ポール・シナー

 エドゥアール・ダルベル警部がアンゲルマン男爵邸へと到着すると、すでに建物の前ではウベール・シュド予審判事が待っていた。

 「ダルベル警部? お呼び出てして誠に申し訳ありません。予審判事のウベール・シュドです」

 壮年のシュド予審判事から握手を求められ、初老のダルベル警部は面倒臭そうに頷くだけでそれを拒否した。

 「すでに終わった事件だと聞いていましたがね」

 建物を見上げながら警部が眩しそうに眼を細める。

 「ええ、あなたの前任者であるベシュ巡査部長以外は皆そう思っていますよ。ですから、わざわざあなたにお越しいただいた訳で、自殺だと結論付けて下されば二度とお手を煩わす事もありません」

 予審判事は先に立って歩き出すと、勝手知ったる我が家の様に玄関の扉を開けた。

 「夫人はどちらへ?」

 警部の質問を受けて、呆れた様にシュドが首を振った。

 「やれやれ、巡査部長は何一つ引き継いでいないようですね。夫人は失意の余り、郊外にある親戚の家で療養しております。全く! ベシュという男はルパンを追う以外に何一つ役に立ちませんな! 噂では女房をルパンに寝取られたとか。ルパンの奴め! どうせなら、うちのかみさんを連れて行ってくれれば良いのに!」

 「あなたの奥様が魅力的な女性であれば可能性はゼロではないでしょうね」

 予審判事の軽口を封じようとダルベルが厳しい口調で言い捨てる。

 「うちのかみさんの良い所ねぇ──浮気する相手がいるはずもないって処ですかね」

 事件現場である書斎へ向かいながらもシュドの喋りは止まらなかった。

 「そう言えば警部はパリへ来てまだ日が浅いというお話でしたね。失礼ながら、そのお年で都会へ転属されるなんて大変でしょう?」

 「やることは何処の町にいても同じです。犯罪を暴き、悪人を捕まえる。これが警察の仕事ですから」

 「御立派です! 警察官の鑑だ! 今後も私の担当事件には是非御一緒願いたいですね」

 予審判事が持ち上げるも、警部は無反応を貫いていた。


 書斎に入ると遺体こそ無かったものの絨毯には乾いたどす黒い血が染み付き、入り口の扉から部屋の奥へと置かれている肘掛け椅子まで続く惨劇の残滓を窺わせた。

 「当時、部屋の扉は施錠されており、全ての窓は内鍵が掛けられておりました」

 「施錠されていたのにベシュ巡査部長はルパン犯人説を唱えていたのですか?」

 警部が呆れた様に問いかけた。

 「ええ、全くもって信じがたい刑事です。ルパンなら不可能を可能にするとか、人殺しをしないという建て前を守る為に自殺に見せかけただの、全ての仮説はルパンが犯人だという思い込みから始まっているのです」

 「それは相当な問題人物ですね。それで第一発見者は男爵夫人という事で宜しいでしょうか?」

 「いいえ、順を追ってお話ししましょう。施錠された部屋を最初に訪れたのは男爵夫人です。ところが呼び掛けても男爵の反応が無い為、夫人は執事を呼びました。執事は鍵穴から室内を覗いて、床に倒れ伏している男爵を発見しました。執事は合鍵を取りに行き、夫人は男爵と親交のあった私を呼び出したのです」

 「あなたを? 男爵夫人が呼んだと?」

 ダルベル警部が驚きながら予審判事を見た。

 「勿論、あなたがおっしゃりたい事くらい解かっています。何故事件の関係者が捜査に携わっているのか、でしょう? これに関しては聴くも涙、語るも涙の裏話が有りましてね。最初に調査に当たったのはベルモン予審判事だったのですよ。ベルモンは捜査の結果、男爵は自殺であったと結論付けたのですが、担当刑事であるベシュと来たら終始「ルパンが」やら「ルパンなら」とか言い張って同意しようとしませんでして。「ならば勝手にやってくれ」という訳でベルモンは捜査から降りてしまったのです。まあ公的には業務を投げ出したと表明出来ない為、そこに居合わせた私へと後を引き継いだという訳です」

