土壇場の強行突破

 意を決してホテルのロビーに突入したわたし達は、一つの幸運に恵まれた。

 ロビー中心に居座っていた大型の怪物は、わたし達の姿を見ると驚いたように硬直したのだ。しかも一瞬だけじゃなくて、結構長い間固まり続けている。

 どうして? と少し考えれば、答えはすぐに閃いた。きっとこの大型の怪物はさっきみたいに仲間から与えられる餌ばかり食べていたから、生きた状態の獲物を見た事がないんだ。

 日本人の場合、目の前に生きたニワトリが現れても「こりゃ美味そうだ」と言いながら捕まえる人は殆どいない。むしろ大多数の人はビックリして、しばらく動けなくなる筈だ。大型の怪物が同じような状態に陥っているなら、逃げようとするわたし達にとって実に好都合。わたしとルビィは互いの顔を見て、引き攣りながらも笑みを浮かべた。

 ――――好都合だったのは、ほんの一瞬だけだった。

 大型の怪物は、本当に生きた状態の『食べ物』を見た事がないのだろう。だからわたし達を食べるため、頭からどろどろした黒い肉の塊を出したりはしてこない。

 でも、さっきの日本人とニワトリの例えを使えば。

 全員ではないとしても……ニワトリに驚いて、追い払うため思わず蹴飛ばそうとする人は出ると思う。気が弱くて、些細な事でもパニックになってしまうような人なら特に。

 外敵と触れ合わず、獲物の生きた姿も知らない『女王様』が、突然の襲撃者を前にしたら混乱するに決まっている。

 動かなくなっていた大型の怪物は不意にぐるりと身体の向きを変え――――丁度真横を通ろうとしていた磯矢くんにその腕を振るった。

「がっ!?」

「いっくん!?」

 巨大な腕の一撃を受け、磯矢くんが突き飛ばされる。彼はごろごろとロビーの床を転がり、壁に身体を叩き付けた。その光景を見たルビィが悲鳴染みた声を出す。磯矢くんはなんとか立ち上がったけれども、すぐに膝を付いてしまう。

 鍛え上げられた身体のお陰か酷い怪我はしていないみたいだけど、それでも立てなくなるぐらいのダメージを負ったのだろうか。少し休めば立てるようになるかも知れないけど、だけどそんな余裕は多分ない。

 磯矢くんを殴り飛ばした怪物が、磯矢くんの事をじっと見ているのだから。

 見ていると言っても、怪物には目なんてない。だけどその巨大な頭の先は、確かに磯矢くんの方を向いていた。挙句じりじりと躙り寄る動きをしているのだから、ただの偶然、なんて考えは最早現実逃避でしかないだろう。

 生きた獲物を見るのは始めて。だけど服とか体内のマイクロプラスチックとかを感知して、これは食べ物なんだと気付いてしまったのかも知れない。

 さっき、生きてるニワトリを美味しそうだと思う人はいないと考えたけど……怪物達は人間じゃなくて、野生動物的な存在の筈。目の前にあるのが食べ物だと分かれば、それが生きているかどうかなんて気にしないだろう。

「た、助けないと……!」

「駄目だキララ! 危ない!」

「でも!」

「ボクが行くから待っているんだ!」

 駆け寄ろうとするわたしを零くんが抑え、彼は大きな怪物の背後から駆け寄る。武器も何も持ってない零くんは、渾身の蹴りを怪物に食らわせた。

 二メートルぐらいの、普通の怪物だったら、これでつんのめるぐらいはしたかも知れない。だけど大きさ五メートルの怪物はビクともせず、蹴られた背中側へ振り返る事すらしない。プラスチックの身体には痛覚なんてなくて、蹴飛ばされた事にすら気付いていない様子だ。

「みんな逃げろ! 俺は一人でも大丈夫だ!」

 微動だにしない怪物を前に、磯矢くんがわたし達に逃げるよう促す。怪物と磯矢くんまでの距離は、もう何メートルもないというのに。

「そんな事、出来る訳ないでしょ!」

 磯矢くんの意見に真っ先に反論したのはルビィ。彼女はあれだけ怖がっていた怪物の横をするりと通り抜け、磯矢くんの下まで誰よりも早く駆け寄ってしまう。それから彼を立たせるため、小さな身体で大きな磯矢くんを持ち上げようとした。

 まるで、それを許さないとばかりに。

 磯矢くんを見ていた大きな怪物が、何故かその動きを早めた。餌の量が二倍になったから? 理由を考えている暇は、どうやらなさそうだ。

「くそっ! このっ! なんでこっちに反応しないんだ!」

 零くんは必死に怪物に蹴りを入れ続けるが、怪物はやはり微動だにしない。少しずつ、少しずつ磯矢くん達との距離を詰めていき……

「……ルビィ、しっかり口を閉じていろ!」

 いよいよその手が届きそうになった瞬間、磯矢くんがルビィを突き飛ばした。

「きゃっ!? い、いっくん――――」

 突き飛ばされたルビィは倒れた痛みで悲鳴を漏らしつつ、大切な彼氏の名を呼ぼうとしていた。怪物から逃がすために、我が身を呈してくれたのだから。

 磯矢くんはきっと、自分の命よりもルビィを守ろうとしたのだろう。迫り来る怪物の前から、大切な彼女だけを渾身の力で退かしたのだから。

 でも。

 磯矢くんに迫っていた筈の怪物は、何故かルビィの方へと振り向いた。

「ひっ!?」

「なっ!? お、おいっ! こっちだ!」

 大型の怪物に見つめられてルビィは悲鳴を漏らす。磯矢くんは慌てて大声で自分の存在をアピールするけど、大きな怪物は気にも留めていない。

 じりじりと、今度はルビィを追うように移動し始める。

「や、やだ! 来ないで!」

「ルビィ!? そっちじゃない! こっちに来て!?」

 磯矢くんと違ってルビィは走る事が出来たけど、混乱しているのかルビィはホールの出口から遠ざかるように逃げてしまう。こっちに来るようルビィに伝えてみても、恐怖に染まった彼女の耳には届かない。

