迫りくる時限

 六千七百メートル。或いは六・七キロ。

 中々の『距離』だ。あまりに大きくて、具体的にどれだけ長いのかいまいちピンとこない。人間の歩く速さが時速五キロ程度らしいので、徒歩一時間ちょっとと言えば良いのかな。

 そう、キロメートルなんて単位を使うのは距離だ。或いは建造物とか、自然の地形とか、兎に角そういうスケールの代物に使うべき。

 まかり間違っても、生物に使われる値じゃない。

【繰り返します。の、超巨大プラスチック生命体が我が国に現れました】

 だけどテレビの女性アナウンサーは、否定するわたしに突き付けるかのように、またしても告げてきた。

 そしてその言葉に嘘偽りがないと、テレビ画面に映る動画も物語る。

 黄ばんだ半透明な……いや、ここまで大きくなると最早透明感なんてない。ただの黄ばんだ巨大物体にしか見えない身体は、まるでナメクジのような形をしていた。ただしその身体には幾つかの節があり、急旋回は無理でも、方向転換は左程難しくないのか、ぐねぐね軌道を描きながら前進している。

 前進と一言でいっても、六千メートル以上の巨体だ。ゆっくりに見えるスピードは、きっと人間の全力疾走なんて比較にならないほど速いのだろう。おまけにただ動くだけで、そいつは自分より小さなものを全部下敷きにしていく。

 そいつの歩く先は小さな一軒家が幾つもあったけど、お構いなしに全て踏み潰された……轢き潰すと言うべきかも知れない。ナメクジみたいな外見のそいつに足なんてないのだし。

 潰された家で火が使われていたのか、至る所で火事が起き、真夜中の景色に明かりが灯される。ヘリコプターから照らされるだけでは分からなかった地上の惨状も、これでハッキリと――――

「うっ……」

「キララ、無理して見なくても良い」

 テレビ画面の向こうで起きている事を想像し、吐き気を催してしまう。零くんが背中を擦ってくれて、促されるままわたしはテレビから目を逸らした。

 出来れば、このまま現実からも目を逸らしたい。あんな、人間を虫けらみたいに踏み潰していく化け物なんて……

 ううん、それは……勿論これだって問題だけど……まだ良い。わたし達にとっての大問題は別の事。

「こんなのが出てるんじゃ、警察が私達を助けてくれるのは何時になるのかしら……」

 ルビィが独りごちた、救助の遅れだ。

 人間を食い殺そうとする怪物が、ホテルの中を徘徊している。何時またドアを破り、侵入してくるか分からない。確かに倒せなくはなかったけど、それは二対一だから出来た事。四対何十みたいな状態に追い込まれたら、どうにもならないと思う。ホテルに侵入した怪物がどれどけ居るかなんて分からないけど、最低でも何十と入り込んだのはロビーで見たのだ。あり得ない展開とは言いきれない。

 わたし達は何時死んでもおかしくない身だ。だから救助隊が早く来てくれるのを望んでいる。

 だけどこの巨大怪獣の方が、どう考えて優先度は高い。怪物に襲われているホテルの旅行客なんて精々数百人だけど、あの怪獣が都市に入り込めば何十万という人の命が危険に晒さされる。おまけにわたし達が外国人なのに対し、都市の人々は国民。わたしがこの国の指導者なら、間違いなく怪獣退治と国民の避難に総力を結集させる。警察だって全て動員させるだろう。

 この国の人々の大半からすれば、それが当然の対応。だけどホテルで別の怪物に襲われているわたし達からすれば、極めて身勝手な物言いではあるけど、最悪の展開だ。

「救助隊が来るのは相当先になるだろうね。まぁ、あの怪獣がこの近くに現れたものなら、退治した後に助けに来てくれるかもだけど」

「……退治、出来るのか?」

「流石に出来ると思うよ? いくら非常識な化け物とはいえ、まさか怪獣映画みたく火とかビームは吐かないだろうし。それにプラスチックはよく燃えるから、軍事攻撃で簡単に火が付いて、そのまま燃え尽きると思うよ」

「そうか……勝てるというのは、気が楽になる話だな」

「うん。とはいえあの巨体だと、燃え尽きるには相当時間が掛かるだろうけどね。一日二日じゃ足りなくて、何日も掛かるんじゃないかなぁ。というかあれだけの質量のプラスチック、一体何処で――――」

 磯矢くんと怪獣について話し合っていた零くんは、不意に言葉を途切れさせた。ちょっと気になったので横目で見れば、零くんは目を大きく見開き、わなわなと全身を震わせている。

 それから急に立ち上がると、部屋の窓目掛け駆け出した。驚いた拍子にわたしが身体を縮こまらせていなければ、通り過ぎる零くんはわたしとぶつかって、二人揃って転んでいたかも知れない。