 「なるほど。代理の予審判事と代理の刑事で事件の幕引きを図ろうというわけですな。さぞかし仏さんも浮かばれる事でしょうよ」

 皮肉をたっぷり込めながら警部が讃えた。

 「御安心下さい。私は事件の発覚から捜査状況まで全てをつぶさに把握しておりますから。さて、状況説明を続けても宜しいでしょうか?」

 警部は身振りで同意を示し、続きを促した。

 「駆け付けた私が書斎へと着くと、男爵夫人と執事は扉を開けずに部屋の前で待っていました。床へと広がる血溜りと身動きしない主人の姿を見て、執事はすでに亡くなっていると判断したそうです。男爵夫人は呆然となって床へと座り込み、私の到着にも気づいていない様子でした。私と執事は男爵夫人をそのままにして部屋の鍵を開けると書斎へと入りました。扉からすぐの処にうつ伏せで横たわっていた男爵はすでに事切れており、彼の残した血痕を目で辿ってみると、部屋の奥の肘掛け椅子へと続いていました。執事と私はそこで椅子の背もたれに残る弾痕を発見したのです。つまり我々の見立てはこうです。男爵は部屋の鍵を掛けて肘掛け椅子へと腰を下ろすと、拳銃で自分の心臓を撃ち抜こうと試みました。しかし即死には至らず、部屋の外から呼び掛ける夫人に最後に一目会おうと思い、立ち上がって扉へと向かう途中で力尽きて亡くなられたのでしょう」

 無念そうな表情を浮かべながら結論を述べる予審判事。

 警部は憮然とした態度を崩さずに返答した。

 「そりゃあ、ベルモン予審判事も投げ出す訳だ」

 「事実は明白ですからね」

 同意を得たとばかりにシュドが頷く。

 「確かに明白です。私だってこんな結論在りきの現場に居たくはないですからね」

 「どういう意味です?」

 ダルベル警部から否定的な反応を感じ取ったシュドが問い返す。

 「男爵夫人からはあらためて話を訊くとして──執事は今どうしていますか?」

 「どうもこうも有りませんよ。暇を出されて外国へ旅行に行ってしまいました」

 「まあ、そうでしょうね。忠臣であるのならば一刻も早く逃がすでしょうし、報酬目当ての共犯者だったならばすでに始末されているでしょうから」

 「何なんですか! 聞き捨てなりませんね! 男爵夫人を疑っているのですか?」

 それまで朗らかに接していた予審判事が、突然警部に対して激高した。

 「いいね、その感じ。そろそろお互い腹を割って話したいと思っていたのですよ」

 シュドの反応を見て警部が不敵な笑みを浮かべる。

 「あんた──何者だ?」

 突如態度が豹変した警部に対して、怯えながら予審判事が問いかけた。

 「田舎から出て来た老刑事、エドゥアール・ダルベル警部ですよ。お忘れですか?」

 「あんた、もしかして──」

 予審判事がゴクリと唾を呑んだ。

 「さあ、事件の検証を続けましょう──ああ、すでに一通りお話は終わったのでしたか。では少し現場を見させていただきましょうかな」

 警部は室内を歩き回って、残されている物証へと目を凝らした。そしておもむろに扉を指差す。

 「当然、扉の鍵は室内に有ったのでしょうね?」

 「当たり前でしょう! 書斎の鍵は普段は男爵しか所持していません。後は執事が管理している予備の鍵だけです。施錠された部屋の奥側に置かれた机の上に鍵は載せられていました。だからこそ、自殺という結論が簡単に導き出されたのです」

 「なるほど。と言う事は、男爵夫人と執事による共犯という線は早くに却下されたと言う訳ですね」

 ダルベル警部の指摘を受けて、予審判事はわざとらしく溜息を吐いた。

 「ベシュ巡査部長にも同じ事を言いましたが、自殺に見せかけたいのならばわざわざ死体を移動させますか? あなたにはまだお話ししていませんでしたが、男爵は拳銃を握り締めていたのです。仮に殺人が行われたとした場合、男爵に歩けるだけの余力があったのだとしたら、私ならば立ち上がって歩き出すよりも先に、立ち去って行く犯人を背中から撃ちますね」

 「すると銃弾はまだ残っていて、壁には撃ち損じた様な弾痕は残されていなかったという事ですか」

 「我々を無能扱いするのはやめて下さい。あらゆる可能性を考慮した結論が男爵の自殺、という事なのですから」

 憤慨するシュドをダルベルが諌めた。

 「無能だなんて思っていませんよ! ただし──詰めは甘い」

 「詰めが甘い、ですって?」

 「状況が不自然だと感じるのには必ず理由があるのです。それを結論在りきの論理で固めようとするから違和感が生じるのですよ。だが誰一人その違和感を指摘しようとしない。これこそが最大の不自然です。参考までに予審判事、ルパンがアンゲルマン銀行に預けていた金塊には符号が刻まれているのを知っていましたか? もしその金塊を換金しようとすると、ルパン一味に伝わり相応の対価を要求されるでしょうね」

