私は意見を若干――ほんとうにほんのすこし――あらためた。

 偶然の一致で片づけてしまうには、似ていることが多かったのだ。

 杏莉のつくった怪物の像と数々の「蛸神」絵のあいだの共通点。

 そして、それらの絵を描いた人たちが、その姿を夢に見たと語っていること。

 私は、この現象に対する興味が、自分の中で、ふつふつと沸きたってくるのを感じた。(もっとも、ことの発端が杏莉でなかったら、ここまで深入りはしなかっただろうとはおもう。)

 ただ、インターネット上に掲載されている作品だからなのか、「蛸神」の絵の多くについては元の作者を知ることが困難だった。

 わかったところで、すぐに作者との連絡がとれなくなってしまうこともよくあった。

 最終的に、個人として特定することができ、安定して連絡を取りつづけることができた相手は、オンラインでもオフラインでも継続的に同人活動をつづけている人たちだった。

 彼ら、彼女らにもっとも確実にコンタクトすることができるのは即売会なのではないか。

 私は、そう考えたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る