春を呑む。
浅葱いろ
しんしん
春の匂いがした。
青く、少し、土臭い。
香りに誘われて、瞼の裏に色彩が広がる。春陽の蜜色が溢れ落ちる、木々の若葉。陽だまりの中の菜の花と蒲公英。春の景色を行き交う蝶の羽ばたきや、囀る鳥の鳴き声、ほおを撫ぜる風の感触さえもが蘇り、一瞬の煌めきを経て、微睡みの夢のように駆け抜けていく。
睫毛を震わせて重たい瞼を上げる。瞳を閉ざし、眠りに就いた時と寸分も違わない暗闇が身を包んでいた。
何かが、おかしい。頭の片隅で、漂う違和感を悟った。だが、ぼんやりとした寝起きの頭はぬるま湯のようで、違和感の正体までは掴めることがない。
丸まり、かたまった体を解す為に、深い伸びをする。そこで、ようやっと肌身の感覚が戻ってきて、嫌に寒いことに気が付いた。凍えそうだ。寄り添う冷気に驚きながら、ぴくり、ぴくりと耳をすませてみる。だが、外からは何の音も聞こえてこない。木々の騒めきも、鳥の飛翔も、風の調べも、何も。物音の一つなく、外は深閑としていた。
こんな目覚めは、生まれてこのかた初めてだ。
余りある違和感に身を竦ませて、どうしようかと次の行動を躊躇する。
暫し、じっと縮こまってから、期待を込めて外に出てみることにした。
その身がやっと通り抜けられる程の狭い穴を潜ると、闇に慣れきっていた目が眩む。痛みに似た刺激が瞳孔を刺し、視界に入るもの全ての輪郭がぼやけて滲んだ。何も映らない目の前は、真っ白だ。やがて目眩のような揺らぎが引いて光に慣れるも、抱いた印象は等しく「真っ白だ」だった。
目に映るものの像は線を結んでいたが、果てのない白が広がっていたのだ。
どこまでも白銀の世界。
雪は、しんしんと音を喪して、山を白く染め上げていた。
冬眠から目覚め、巣穴から顔を出した小狐は、呆然と立ち尽くすしかなかった。目の前に広がる白が雪であることを認識すると、今が冬であることも否応無く知れる。
小狐は、冬という季節を、あまり体感したことがなかった。冬が濃くなり、雪が深くなる時節となる前に、長い眠りに就くからだ。所謂、冬眠と呼ばれるその眠りは、冬が明けて春の訪れを感じられる頃に、覚めることになる。筈だった。
雪を見るのは、初めてのことではない。冬眠に就く前にも小雪が散らつき、山肌が雪化粧を施すことがある。目覚めてからも春は浅く、日陰に残る雪を踏むことがあった。だが、こんなにも目深に降り積もった雪を見るのは、初めてのことだ。山の地肌が見えない。木々も白い傘を着て、重たそうに体を隠している。
冬の最中に目覚めてしまったと言うのに、一歩、雪原の中に足を踏み出すと、小狐の心は踊った。降り積もる雪は音を吸収しているようで、自身の足音、吐息、そして、重みに耐えかねた木々が時折に雪を落とす音しか聞こえてこなく、まるで己だけが存在している世界のようだった。
常とは違う非日常を感じて、小狐は軽い足取りで雪を踏みしめる。しく、しく。足を進める度、自重で沈んでいくのが面白い。そうして皚々たる雪景色の中を、宛てもなく歩き続けていると、すぐに飽きがやってきた。
いつもなら同じ頃に目覚める栗鼠や、鳥たちの姿もない。戯れる相手が、何処にもなかった。食糧もなさそうだ――ようやっと喫緊の問題に気が付くと、はっとして小狐は歩みを止める。
白雪を踏む音が止まれば、世界からは瞬く間に音が消えてしまい、耳が痛くなってしまいそうだった。すると、じわりじわりと孤独というものも胸の底から染み出してきて、小狐は忙しなく辺りを見渡した。
白、白、白。冬眠から目覚めたのだから、春が近付いている――はずなのだが、気配も見えない。