 「な、何の事を言っているのかさっぱり解かりませんね」

 動揺する予審判事へと警部が畳み掛ける。

 「対価は物とは限りませんよ。例えばあなたの自慢の奥様がある日突然居なくなってしまうかも知れませんね」

 「──脅すつもりか?」

 シュドがダルベルを睨み付けた。

 「脅す? 私が? 経験から来る警告ですよ、ルパンを敵に回した際のね。兎に角、まずはこの事件における反証ポイントを聴いて下さい。

 1.何の為に部屋の鍵を閉める必要があったのか?

 2.何故男爵は傷を負いながら動いたのか?

 3.何故男爵は心臓を撃ち抜こうと試みたのか?

 4.夫人は何故予審判事を呼んだのか?」

 「全て明確にお答えしたつもりでしたがね。部屋の鍵を閉めたのは自殺を邪魔されない為、移動したのは即死出来なかった為、心臓を狙ったのは頭部を撃ち抜く覚悟がなかったから。夫人が私を呼んだのは、いざと言う時に証言してくれる司法関係の人間が欲しかったのでしょう。事実こうやってあなたに疑われている訳ですしね」

 ダルベルの疑問に対して、シュドは粛々と解答した。

 「自殺を邪魔されない為、ですか? しかし書斎の鍵は男爵しか所持していなかった。そこから解かるのは普段この部屋は彼しか使わないと言う事です。死のうと思っている人間は死に損ねた時の事など考えないものです。わざわざ鍵を掛ける必要はないでしょう。とは言え、普段から部屋に居る時は施錠する習慣があったのかも知れませんので、一旦は保留とします。次に死に損ねた男爵が移動した理由ですが、夫人の声に反応した──ですって! やれやれ、ロマンティックにも程がありますね。予審判事は拳銃で撃たれた事は無いのですか? ああ、やっぱり。一度撃たれて御覧なさい。立ち上がって歩き出すのがどれだけ至難の業か思い知るでしょうよ! ましてや致死量に達する程の出血をしていたのでしょう? 有り得ません。そして自分の心臓を打ち損じるって? 今だってこうやって胸に手を当てれば何処に心臓があるのか、誰にだって解かるでしょうよ! つまり、この事件は他殺以外の何物でも有り得ません!」

 ダルベルは自信を持って言い切った。

 シュドが呆れた様に首を振る。

 「いいでしょう。男爵は殺されました。椅子に座っている処を正面から撃ち抜かれたのでしょう。犯人は鍵を閉めて部屋から出ます。ところが男爵は即死せずに超人的な意志の力で立ち上がり、扉の前まで移動して力尽きて倒れます。犯人は何食わぬ顔で鍵穴から室内を覗き込み、移動した男爵の姿を確認しつつも何の手立てを講じる事もせずに予審判事を呼び出す──色々と破綻しているようですが、何事も完璧には出来ない、それが人間って奴ですからね。これで満足ですか?」

 「確かに破綻していますね。その推論でしたら自殺説の方が有り得そうだ」

 「誰だってそう考えるでしょうね」

 「でもそれは、犯人たちが演出した状況に乗っかった上で推理しているからなのです」

 「演出した状況?」

 「ええ、これこそが予審判事を呼んだ理由──いや逆か。予審判事を呼んだからこそ、こんな状況へと演出された訳です」

 「それって私を中傷していますよね?」

 「いいえ、称賛しているのですよ! 素晴らしい逆転の発想でした。着目すべきは致命傷を負った男爵が移動したという事実です。自殺するにしても他殺だったとしても椅子から移動する必要は無いのですから、これには止むを得ない事情があったと考えるべきです」

