不穏な逃走劇

 部屋の外は、酷いとしか言いようがない状態だった。

 怪物達は蛍光灯のカバーを食べようとしたのか、天井の明かりが幾つか破壊され、廊下はかなり暗くなっている。例えるなら夕方遅くぐらいの、ちょっと物陰に入るのを躊躇いたくなる雰囲気。細かなものを見落としやすく、足下に注意しないと何かに蹴躓いてしまうかも知れない。

 ……もう少し暗ければ、惨状も見ずに済んだのに。

 廊下に飾られていたカーテンが引き千切られ、床に散乱している。壁紙も破かれて中の防火材が露出していた。床には爪痕のような傷が無数に刻まれ、わたしなんかは見ただけで震え上がってしまう。幾つかの部屋のドアが破壊されていて、奴等がそれらの部屋に侵入した事が窺い知れた。

 そして廊下には倒れたまま動かない怪物が数体と、同じく数個の大きな肉塊、あ、いや違うこれ人間の

「ひっ……」

「あ、アレって……」

「いきなり目にするとは、ある意味ついてるかもね。追われてる時に気付いてしまうより、今のうちに慣れてる方がまだマシだろうし」

「それを素直に喜べる奴は、ぶっちゃけ頭おかしいだろ」

「うん、ボクもそう思う」

 気付いてしまったわたしとルビィを気遣ってか、零くんはそうフォローしてくれた……生憎磯矢くんが言うように、全く同意出来ない。零くん自身受け入れてないし。

 だけど零くんの考えには一理ある。横たわる彼等を見て、一瞬軽いパニックになったのは確かなのだから。もしも怪物に追い駆けられている時にこの人達のような遺体を見てしまったら、きっと酷い混乱状態になっていただろう。

 だからこれは、悪い事じゃない。

「……大丈夫。とりあえず、落ち着いた」

「わ、私もなんとか」

「無理はしてない? 大事な事だから正直に教えて」

「うん、本当に大丈夫」

「……ごめん、私やっぱ無理」

 わたしは零くんに言われた通り、正直に答える。ルビィの方はそう言った直後、吐いた。零くんと磯矢くんが周りを見渡している間に、わたしはルビィを廊下の壁際まで移動させ、背中を擦ってあげる。

 幸い、ルビィが落ち着くまでの数分間、怪物達が襲撃してくる事はなかった。わたしはホッと、安堵の息を吐く。

 ……でも、それはそれで少し不安だ。これだけ廊下を荒らされているからには、相当数の怪物が一度はこの廊下に押し寄せてきている筈。なのに今その姿は全然見えない。

 開きっぱなしのドアの奥にまだ潜んでいるのだろうか? もしそうなら部屋のどの辺りに居るのか、食事中や満腹ならまだ良いけど、次の獲物を狙っているのなら……

 ちょっと考え込むと、悪い事ばかり思い付いてしまう。もしもを考えるのは悪くないと思うけど、恐怖で足が竦んだら元も子もない。

「……ごめんなさい。吐いたら大分スッキリしたわ。今度は、本当に大丈夫」

「分かった。無理せず、着実に行こう」

 ルビィが一通り吐き終えたところで、わたし達は脱出を再開する。

 脱出ルートは部屋から出る前に決めてある。三階にある部屋から出たらすぐ階段に向かい、そのまま一階へ。廊下を渡り食堂の前を通ってロビーに行き、そこから正面玄関を通って外へと出る……他の候補としては非常口から脱出するルートがあったけど、正面玄関ルートはみんなが一度は通っていている道なのでいざって時に迷わなくて良いだろうという事で、この経路になった。

 隊列は磯矢くんが先頭に立ち、ルビィ、わたし、最後列に零くんが居る。零くんが後方を確認し、一番力のある磯矢くんが先陣を切るという形だ。わたしとルビィは、左右を警戒する。武器は特に持っていない。足を止めて戦うつもりがないので、余計なものは持たない事にしたからだ。

 脱出経路にわたし達の歩みを阻むようなもの、例えば崩れた瓦礫とかはなく、転んだり蹴躓いたりせずに済んだ。怪物にも襲われず、歩みは止まらない。

「……あの、零。さっきはありがとうね」

 その歩きの中で、ルビィが不意に零くんにお礼を伝えた。

「? ボク、なんかしたっけ?」

「怪物が部屋に入った時、助けてくれたじゃない」

「……あー、そういえばそうだっけ」

 ルビィに言われてようやく思い出したのか、零くんはぼんやりとした口振りで答える。人助けをした自覚のない零くんに、ルビィは肩を落とした。

「アンタねぇ。もうちょっと人助けしてる自覚を持ちなさいよ」

「そう言われても、あの時は無意識だったからなぁ。感謝されたくてしてる訳じゃないし」

「ははっ。お前らしい……俺からも礼を言わないとな。ありがとう。お陰でルビィが助かった」

 磯矢くんからもお礼を言われ、零くんは「んー」と面倒臭そうにぼやく。感謝されたいからしてる訳じゃなくて、したいからしただけの事。それを褒められて、くすぐったく感じているのだろう。

 うん。わたしは零くんのそういうところ、好きだなぁ。

 ……そういえば、部屋に入ってきた怪物はなんでルビィを狙ったんだろう。偶々近くに居た、訳じゃないと思う。ルビィよりも磯矢くんや零くんの方が怪物と近かった筈だし。

 何か理由があるのかな?