慌てて、小狐は走り出した。栗鼠の巣、鳥の巣、少し意地悪なので苦手な狸の巣穴など、順繰りに小狐は訪問していく。生まれ育った山なのに、四方八方が白雪に覆われていて、迷ってしまいそうだった。最後に川辺に棲まう山の主に会いに行くも、沼は氷が張り、鯰の姿も魚の姿も見えることはなかった。
しょんぼりと首を垂れて、再びどうしようかと次の行動を躊躇する。
人里に下りれば、何かを見つけられるかも――。
人は恐ろしいものだと、小狐は認識している。小狐の母は、人の罠にかかって狩られたのである。
十分に迷ってから、静寂に我慢の尾が切れて、小狐は歩き出した。遠くから様子を見るだけならば、問題はないだろう。
山の麓に、その村は在った。藁葺きの屋根が二十ほど連なる、小さな村だ。小高い丘の上から人里を見下ろして、小狐は首を傾げた。
人が住まう村も、山の様子と違わず、雪の装いが施されている。藁葺きの屋根は白に覆われ、葉脈のように張り巡らされた道も雪が深く積もっていた。
空は雪原を鏡写しにしたように、のっぺりと白い。はらりはらりと舞い落ちる雪の合間に、煙の一つも立ち上っていないことに思い至って、小狐は戸惑いの意味を知った。
人が居る様子が無いのだ。人が住んでいれば、道に足跡が残るはずであり、屋根の雪も高くなる前に下ろすだろう。暖をとるために火も焚く。
小狐は丘を下ると、恐る恐る人里に足を踏み入れた。
二、三、軒先から家の中を覗いてみたが、やはり人の気配は皆無だった。誰も居ない。誰の気配も無い。生命の灯火を感じられなく、まるで降り続ける雪に、人々が追い出されてしまったかのようだった。
真白の道に小さな足跡を残しながら、小狐は食糧が残ってはいないかと彷徨った。一軒目は空振り、二軒目も収穫がなく、そうして何軒目の家であるのか分からなくなった頃、覗き込んだ家の中に人の姿を見つけた。
あ!
声にならない驚きを上げて、土間に入りかけた足を止める。その人は土間の向こうにある畳の上に、背を向けて寝そべっていた。囲炉裏に火はついていない。薄い着物姿で、布団代わりに羽織りを腹に掛けていた。裾から覗いた素足が寒そうだ。あまりにも向けられた足裏が真っ白で、小狐は死んだ人が残されているのだと思った。注意深く耳を立ててみたが、吐息も聞こえない。
強張った体から力を抜くと、小狐は家の中に入り込んだ。土間は台所も兼ねている。まず隅にある甕の中を確認して、竃の横に置かれている笊をひっくり返す。枯葉の一枚が落ちただけだったので、畳に上がった先にある棚を改めようと思った。
あ!
振り返ってみると、寝そべっていた人が上体を起こして座っていた。
固まったように、小狐は動けなくなる。
死んだと思っていた人が生きていたことも驚きであったが、こんなにも美しい人を見たのは初めてだったのである。
白雪のような白皙の青年だった。透き通るような白い肌の中で、色素の薄い瞳が小狐を見据えている。少し長めの髪の毛も、透けるような銀色であった。紺色の着物が浮いた印象を与え、今にも消え入り、着物だけが残りそうな薄幸さを感じた。
青年も、小狐の姿を少々の驚き混じりに見つめていた。互いに見つめ合ったまま時が過ぎると、青年の方が薄い唇を開く。
「此処には、何も食べるものはないよ」
小狐は弾かれたように駆け出した。家を飛び出して、村の外れに急ぐ。母と同じように、自分も狩られてしまうかも知れない――頭の中に熱石が投げ込まれたようだった。一目散に駆けながら、はたと不思議に思う。何も食べるものはない。ならば青年は、何を食べ、どのようにして過ごしているのか。
*
雪は降り止むことを知らずに、世界を白く塗り重ねていた。小狐がふらふらと歩んだ足跡も、夜が明けて朝が来ると、まっさらに戻っている。