 警部は言葉を切って合いの手を待ったが、予審判事は押し黙っていた。

 「要するに男爵は椅子に座っている処を撃たれたのではなく、倒れていた扉の近くで撃たれたのです! 当然その場で即死してしまえばこの事件は殺人と判断されて容疑者は簡単に絞り込まれます。かといって床にこれだけの血溜りを残しておいて自殺を演出するのは難しい。この段階では犯人は偽装ではなく逃走を選ぶつもりだったはずなんです。ところが最大の誤算は被害者が死んでいなかった事。男爵は犯人から拳銃を奪い取ると書斎から追い出し、扉に鍵を掛けます。そして気力を振り絞って肘掛け椅子へと歩み寄り、背もたれを撃ち抜き、椅子へと倒れ込み息絶えました。その行動を鍵穴から覗き見ていた犯人は大いに動揺します。自分が殺そうとした相手が、死の間際に自身を庇う為に自殺を偽装したのですから! 銃声を聴いて駆け付けた執事は、すぐに状況を把握しましたが併せて大きな問題にも気づきました。主人が撃たれた部屋の入り口から肘掛け椅子の有る場所まで血痕が列を為していたのです。犯人を庇うと同時に亡き雇い主の意志も尊重したい執事は最も信用できる人物を呼び出しました。そして彼と協力して遺体を椅子から扉の前へと運び、警察が見立てた状況を作り出したと言う訳です」

 警部の推理が終わると、室内に満たされた沈黙を破って予審判事が大きく溜息を吐きながら肩を竦めた。

 「弁明はしませんよ。男爵夫妻は良き友人でした。男爵の意志が彼女を守るという事であるのならば、その実現の前に私の経歴など何の意味があるのでしょう?」

 「犯人からは口止め料もせしめたしね」

 観念したシュドの告白をダルベルが茶化す。

 「望んだ訳ではありません。彼女が別れ際に我々に寄越したのです。『困った事があったらこれを』と言って」

 「やれやれ、他人の財産を気前良く振る舞うのはやめて欲しいものだ」

 ダルベルが嘆息しながら笑った。

 「お返ししますよ。私なんかが戦える相手じゃない。この仕事からも足を洗います。それで勘弁して貰えませんかね?」

 両手を広げながらシュドがおどける。

 「何故だね? 君たちの友情や忠誠心に感動していた処なのに。今後は私にも同じ様に接してくれることを期待したいね。金塊は取っておきたまえ。君への罰は──そうだな、真っ直ぐ家に帰って奥様へアンゲルマン男爵の様な深い愛情を示す事かな!」

 「やれやれ! それだけは勘弁して下さい」

 男たちはひとしきり笑い合うと、予審判事が用意していた報告書へと警部が署名した。

 翌日、エドゥアール・ダルベル警部は謎の失踪を遂げた──。


 イギリスのカレー港からフランスのル・アーブル港へと向かう定期連絡船ボナパルト号。そのデッキで海を見ながら燃える様な赤い髪を風になびかせている若い女性。一人の紳士がごく自然に近づいて行き、彼女の隣りへと立った。

 「知っていますか? この船には三人の男性を射殺した凶悪犯が乗っているそうですよ」

 男は海を見ながら誰にともなく話し掛ける。

 「犯人は女だそうね。名前はポール・シナー、〈罪人ポール〉。彼女の最大の罪はアルセーヌ・ルパンに出逢ってしまった事──」

 女は淡々と言葉を紡いだ。

 「恐るべき女性だよ。彼女の計画は一年前から始まっていたんだ。一年前の九月五日、彼女は夫にばれないように昔の仲間を使ってアンゲルマン銀行の金庫の中身を空にした。年に一度しか開かない金庫だ。誰にも気づかれることは無い。金庫の中身は金塊だったから国内外の様々な銀行などへ小分けに預けて、目立たない様に分散した。一方で過去にルパンに痛い目に合わされたマッカラミーとフィールズを焚き付け、秘密結社を結成させる。甘言を用いて昔の仲間たちやマフィアまで巻き込み、内部抗争に見せかけて窃盗の共犯者たちを全員始末した。そしてその罪を押し付ける為にマッカラミーたちも直接彼女が手を下して抹殺したんだ。それからアマルティという異分子とポール・シナ―役を担うパトリシアを取り込んで、空の金庫を開けさせる。それによってマフィアたちは疑心暗鬼に陥り同士討ちをする──これが彼女の描いた計画だった。誤算だったのはアマルティが彼女の想定していたベッカーから入れ替わっていた事と、事件発覚前にルパン本人が乗り込んで来た事さ!」

