恐怖の襲撃
悲鳴が聞こえた時、実のところわたしは殆ど驚きを覚えなかった。
日本で普通に暮らしていて、悲鳴を聞く機会なんてまずない。ゴキブリを見たルビィが叫んだとかはあるけど、あんな可愛らしいものを本物の悲鳴と比べちゃ駄目だろう。本当の、命の危機に直面した時の悲鳴なんて、映画だとかアニメだとかで聞くのが精々。少なくともわたしにとって悲鳴とはフィクションの中の出来事に過ぎず、何処からともなく聞こえたからといって、すぐに身構えてしまうものではなかった。
むしろ悲鳴のしばらく後、ロビーの入口から雪崩れ込むように入ってきた大勢の人の姿の方が、わたしの心臓を飛び跳ねさせる。
入口からやってきたのは、何十もの人達。男の人も女の人も居たけど、全員水着姿だった。恐らく夜間プールを楽しんでいた人達なのだろう。危険な、例えばテロリストのような集団ではないのだけれども、一斉に大人数が押し寄せてくれば恐怖を感じる。しかもその顔は鬼気迫るものばかり。ロビーにはわたし達以外の人もたくさん居たけど、その人達も身体が跳ねるぐらい驚いていたので、わたしだけがとびきり臆病という訳ではあるまい。
「きゃあっ!? えっ、な、何……?」
「キララ、しっかり捕まってて」
困惑するわたしに、零くんがそう言ってきてくれた。訳が分からず、言われるがまま零くんに抱き付く。零くんはわたしの肩に腕を回し、抱き寄せてくれた。
零くんは決して逞しい身体付きをしている訳じゃない。だけどわたしと比べれば『男の子』らしさが感じられて、ほんの少しだけど安心感を得られた。恐怖はその分薄れ、やってきた人達をちゃんと見るだけの余裕が出来る。
入口から押し寄せてきた人達は、半分ぐらいはそのままホテルの奥……宿泊部屋がある方に走っていった。残りの半分はロビーに駆け寄り、受付の人達に何かを訴えている。わたしは一応英語が分かるけど、彼等はそれぞれの母国語で話しているのか、殆ど理解出来ない。辛うじて聞こえた英語も早口な上に文法が滅茶苦茶で、他の言語と混ざってしまえばもう何が何やら。
ただ、だからこそ全員の様子がただ事でないのは理解出来る。
それに何人かの人は、肩や頭から血を流していた。傷の程度はそれぞれだけど、酷い人はかなり……わたしには直視出来ないぐらい深い。ある男の人なんて、肩から二の腕の辺りまで続く傷があり、その、ちょっと中身が、見えた。医療にはそこまで詳しくないけど、早く病院で治療しないと大変な事になりそうだと感じた。
「あ、あの人達、酷い怪我してる……きゅ、救急車、呼んだ方が良いのかな……?」
「いや、ここはホテル側に任せよう。ボク達は英語を話せるとはいえ、怪我の様子は正確に、それこそ母国語の人が伝えた方が間違いがない。混乱して間違えましたじゃ済まないからね。あと、あちこちから通報したら病院側も混乱するだろうし、ホテル側としても状況を把握したい筈だ」
わたしが殆ど無意識に尋ねると、零くんはしっかりとした言葉で自分の考えを伝えてくれた。ちゃんとした理由のある言葉は頼もしくて、わたしはまた少し気持ちを落ち着かせる事が出来る。
「それより、気になる点が一つ。あの怪我は、一体何に付けられたんだ?」
ただ、零くんのこの言葉で心臓がドキリと跳ねたのだけど。
……わたしだって、疑問に思わなかった訳じゃない。
怪我をしている人達の姿を見れば、どれも切り傷だと分かる。さっき直視出来なかったぐらい大きな傷を負っていた人を、勇気を出して見てみれば、その傷が何かで切り裂いたようなものだと分かった。
猫に引っ掻かれた程度の切り傷なら、例えば金網や割れたガラスに引っ掛けたとかで説明出来ると思う。でもあんな、大きな切り傷なんておかしい。
なんだろう。切り裂き魔でも現れた? それなら警察も呼ばないと、あ、でももうホテルの人が呼んでいるかな――――
勝手な想像ではあったけど、わたしは『犯人像』を作り上げた。切り裂き魔なんて怖いと思いつつ、正体が分かると妙に冷静な気持ちになったのも事実で。
だから。
ロビーの入口から堂々と入ってきた『そいつ』を見た瞬間、わたしは頭が真っ白になった。
「……零くん……あれ……」
「ん? なん、だ、ぃ……」
恐る恐るわたしは『そいつ』を指差しながら、零くんに尋ねる。零くんはわたしの指先を追い、そして声を詰まらせた。
どうやら、混乱のあまりわたしだけが見ている幻覚という訳ではないらしい。
ロビーの入口から入ってきたそいつ……正体不明の『怪人』は。
わたしの目がおかしくなった訳じゃないのなら、そいつはハッキリとした形と質量のある物体だった。怪人と言ったけど、それは二本足で立っていて、二本の腕がぶらぶらと垂れ下がり、垂直に伸びた胴体のてっぺんに頭のようなものがあるからというだけの話。