とんぼ帰りとなった巣穴から出ると、ここ数日は日課のように行なっている巡回に、小狐は出かけた。栗鼠、鳥、狸。巣の中を覗き、精一杯の呼びかけをしてみるも、相変わらず返答はないままだ。沼の氷も分厚く張っていて、溶ける兆しは微塵もない。巣穴の中も沼の中も、暗くてきちんと見ることは出来ないが、もしかしたらもう誰も居ないのかも知れなかった。
降り積もる雪に比例するように、厚くなっていく孤独を紛らわして、小狐は丘から人里を見下ろした。此処も、最初に見た時と変わらず、煙の一筋も上がらずに静まり帰っている。
山は静寂、何の返答もない。だが、村にはまだ一人、人が存在している。
ぐるぐると円を描いて悩む。雪原を無数の足跡で踏み荒らした末、小狐はもう一度村の中に入ってみることにした。
件の家を覗いてみると、想像していた通り青年の姿があった。
人は恐ろしい、悍ましいものと教えられてきた小狐にとって、青年も恐怖の対象であることに間違いがない。だが、己以外の命の存在に、ほっと胸が落ち着く思いもした。
青年は、また小狐に背を向けて、畳の上に寝そべっている。あの時は死んでいると思っていたが、病に臥せっているのだろうか。だから、一人きりで置いて行かれてしまったのだろうか。そもそも他の人は何処へ? 人も獣も、一体何処に消えてしまったのだろう。
生気の感じられない足裏と、白髪の合間から見える首筋に、青年も居なくなってしまうのではと小狐は不安を覚えた。
「また来たの……」
億劫そうな声音が上がり、青年がゆっくりと体を起こす。布団代わりの羽織りがずり落ちて、膝の上で皺を作った。ぺらぺらとしていて、吹けば飛んでいってしまいそうな体だ。
やはり青年は、何も食べてないのではなかろうか。そして病んでいるのではないか。
己の空腹も忘れて、小狐は憂慮する。
家の入り口から半身だけを出した小狐を確認すると、青年は細い溜め息を吐き出した。大業そうな仕草で立ち上がり「そういえば木の実が残ってたような……」と、棚を開けた。乱雑に、次々と抽斗が暴かれていく。全ての抽斗を改めてから、青年は小狐に近付いてきた。
腰を引き、いつでも逃れられるように緊張しながら、小狐は青年の一挙手一投足に気を張る。小狐の前で屈み込むと、青年は手の平を開いた。赤味のない平の上に、木の実が乗っている。冬が訪れる前に収穫したものだろう――木の実から青年に目を上げると、色素の薄い目が細められた。
「本当にこれしかないんだ。これを食べて、後はお前も南へお逃げ」
正しく小狐へと与えられた食糧であったが、受け取ることは憚られた。困惑している小狐に「ん」と青年が更に手を押し付けてくる。しかし、これしか食糧が無いのだとすれば、青年はどうするのだろう?
「……お前、私のことを心配してくれてるの?」
ぽつりと、青年が溢す。
小狐は気遣わしげに、青年を見返した。
「優しい子だね」
木の実を持つのとは別の方の手の平が、そっと小狐の頭に寄せられる。壊れ物に触れるような危うげな雰囲気で、優しく撫でられた。
小狐は気持ちが良くなって、丸々とした目を細める。母に毛繕いをされた時の記憶が蘇った。氷のように冷えた印象の白い肌だったのに、青年の手は思いがけずも温かい。人肌の温もりが、凍えそうな身には大層心地良かったのだ。
気怠そうにしているが、特別に体の調子が悪いわけではなさそうだった。青年の体温は、熱くも冷たくもない。人心地がついて、思わず頭を摺り寄せるようにしてしまうと、青年は驚きに目を丸くした。すぐに、可笑しそうに緩められる。
「私のことは気にしないで大丈夫。お前は早く行くんだよ」
小狐の前の地面に木の実を置くと、青年は立ち上がって、再び畳の上に寝そべった。離れてしまった温もりが、なんだかとても恋しいもののように小狐は思えたのだった。