 普段の彼ならそこで「ごめん」の一言ぐらいあるのだけれども、今日の零くんは何も言わない。全速力で向かった窓に辿り着くと、その窓を力いっぱい開き、身体を乗り出して外の景色を見る。

「……クソっ!」

 そして外に向けて、悪態を吐いた。

 普段ならどんな時でも冷静な零くんの悪態に、わたしは思わず身震いする。何か、とんでもないものを彼は見付けたのだ。

「れ、零くん……どう、したの……?」

「……説明するより、見た方が早い」

 わたしが尋ねると、零くんはそれだけ言って窓の傍から退く。これも何時もの零くんらしくない。人に説明するのが大好きな彼が、何も語らないなんておかしい事だ。

 わたしは立ち上がり、窓の傍まで行って零くんが今まで見ていた景色を眺める。ホテルの周りは発展しているので明るいけれど、少し離れた場所には光が見付からない。唯一の例外は地平線彼方の、ぼやっとした赤い輝きぐらい

 それを理解した瞬間、わたしは血の気が引き、腰が抜けた。

 わたしがへたり込んだのを見て、ルビィがやってくる。何か声を掛けてくるけど、わたしの耳には何も聞こえず、窓を指差す事しか出来ない。

 ルビィは外の景色を見て、悲鳴と共に磯矢くんの下に駆け寄る。磯矢くんも、一旦ベッドに寄り掛かる姿勢を止めて窓へと向かい、そして後退りした。

 見てしまった。見えてしまった。

 

 ちゃんと、ハッキリと見えた訳じゃない。だけど地平線からでも見えるという事は、きっと高さ何百メートルも有るのだろう。そんな『化け物』、この世に一つしかない。一つであってほしい。

 テレビに映されている、体長六千七百メートルの超巨大プラスチック生命体。

 それが、わたし達のホテル目指して進んでいるのだ。

「な、な、なん、なん、で……!?」

「そのなんでは、何故奴がこっちに向かっているのかという意味かい? それはボクにも分からない。でも、何故此処に現れたのかは想像が付く」

「はぁっ!? どういう意味だよ!?」

「あのゴミ処理施設だ。大量のプラスチックゴミが投棄されているあの場所なら、いや、あの場所でなければ餌が足りない。アイツはゴミの埋め立て地の傍にある海か、或いは地下で生きていたんだろう。しかしこれだけの巨体となると、正体が単一の動物とは考え難いね。単細胞の集まりか、それとも幾つかの個体が寄り集まったのか……現実逃避の題材としては打ってつけのテーマだね全く」

 磯矢くんの疑問に、零くんは早口で答える。思い返すとあのゴミ処理施設は、あらゆる種類のゴミがそのまま捨てられていたけど……ペットボトルのようなプラスチックゴミの姿はなかった。

 きっと、アイツが全部食べていたんだ。

「……すまない。ボクが此処を旅行先にしようなんて言ったばかりに」

 絶望感に見舞われるわたし達の前で、零くんがぽつりと謝罪する。

 わたし達は、すぐには何も言えなかった。

 確かに、この国への旅行は零くんの提案から始まった。このホテルを選んだのも零くん。そういう意味では、零くんが言い出さなければわたし達はこの惨事に巻き込まれなかっただろう。わたし達の誰一人として、アフリカ旅行なんて考えてなかったのだから。

 零くんは、そんな自分を許せないに違いない。罵り、叱ってほしいのかも知れない。

 だけど。

「おう、謝る暇があるならもっと現実的な事を言えよ。何時ものように」

「そうよ! そんなどーでも良い事言ってる暇あるなら、どうするのか考えないと!」

 わたし達に、そんな『くだらない』事に時間を割く暇はないのだ。

 大体誰も零くんが悪いだなんて思っていない。こんな目に遭うなんて誰も予想すらしていなかったのに、どうして彼を責めるというのか。それに零くんに罵詈雑言を浴びせたところで、状況は何も変わらない。

