032.お燐の裏切り

 九頭大尾竜の住まう荒野は鬼灯の森と隣り合う。アーネルとトロイメアの二国を足しても一辺に足りないほど広い鬼灯の森と比べれば小さいが九頭大尾竜の毒に侵食されて拡大した荒野も小国一つほどの広さがあった。飛んでいくにしても二時間かかる。荒野自体は端から端まで飛べば一時間ぐらいかかる。


 森と荒野の境目付近。大昔地震で隆起してできた浅い断層崖だんそうがい。高低差のある場所をわざと選んで崖上の森の中にお燐は降りたった。

「着いた?」

「まださね。九頭大尾竜のいる荒野手前さね」

 背中で起き上がるシニエに左前足で指し示す。

「ほら。見るさね」

 示された先には荒れた大地。生きた草木の生えない荒野が広がる。ただその広さはとある所を境に霞がかかり、ところどころをゆらりとたなびく黒紫の線が隠して、遠くまでうかがい知ることはできなかった。

「ここの荒野はね。年がら年中九頭大尾竜の毒に覆われているのさね。空から見ても下がどうなっているのかわからない。こんなふうに視界の開けていない場所ではね。障害物にぶつかる危険があるから迂闊に飛ぶのは危険なのさね」

 降り立つ場所が視認し辛いのは不安要素が大きい。目は前に二つだけ。もとから全周が見える目なんて持ち合わせちゃいないが。普通に空を飛んでいるだけでもちょっとした余所見で岩山にぶつかりそうになったこともある。見え辛い毒の霞の中を飛ぶよりは地に足着けたほうがいい。余裕のなくなる戦闘時なんて尚更だ。

「だからここから先は地上を行くのさね」

 お燐の背から落ちないようにシニエの腰に巻かれた火の紐が解けた。意図を察したシニエは言われる前に自分からお燐の背を滑り降りる。お燐の頭隣りに寄り添い立った。横目で見るとお月様の目に淡い紫色の煙が灯っていた。お燐の視線の先をシニエも追う。

 左目の霊眼越しに霞の中に大きな紫色の影が見えた。

「シニエにも見えたさね」

「でっかい紫」

「思ったよりも近くに居たね。あれが九頭大尾竜さね。あいつは曲がりなりにも神々の子で神龍さね。神気を纏っているから憑きものと同じように見えるのさね」

 九頭大尾竜は定期的に食料を求めて荒野の外――鬼灯の森やトロイメア王国へと来る。だから荒野の端を住処にしているとは聞いていたが本当だったようだ。荒野が徐々に広がるのもその弊害で実は九頭大尾竜本人に荒野を広げる気はないというのだから困った話だ。でもそのおかげで本当は見つかるまで荒野の外周をグルッと回るつもりでいたのが必要なくなった上、ここら一帯魔物が狩られていてシニエを置いていきやすく、駆けつけられる範囲で帰りの回収もしやすいと都合がよかった。


「ちなみに魔物も魔が憑いているから霊眼で捉えられるさね。森の中を覗いてみるさね。鬼灯の森には魔物が居るからね。意外とすぐ近くにいるかもしれないさね」

 シニエが後ろを振り向く。鬼灯の森の奥は黒しかない。背の高い木に覆われて光が地面まで届かないせいで真っ暗だ。そして奥からはジメジメした湿った空気が草木の青臭さを乗せて漂ってくる。そんな真っ暗闇に紫の光を探したが見当たらない。

「みえない」

「そうかい?」

 どれどれとお燐のも首を回して頭だけ振り返る。

「あそこ光ってないさね?」

「どこ?」

 キョロキョロと見回すがやはりシニエには見えない。

「奥のほうさね」

 お燐に見えてなぜ自分には見えない。九頭大尾竜は見えた。なら自分にも見えるはずだ。ちょっとムキになって体が自然と前に出る。

「そうさね。シニエには見えないのさね」

 残念そうなお燐の声にシニエの体は無意識に前へ前へと進んでいく。

 もういいか。お燐はシニエを置いて走り出した。荷車の車輪につけた火の輪を回し。四肢で大地を力いっぱい蹴って。

 シニエが気づいたときにはもう遅かった。

 お燐は崖のはるか先。シニエの追いかけられない宙にいた。

「お燐!」

 自分はここだ。待って。置いていかないで。どこへいく。いろんな思いがない交ぜでこんがらがる。ただはっきりとしている伝えたい相手の名前だけが口からでた。

「お燐!」

 お燐の歩みがぴたりと止まった。

「すぐに終わらせてくるさね。だからあんたはそこで待ってな!」

「断る!」

 シニエはその言葉を切り捨てた。シニエはここぞというときに引かない頑固者だ。こうなったら引かないだろう。足を直す前でよかった。反った右足はオオビトの補助具が付いたとはいえ満足に走ることはできない。さらに小さな崖の上に置いていかれた意図に気づいたときには手遅れでそうそう追いかけては来られまい。

宙に伸ばした手はお燐に届かない。

 これ以上は見てられない。お燐は思いを振り切るようにフイと前方を向く。再び走り出した。

 どんどん姿が小さくなるお燐。その背を見ていることしかできなかった。

 もはや後は置いていかれた事実にシニエは茫然自失となるしかなかった。

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