*
山への帰り道、栗鼠や鳥の巣を見やりながら、小狐は「そうか、みんな南へ行ったのか」と、青年の言葉を思い出して納得した。
何の息吹も感じられないのは、本当に何も居ないからなのだ。――この山は冬に包まれて、雪に覆われて、長い眠りに就くのである。大して長い時を生きてきたわけでもなかったが、山も冬眠することがあるんだなあと、小狐はぼんやりと思った。
それにしても、南とは言っても何処に行けば良いのだろうか。何処まで行ったのなら、みんなと会えるのだろうか。あえるまで、僅かな食糧で体が保つのか。
つらつらと南への厳しい道のりを考えては巣穴に戻り、小狐は貰った木の実の一つを大事に食した。
次の日も、小狐は人里に下りた。残った木の実も、きちんと持ってきている。人が追い払われた村はがらんどうで、山よりも寂しさに満ちている気がした。
家を覗くと、三度目にして慣れてしまった背中が向いていて、小狐は安心した。緊張をしていたことも忘れて家の中に入り、土間から畳へと上がる。その小さな足音を聞き入れて、青年は緩慢と体を起こした。胡座をかき、ちょこんとお座りをしている小狐と向かい合う。
「わざわざ、さよならをしに来たの?」
困ったように、青年は笑った。小狐は小首を傾げて、青年が身に纏う紺色の着物を鼻先で突く。
冷えた匂いがした。寒いところから、温もりがあるところに帰ってきたものが纏う、冬の香りだ。小狐を巣穴に残し、外から帰ってきた母も、こんな香りを漂わせていた。
青年は薄着で寒くないのだろうか。体温を分け与えるように擦り寄ると、頭から背を撫でつけながら「寒さには強いんだ」と青年に言われる。ふうん、と小狐は、それでも青年の胸に体を押し付けた。
十全に温もりと匂いを堪能してから、着物の袖口を口に含む。つんつんと引っ張ってみると、青年はますます困った表情になった。
「私は行かないよ。……行かない方が良いんだ」
言い直した青年が、諦観した顔で頭を振る。
何処まで行ったらいいのか目的地の見えない旅路は、寂しい。ならば共に行こうと誘った小狐は、青年に断られて尻尾を落とした。もう一度、縋るように青年を見上げてみるも、首を横に振られるばかりだ。
餞別のつもりで木の実を一つ置くと、小狐は家を出た。
青年の他には無人の村を、勝手知ったる道のように歩む。目抜き通りを真っ直ぐに下れば、南の山に出るはずだった。
後ろ髪が引かれる思いがして、何度も小狐は振り返る。青年が心変わりをしてくれることを望んでいたが、追いかけてくる姿が見えることはなかった。
雪は音を消して、しんしんと降り続けている。何もかもが白く塗り潰されていく情景と沈黙の中で、小狐はたちまち心許ない気持ちになった。泣きたく、なってくる。つんと鼻の奥に痛みが走り、目の奥が熱くなる。途方に暮れてしまう程、何処までも閑寂とした冬だった。
村を抜けて南の山へと入ると、雪の中で何かに蹴つまずき、小狐の体は雪原に飛び込んだ。
顔から着地した雪は柔らかい。だが、絶えず降り頻る新しい雪に押し潰されて、地に近付くにつれて固くなっている。岩の上のようだ――そう思ったところで、小狐が住まいとしていた山よりも、南の山は雪が薄いことに気付いた。固くなっている雪も、さして厚くはない。
表面だけはふかふかとした雪に埋もれた体を持ち上げると、懐に入れてきた木の実が散らばってしまっていた。慌てて掻き集める。――と、指先に、木の実とは別の感触を得た。なんだろう? 不思議に思って、小狐は雪を掻いて、掘ってみた。
白い雪の下に地面の色が見えてくると、長いこと色彩に欠いていた視界に、緑色が見えた。雪の下で、春が芽吹いている。
あ!