人間の皮膚は飴細工のような黄ばんだ半透明な色合いはしていない。その奥にある、黒ずんだ小さなものが透けて見える訳がない。皮膚表面はロビーの照明を浴びて艶々と輝かないし、手足の関節部分に子供用玩具みたいな切れ目はない。
そして口も目も耳も鼻もない、凸凹したボールみたいな頭はどう見ても人間のそれじゃない。
見た瞬間にぞわぞわとした悪寒が全身を走る。心が掻き乱されるような感覚に陥り、身体中から汗が噴き出した。口の中が乾き、べたべたとした涎で口が開かなくなってしまう。
それでもそいつがただ佇むだけなら、もうあらゆる疑問を無視して「ああ、ただの趣味が悪い彫刻か」とでも思えたのに――――そいつは意思を持つかのように、歩き出した。
アレがなんなのか知りたい。だけどわたしが抱き付いている零くんは何も答えず、無言でわたしを強く抱き返すだけ。先程まで頼もしさを感じられた抱擁が、途端に不安を掻き立てる。
「『へへ、なんだよこれは。さてはドッキリだな?』」
そうして動けなくなったわたし達の前で、一人の黒人男性が歩き出した。
彼は、多分海外の旅行者なのだろう。綺麗な身形をした男性で、スポーツ選手か、或いはボクサーではないかと思うほど屈強な肉体を持っている。ロビーの受付に集まっていた人達が男の言葉に反応して振り返ると、パニックになったように叫びながら走り出し、ホテルの奥に行ってしまう。
屈強な男性は人々の反応を鼻で笑うと、躊躇う素振りもなく怪人の前に立つ。左右に身体を揺らし、パンチの真似事をするなど、完全におちょくっていた。
怪人はそんな男性に対し、ゆっくりと右腕を上げ……振り下ろす。
直後に、スパッ、という音が聞こえた、気がした。
そして男性の腕からはどばどばと、真っ赤なものが溢れ出る。
「『……は?』」
男性は自分の腕を触り、その赤いものが本当に自らの腕から出ているのだと確認していた。そんな男の人の両腕を、怪人もまた自身の両腕で掴む。
次いで口も目も鼻もない頭が、ぱっくりと左右に裂けた。裂けた頭の中は、どろどろに溶けた肉のような黒い何かで満ちている。
そしてそいつは男の人の顔面に、その黒い何かを伸ばした――――
「見るな!」
瞬間、零くんがわたしの顔を手で掴み、自分の胸元に抱き寄せた。
何時もなら顔が赤くなるぐらい恥ずかしくて、だけどきっと嬉しくなっちゃう行為。でも今は違う。
「ブ、ブゴオォ!? ゴッ!? ゴォオオアォッ!? ボギオオォオ!」
直後に恐ろしい呻き声と、ぞりぞりと柔らかなものを削るような音が聞こえてきたのだから。
背筋が凍った。わたしだって子供じゃない。あの二つの音を聞けば何が起きているのか、想像出来る。
食べているんだ。あの怪人は、さっきの黒人の人を。
「キャアアアアアアアアアアッ!?」
女の人が叫んだ
直後ロビーの入口の方角から、窓ガラスを破る音が聞こえてきた。わたしは零くんの胸に埋めていた顔を反射的に上げ、その音が聞こえた方へと振り返る。
わたし達から五メートルほど離れた位置には、男の人にのし掛かるあの怪人が居た。
そしてその怪人の後ろ数メートル先……ロビーの入口があった場所から、怪人という形すらしていない、だけど目の前の怪人と同じ質感の存在が何体、何十体もホテル内に侵入してきている! 怪人達は裸足で、恐らく自分達で叩き割ったであろう床に散らばるガラス片を踏み付けるも、怯んだ様子もなく突き進んできていた。
「ひっ……!? れ、零く」
「キララこっちだ!」
思わず助けを求めるわたしだったけれども、零くんはそれよりも早くわたしの手を引き、ロビーから逃げ出す。
わたし達が逃げると、怪人……ううん、怪物達は追うかのように走り出す。怪物の殆どは一般的な動物のような、つまり普通の生物の姿をしていない。人を襲った怪人みたいなのはまだ『ちゃんとしている』方で、三本の足の先が捻じ曲がって地面から浮いている奴とか、丸い身体で転がる奴とか……変な形が大多数。身体が光沢のある黄ばんだ半透明な物質で出来ている事以外、共通点が見付からない。
当然動きの速さもバラバラ。遅い奴等は未だ入口付近でジタバタしているだけ。でも速い奴はそれこそ人間が小走りするぐらいのスピードで、わたし達を追って……
いや、追ってない。
怪物達は、何故か一斉に二手に分かれた。一方はスタッフルームがある左側通路、もう一方はレクリエーションルームがある右側通路。わたし達が逃げ込んだ、客室へと通じる通路にはやってこない。
何故わたし達を追ってこない?