 そんな彼女を更に追い込む事態が起きる。

 ホテルの廊下から、何体もの怪物が現れたのだ。わたし達をホール突入に駆り立てた集団が、ついにやってきたらしい。

「嫌ぁ!? こ、来ないで! 来ないでよぉ!」

 ルビィが鉢合わせた集団から逃げるものの、怪物達はルビィ目指して動く。混乱したルビィはぐねぐねと蛇行するように走っていたのに、怪物はその蛇行を律儀に追い駆けた。

 まるで、いや、間違いなくルビィは狙われている。思えば部屋で襲撃された時も、怪物は真っ先にルビィ目掛けて突撃していた。一度だけなら偶然かもだけど、二度目で、しかも何体も同じ行動を見せているのだ。そこには何か、確かな理由があるに違いない。

 そう、わたし達にはなくて、ルビィにだけある理由が。

「きゃあっ!?」

「ルビィ!?」

 怪物に追われていたルビィが、ロビーに転がっていた何かに蹴躓き、転んでしまう。

 普段ならすぐ立ち上がれる筈のところ、迫り来る怪物の恐怖で腰が抜けたのか。ルビィは這いずるように動くのが精いっぱいな様子だった。怪物達は少しずつ、その距離を縮めていく。

「くそっ! なんでコイツ無視してんだ!?」

「このっ! このっ!」

 ようやく立ち上がった磯矢くんと、もう息も切れかけている零くんは、大きな怪物に何度も蹴りや拳を入れている。それでも怪物の動きは止まらず、二人は焦っていた。

 冷静に考えられるのは、咄嗟に動けなかったわたしだけ。

 考えるんだ。何か、ルビィだけわたし達と明確に違うところがある筈。何か、何かが……

「い、いやあぁぁぁ!?」

 考えるわたしだったけど、全く何も閃かないまま。間近に迫った怪物に対し、ルビィは両手を闇雲に振り回しながら悲鳴を上げて――――

 キラリと、ルビィの指が光った気がした。

 ……それは単なる勘違いかも知れない。

 だけど勘違いだとしても、彼女の指には『アレ』がある筈だ。服とか靴に比べてずっと小さく、軽いそれは、だけどこの中では一番プラスチックっぽい。そしてルビィだけが付けているもの。

 もしかしたら、もしかするかも知れない。違っていたら色々可哀想だけど、でも少しは気が逸れるかも知れないし、生きて帰ったなら後で本物を貰うのだから捨てさせたってバチは当たらない筈。

「ルビィ! その指輪を遠くに投げ捨てて!」

 だからわたしは、ルビィにそう伝えた。

 パニック状態だった筈のルビィは大きく目を見開いた。それから自分の左手の薬指に嵌めていた指輪を握り締め、嫌々と言いたげに首を横に振る。この指輪を捨てるのだけは絶対に嫌だと言わんばかりに。

「それ偽物だから! ただのプラスチック!」

「はぁっ!? そ、そーいう事は早く言いなさいよ!」

 なので本当のところを教えると、ルビィは顔を赤くしながら指輪を投げ捨てた。

 すると怪物達は、一斉に身体の向きを変える。

 次いで全員が、ルビィが投げ捨てた指輪を追い駆け始めた。仲間を押し退け、わらわらと指輪に群がる。大型の怪物も同じく指輪を追い、自分より小さな仲間を蹴散らしていた。

 突然の怪物の行動に、零くんと磯矢くん、そしてへたり込んだままのルビィは唖然としていた。わたしだけが、思っていた通りの結果にガッツポーズを取る。

 あの指輪は零くん曰く、最近開発された新しいプラスチックで出来たもの。怪物はプラスチックを餌にしているので、もしやと思ったのだ。部屋でルビィが真っ先に襲われたのも、指輪に引き寄せられたのだろう。偶々怪物を引き寄せてしまう製法だったのか、見慣れないものに食指が動いたのか、正確な理由は分からないけど。

 勿論どれだけ興味を惹こうと、あくまで餌という認識の筈。あんなちっぽけな指輪なんて、アイツらは一口で食べてしまうだろう。だけど元々大して動きの速くない奴等を、部屋の隅まで退かせたのだ。こちらからすれば形勢逆転である。

「磯矢くん! ルビィを早く立たせてあげて!」

「お、おう!」

 磯矢くんは駆け足でルビィの下に向かい、彼女を立ち上がらせた。腰は抜けても怪我はない筈。一度立ち上がれば、もうルビィは自分の力で歩けるようになっていた。

「凄いよキララ、後でさっきの秘策の詳細を聞かせてよ――――よし、逃げよう!」

 ぽつりとわたしを褒めつつ、零くんが先導してホテルの外へと走り出した。

 指輪で隅っこに寄せたお陰で、もうホテルの出入口の前に怪物はいない。指輪を食べ終えたのか怪物達の視線が一斉にわたし達の方を向いたけど、もう怪物達との距離は十分に開いた。加えて大して足の速い生き物じゃない。追い付かれる事もないし、転んでも起き上がる時間ぐらいはある。

 精神的余裕はわたし達の足取りを軽やかにする。誰も転ばず、蹴躓く事もなく、わたし達は出口へと向かい、

 全員無事に、ホテルの外に出るのだった。

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