「おっと、階段が見えてきたぞ」

 考えようとしたけど、その前に最初の『目的地』が見えたと磯矢くんは伝えてきた。それを聞いたわたしは、自分の考えに没頭して左右の警戒を怠っていたと今更気付く。危うくみんなを危険に晒すところだったと、改めて気を引き締めた。

 辿り着いた階段は明かりが廊下より高い位置にあるお陰か、壊されていないライトによりとても明るく照らされていた。歩くのに支障はなく、磯矢くんの足取りは平らな廊下よりも少し速い。わたしとルビィも少し早歩きで磯矢くんの後を追う。

 階段途中で見えた二階廊下は三階廊下と同じような光景だったけど、同じく動いている怪物の姿はない。生きている人の姿も、同じく。

 問題なく一階まで下りる事が出来、わたし達は自然と息を吐く。ここまで生きた怪物の姿はなく、わたし達にも怪我はない。一階の廊下にも遺体があったけど、三階の廊下でほんのちょっとお陰で、そこまで精神的ショックはなかった。三階と同じく廊下は明かりが破壊されていて薄暗かったけど、遺体がハッキリと見えないのでむしろ助かるぐらい。

 玄関まであと一歩のところまで難なく辿り着けて、一層安堵の気持ちが込み上がる。

 その何十倍も、怪物が全然見られない現状に不安を覚えるのだけど。

「ここまで順調だと、何かありそうで不安になるな」

「ちょ、怖い事言わないでよ!? 何もないならその方が良いに決まってるじゃない!」

「その点についてはボクも千原さんに同意するね。でも、確かに奇妙な感じはする」

「たくさんプラスチックを食べて、満足して帰った、とかかな……?」

 周りを見回しながら、わたしは自分の考えを述べてみる。此処に来るまでの道中、たくさんの人が食い殺され、ナイロン製らしきカーテンは余さず引き千切られていた。あの怪物達にどこまで常識が通じるか分からないけど、普通の動物なら食事を終えれば寝床に帰るものだと思う。

 零くんも、わたしの考えを否定はしない。でもいまいち納得も出来ないのか、肯定的な反応もない。

 わたし自身、そこまで自信のある答えでもなかった。

「まさかあの化け物達、罠を仕掛けているんじゃないよな?」

「流石にその可能性は低いんじゃないかな? 攻撃的な人間を前にして、暢気にシーツを食べるぐらい本能一直線な生物みたいだし」

「そ、そうよ。零の言う通りよ。考え込むぐらいなら、さっさと逃げましょ」

 話し合う磯矢くんと零くんに、ルビィが震えた声で先に進むのを促す。何時怪物が出てくるか分からないホテルから、一刻も早く出たいのだろう。慌てるのは良くないけど、立ち止まっていても仕方ない。わたしもその意見には賛成だ。

「それもそうだ。先に進もう」

 零くんもルビィの意見に納得し、磯矢くんも頷いた。

 廊下を進んだわたし達は、食堂の前を横切る。そこからも物音はなくて、すっかり静かになっていた。磯矢くんが念のため食堂内を覗き込んだけど、中に怪物と『生きている人間』の姿はなかったらしい。食堂の前を、すっと通り過ぎる。

 怪物の姿はやはりなくて、順調にいくほど不安は大きくなる。だけどロビーが近付くと、その不安が少しずつ打ち消された。むしろ今すぐロビーから外に出たくて、疼く足を抑えるのでやっとな気持ち。

 早く逃げたい。

 早く帰りたい。

 その願いがいよいよ叶うと思った、その直後の事だった。

「待てッ」

 磯矢くんが潜めた声で、わたし達を止まらせた。

 ぞくりと、背筋が凍る。

 わたし達は今、ロビーへと繋がる、最後の曲がり角に居る。磯矢くんはそこから顔を少しだけ出して、廊下の先に見える筈のロビーをじっと観察していた。そして彼は一向にロビーへ向かおうとしない。

 零くんがわたしの肩を叩いて呼び、無言で後ろを指差す。後ろを監視していてほしいという意味だと受け取り、わたしはその通りにする。零くんは磯矢くんの下へと向かい、多分彼と同じく角からロビーの様子を窺ったのだろう。

「いやぁ、どうしたもんかなぁ……」

 しばらくして零くんの、引き攣った小声が聞こえた。

 何があったのだろうか。わたしはちらりと零くんの方を見ると、零くんはルビィを先に磯矢くんの下へと向かわせていた。ルビィは恐る恐る角へと向かい……ちょっとだけ覗いた瞬間跳ねるように、こちら側に戻ってきた。腰が抜けたのか、ルビィは這うようにわたしの下にやってくる。

 声を出さないようにするためか、ルビィは自分の口を片手で塞ぎながら、わたしの前で廊下の角の先を指差す。見てきてという意味だと受け取り、わたしは零くんに再び背後を任せ、磯矢くんのところへと向かう。それから恐る恐る、角から顔を出し……

 正直、悲鳴を上げなかった自分を褒めたい。或いは本能的に、声を出したら不味いと察した結果なのかも知れない。

 もしも悲鳴を上げたなら、多分わたし達は全滅していただろう。

 廊下の先にある、明かりが煌々と灯されたロビー。

 そのど真ん中に、体長五メートルはありそうな怪物が待機していたのだから……

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