まさかアイツら、職員の人達を先に襲って、避難の指示とかを出させないようにするつもり? だとしたらアイツらには知能があって……
「キララ!」
考え込みそうになったところ、零くんに名前を呼ばれた。
一旦考えを脇に押しやり、零くんの方を見る。わたしの手を引っ張る零くんはもう息が切れていて、だけど意地でもわたしを引っ張ろうとしているのかぎゅっと力強く手を握り締めてくる。
わたしはその手に答えるように、強く握り返した。
「う、うん。なぁに?」
「兎に角あの怪物から逃げよう! 部屋に戻って、山本くん達にこの事を伝える! その際パスポートとかの最低限の荷物を回収! 一階の非常口から逃げる! これで良いかい!?」
「う、うん。わ、分かった」
零くんの案に、反対意見なんて思い付かなかったわたしはこくんと頷く。
食堂の横を通り過ぎ、わたし達は階段を使って三階へと向かう。エレベーターは使わない。何時来るか分からないし、変なところで止まったら『詰み』だからと零くんが判断した。
三階分の階段を一気に駆け上がるのは疲れたけど、わたしを引っ張ってくれた零くんの前で弱音は吐けない。
わたしは零くんと手を離し、走りながらズボンのポケットを弄って部屋の鍵を取り出す。途中で落とした、なんてミスをしないで良かった。もししていたら、外から開けるよう呼び掛けなきゃいけないところだった。
鍵を開けたら、扉を蹴破るようにして開く。
中ではルビィと磯矢くんが未だ向き合っていた。ロビーでの騒ぎなんて此処まで届かないだろうから仕方ないと思うけど、まだ自分達の世界に浸っているのかとちょっと苛立つ。
わたしはすぐさま部屋の奥へと向かう。こういう時、外国の部屋は靴を脱がなくて良いから助かる。脱ぐような時間すら惜しいのだから。
「ルビィ! ほらルビィ!」
ルビィの傍まで近寄ったら、がっしりと肩を掴んで激しく揺さぶる。
乙女モードだったルビィもこれで我に返る。目の前で彼女の肩をぐらぐらと揺さぶられた、磯矢くんも同じだ。
「え、あ、き、キララ? えっと、何……」
「説明は後でするから。今は貴重品だけ持って、すぐに来て! 磯矢くんも!」
「え? あ、えと、俺、部屋の鍵」
「零くんが今開けてる筈だから! 早く!」
「いや、もう回収した!」
わたしがルビィと磯矢くんを説得していたところ、部屋の外から声が聞こえた。
零くんだ。その手には零くんのリュックと、磯矢くんのリュックが握られている。零くんはもう脱出の準備を終えたようだ。
説明の殆どを省いてしまったけど、わたし達の慌てぶりから危機感は感じ取ったのだろう。最初はキョトンとしていたルビィ達も、表情を引き締める。すぐにルビィは自分の荷物、それとわたしの荷物も取ってくれて
「あ、ごめん。逃げるのなし――――籠城にする」
零くんが、不意に先程の打ち合わせを変更した。
何故、と問い掛ける間もなく零くんは部屋の中に入ってくる。扉を閉めてすぐに鍵の摘まみを回した
瞬間、どかんっ、と強く何かがぶつかる音が聞こえた。
いきなりの物音にルビィは跳ね、磯矢くんは目を丸くする。零くんは後退りするようにドアから離れ、わたし達の下までやってきた。事情を訊きたそうに、ルビィ達がわたしや零くんを見ている。
確かに、そろそろ説明した方が良さそうだとわたしも思う。
零くんが閉め、鍵も掛けた扉。
だけどその扉はメキメキと音を鳴らし、今にも破られそうな状態なのだから……
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