 自身の推理を披露するルパン。

 マリーテレーズは否定も肯定もせずに黙って耳を傾けていた。

 「不公平よね。あなたは私の前からいとも容易く姿を消せるのに、私は何処まで行ってもあなたから逃げ延びる事が出来ない──」

 溜息交じりに言葉を発したマリーテレーズは、島影すら見えなくなったイギリスの姿を目で追うかの様にじっと海を眺めている。

 「マリーテレーズ──罪を償いたまえ。私が出来る範囲で減刑に向けて尽力するよ」

 ルパンがアンゲルマン未亡人を見つめながら説得した。

 「死刑が終身刑に変わる訳ね。そうなれば恩赦が与えられれば生きている内に刑務所から出る事が出来るかも知れないわね──まっぴら御免だわ。若さを失うくらいなら、海の底で眠りに就いた方がマシよ」

 「私がそんな事を許すとでも?」

 「許すも許さないもないでしょ? あなたは私に借りがあるはずよ、アルセーヌ」

 そう言いながらマリーテレーズは初めてルパンの顔を正面から見つめた。

 「ずるいわ。どんなに齢を重ねてもあなたの瞳は少年のように輝いて私を魅了するのね」

 二人はどちらからともなく顔を寄せ合い、口づけを交わした。

 「さようなら、私のアルセーヌ。あなたに出逢った事は私の最大の後悔でもあり、無上の悦びでもあったわ」

 「──さようなら、マリーテレーズ。君の事は忘れないよ」

 ルパンは彼女に背を向けてゆっくりと歩き出す。船室へと続く扉に手を掛けた時、背後で大きな水音がして船員たちが騒ぎ出す声が聴こえて来た。


 ボナパルト号がル・アーブル港へと近づいて行くと、ルパンは係留場所で船の接岸を待つ人々の中に見知った顔が居るのに気がついた。

 「おやおや、懐かしいな! あれはガニマール元主任警部じゃないか! さてはマリーテレーズ失踪事件の調査協力に駆り出されたな。まあ、あれだけ〈アルセーヌ〉と連呼されれば世間様もルパンの関与を疑うって奴だ!」

 船からタラップが下ろされ、数人の警官と共にガニマールが船へと乗り込んで来た。タラップの手前に陣取り、下船して行く乗客一人一人の顔を見ている。

 ルパンはそれらの人の流れに逆らわないように自然体を意識しながら警官たちの前を通り過ぎようとした。

 しかし、その前にガニマールが立ちはだかる。

 「失礼、何か身元を証明出来る物をお持ちでしょうか?」

 「お勤め御苦労様です」

 ルパンはにこやかな笑みを浮かべながらガニマールに言われるがままに身分証を手渡す。

 「ニューぺン・セイラー、オートゥイユ・ロンシャンの公爵様ですか。イギリス旅行はお楽しみいただけましたか?」

 「勿論! 収穫の多い素晴らしい旅でした」

 余裕を持って上品な受け答えに終始するルパン。

 ガニマールは老いてますます鋭さを増した眼光で彼を睨み付けながら言葉を続けた。

 「ところで船旅の途中、ボナパルト号から女性が海へと落ちたようですが、これに関するあなたの見解はいかがですかな?」

 「見解ですか? 痛ましいとしか言いようが有りませんね」

 「痛ましい──ですか。あくまでも私の推測ですがね、彼女は連続殺人犯として手配されているアンゲルマン夫人だったのではないかと思っているのですよ。ルパンの財産に手を付けたが故に、奴によって始末されたのではないかとね」

 「おやおや、あなたの追っていたルパンと、私の知っているルパンとはまるで別人の様ですね! 彼は無駄な殺しはしませんよ。ほんの端金の為に若い女性の命を奪うような真似をする訳が有りません! 寧ろ彼女は逮捕を免れる為に自ら命を絶ったという可能性を考慮すべきです」

 ルパンの言葉を黙って聴いていたガニマールは不意に脇へと退くと、身振りで先に進むように促した。

 「大変失礼致しました。貴重な御意見は参考とさせていただきます」

 そう言いながらガニマールが右手を差し出した。

 ルパンは一瞬戸惑いを見せたが因縁の宿敵の瞳の中に親愛の情の様な温かい光を感じて、その手を力強く握り返した。

 「もう二度とあなたに会う機会が訪れない事を願っていますよ」

 そう告げるガニマールに対するルパンの回答は真摯な物であった。

 「真っ当に生きて行くのも、辛い事でしょうね──」


                                 おわり

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ルパンの大財産 南野洋二 @nannoyouji

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