とてつもない宝物を発見した気持ちになって、小狐は夢中で雪を掻いた。見える地面が大きくなり、地中から芽を出している若草の全貌が露わになる。
確かに小狐は、巣穴の中で春の匂いを感じていた。だから、春の夢を見て、冬眠から目覚めたのである。あの時に感じた春は間違いではなく、雪に覆い隠されてはいるが、しっかりと春は息をしていたのだった。
驚きに身を任せて天を見上げると、雪空を背景とした木々にも芽を見つけることが出来た。白い雪に震えながらも、木々は、大地は、芽を出している。
若い葉の一枚を口に咥えると、小狐は嬉しくなって駆け出した。向かうのは青年が居る家である。
飛び込むようにして家の中に入ると、小狐は青年の上に飛び乗った。
「わ! なんだ、冷たいな」
小狐の毛に張り付いていた雪が、無遠慮に青年の着物を濡らして、冷たさを与える。だが、そんなことに気が回らない程、小狐は興奮していた。横向きに寝そべっていた青年が、身を捩って仰向けになる。これ幸いと腹の上に乗りかかると、口に咥えた緑を目前に持って行って、小狐は尻尾を揺らした。
若葉を目に入れて、青年が息を飲む。小狐を落とさないように片腕で体を起こし、もう一方の手で「信じられない」と緑に触れた。
青年の瞳が揺らぐ。視線が伏せられ、再び若葉を捉えては逸らされて、困惑と呆れを滲ませた口を開いた。
「会いたくないから行かなかったのに、春の方から来るなんて」
青年が言わんとしていることが分からなくて、小狐は揺らしていた尻尾をおさめると、鼻で甘ったるい鳴き声を出す。葉に寄せられていた手が頭に回り、心地良く撫でられた。すると小狐は、疑問が飛んでいく錯覚を持つ。
青年の手の平は、どうしようもなく気持ちが良かった。また手に頭を擦り付けるようにして、温もりを感じる。距離が近付けば、鼻腔に感じる香りも濃くなっていく。やはり、青年からは冬の匂いがした。匂いに誘われて次に鼻先を手の平へと押し付けると、青年が「こらこら」と苦笑を落とす。その時、不意に声がかかった。
「こんにちは」
あ! 背後から聞こえてきた声に、小狐は驚いて振り返った。今度は、青く、少し土臭い。春の香りがしたからだ。
戸口に立っていたのは、一人の女だった。綺麗と言うよりも、可愛らしい印象を受ける。柔らかな雰囲気に包まれていて、彼女の周りだけが陽だまりのようであった。青年の色素の薄い瞳の色に似た髪が、ふんわりと揺れる。桜色の着物が桜の木のようで、彼女の肌は生気に満ちていた。ふっくらと瑞々しくて、どことなく甘い。もぎたての桃のようだ。「春」と、悲しそうに青年は彼女を呼んだ。
「あなたが呼びに来てくれないので、私から来ました。交替ですよ」
慈しみが溢れるような眼差しで、彼女は青年を見やる。
小狐は思い出した。母が父を見る目も、このような優しい色を持っており、父が母を見る目もまた同様であった。青年と女性は、互いに互いを尊重し、大切に思い合っているのであろう。だが――青年の目には投げやりさも窺える。
「もう会いたくなんてなかったよ。私と君は、一緒には居られないのだから」
絶望したように青年の瞳が沈み、小狐は耳を伏せた。
「君は良い。いつも、歓迎される」
「それで、あなたは皆を追いやって、此処を永遠に雪深い地にするのですか。春を待っている者が居るでしょうに」
青年が薄い唇を噛んだのが分かった。じり。微かな歯軋りの音も聞こえる。透いた髪の向こうで、瞳が哀しさを秘めていた。
やがて、ふらふらと覚束ない足取りで立ち上がると、布団代わりだった羽織りに袖を通し、青年は彼女の方を見ないようにして歩き出した。やんわりと膝から下ろされて畳の上に置かれた小狐は、どうしようかと女性の顔と、青年の背中を交互に見る。ぎこちなくも優しい手付きを思い出して、心地良い体温と、冬の香りを反芻して、小狐は青年の背を追うことにした。
彼女と擦れ違いさまに、囁かれる。
「冬を、宜しくね」
そうか、青年は「冬」なのだ。
冬と春は共に居れない。
共に存在することはない。
青年と彼女は、どんなに互いを思い合っても、一緒に過ごすことは出来ないのだ。
青年は北へと向かっているようだった。
がらんどうな村の中に居て、白い髪や肌は雪と融解し、紺色の着物だけが歩いているように見えた。こうして青年は、一人寂しく、長い旅路を歩いてきたのだろう。ひょこひょこと小狐が隣に並ぶと、青年は泣きそうな顔に笑みを浮かべる。
「いいの? 私といては、冬は明けないよ」
大丈夫。ぼくも寒さに強いから――小狐は得意げに、豊満な尻尾を揺らした。それに、雪景色は美しい、冬は美しいのだと、どうやって伝えたらよいか、大いに悩む。二人で歩めば、寂しい旅路ではない、とも。
春を呑む。 浅葱いろ @_tsviet
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