 わたし達は合理的なのである。零くんという小難しい人との付き合いが、そこそこ長い所為で。

「零くん、今はナイーブになってる場合じゃないと思うよ? 本当に申し訳ないと思うなら、項垂れる前に真面目に考えてよ」

「……何気にキララの言葉が一番キツくない?」

「そりゃ、将来の伴侶ですし。夫婦が何時までも仲良しでいる方法は、あまり溜め込まない事ってお母さん言ってたもん」

「ああ、お義母さんが言ってるなら間違いないね……すまない、ちょっと混乱していたようだ。うん、もう大丈夫」

 零くんは何時もよりちょっと強張った、だけど冷静な笑みを浮かべてくれた。そうだ、わたしの大好きな零くんは、こうでないといけない。

 零くんが弱音を吐いてくれたお陰か、わたし達も少し冷静になれた。落ち着いて、これからについて話し合う。

「良し、まず話し合うにあたり、定義を決めよう。ホテル内を徘徊している人間サイズの存在を怪物、テレビで放送している超巨大生物を怪獣とする。異論はあるかい?」

「なし。むしろその方が分かりやすい」

「わたしも、ないよ」

「私もない」

「分かった。それじゃあ、これから何をすべきか、選択肢を出そう。ボクは二つしかないと思う。籠城するか、ホテルから脱出するかだ。ちなみにボクは脱出派。怪獣の正確な進路は不明だけど、なんとなーくこっちに来ているように見える。脱出しなければホテルごと踏み潰されるだろうけど、怪獣到達前に救助が来る可能性は皆無だと思う。みんなの意見はどうかな?」

「そんなの、脱出しかないでしょ。籠城していて、やっぱり危ないから逃げようってなっても、多分あの怪獣からは逃げきれないわ。大きいとそれだけスピードもあるからね」

「うん……わたしも、逃げた方が良いと思う。あの怪獣に銃が通じるとは思えないから、多分軍隊が出てくる筈。もしかしたらミサイルとかの、流れ弾が飛んでくるかも知れない。此処に居ても危ないと思う」

「今時の軍隊なら、戦車砲でも目標への命中率はほぼ百パーセントらしいぞ。あの巨体なら流れ弾の心配はいらんだろう。とはいえ怪獣がホテルの至近距離まで来たら、流石に巻き添えを喰らう。俺も逃げる事には賛成だ」

 零くんの意見に、わたし達三人が賛同する。あの怪獣を前にしたら、ホテルに籠城なんて『暢気』な真似をする余裕は吹き飛んでしまった。

 じゃあ早速荷物を持ってすたこらさっさ、という訳にはいかないけど。

 何故なら、ホテルにはたくさんの怪物が徘徊している筈なのだから。

「じゃあ、逃げるって事で良いわね。ところでもし逃げている途中で怪物と出会ったらどうする? 倒すの?」

「いや、それは駄目だ。確かにこの部屋に来た奴は俺と零の二人で倒せたが、暢気にシーツを食べ始めたから勝てたようなもんだ。真っ向勝負じゃどうなるか分からんし、アイツよりも強い怪物だったら手に負えん。それに時間だって掛かる。もしも戦ってる時に仲間を呼ばれたら、どうにもならないぞ」

「じゃあ、鉢合わせたら走って逃げる?」

「シンプルだけどそれが一番だね。それと出来るだけ身の回りからプラスチックを外しておこう。多少は関心が薄れる筈だから」

「……スマホとか財布の中のカード、あとパスポートは?」

「それは流石に持っていこうか。カード類は、もしかしたら囮に使えるかも知れないし。あと脱出が最優先だけど、脱出後も考えないといけないからね。本気で身の回りのプラスチックを全部外すなら、ナイロン製であろうボク達の服と下着も脱がなきゃ駄目だよ」

「裸で外に出るとか、ぞっとするわね……変な奴に襲われる危険もあるけど、怪我とかも危ないし」

「それだけやっても、毎週免許証一枚分のプラスチックを体内に取り込んでいるから完全な無関心にはならない、と」

「何事も限度が大事って訳だな。そうだ、もしも外で逃げている人と出会ったらどうする? 俺としては一緒に脱出したいが」

「……難しいところだね。一人だけなら合流で良いと思うけど、集団だと意見調整しないといけないから避けた方が良いかも」

 細かい方針を話し合いながら、わたし達は必要なものを決めていく。人がいたら助けるかどうかも含めて全員の確認を取り、不測の事態で混乱が起きないよう確認していく。

 勿論わたし達はただの学生であり、これから起きる事の全てを知るなんて出来ない。どれだけ想像力を膨らませても想定外は起こるだろうし、予め予想していた事だって、いざ目の当たりにすれば怯んで動けなくなるかも知れない。或いは混乱から、打ち合わせと全然違う行動を取ってしまう事もあり得る。

 これから何が起きるかなんて分からない。分からないけど、このまま此処に居ると危ないのだから、動くしかない。

 話を終え、最低限の荷物を持ったわたし達はドアの前のベッドを退かす。遮るものがなくなったドアの前で互いの顔を見合い、背負ったリュックの肩紐を握り締めながらこくりと頷き合う。

「よし、いくぞ」

 そして先頭に立った磯矢くんの掛け声と共に、わたし達は部屋の外へ足を踏み出すのだった。

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