家路

 ルパンたちがエレベーターで二階へと上がると、開かれた扉の先には警官隊が包囲網を敷いていた。銀行内は奇妙な程、緊迫した静寂に満たされている。

 「やあ、ベシュ! 大手柄だっただろう? まだ地下にも〈N.I.P.〉の主要メンバーが倒れているから、ひっ捕らえてくれたまえよ」

 ルパンは朗らかに呼び掛けながら歩みを進めようとしたが、警官隊の真ん中に立つベシュは彼へと拳銃を向けてその動きを制した。

 「アルセーヌ・ルパン! 貴様を逮捕する!」

 「──正気かい、親友? 確かに何人か不本意ながらも命を奪いはしたが、全て正当防衛だったと断言できるよ」

 「ここでの話じゃない! アンゲルマン男爵殺害容疑だ!」

 ベシュの告発を受けて、ルパンは激しく動揺を示した。

 「男爵が──殺された? じゃあ、私の敵は一体誰なんだ?」

 「そいつは牢屋に入ってゆっくりと考えるんだな! 君たちもこんなろくでなしに関わったばかりに迷惑を被る事になるが、一緒にパリ警察署まで来て貰おう」

 ベシュがそう呼び掛けると、パトリシアが一歩前に進み出て反論した。

 「証拠はあるの? ルパンが男爵を殺害したという証拠が! 私はこれまで彼の傍で見て来たけど、彼は例え裏切った部下であっても命を奪うような事は絶対にしないわ!」

 「退きたまえ、パトリシア! 君を傷つけたくはないんだ」

 彼女を説得すべくベシュが近づいて行き、彼女の手を掴んだ。

 「離して! あなたなんか大嫌いよ!」

 「ママから手を離せ!」

 その叫びと共に、階下に満ちていた異様な空気を打ち破って黄色い物体が階段を駆け上がって来た。振り返った警官たちがギョッとなって一斉に脇へと避けて行く。

 「何をしている! 撃て! 撃て!」

 突如現れた虎の姿にベシュは困惑して部下たちへと命じた。ところが誰一人虎を狙撃する者はいなかった。なぜなら、虎の上に少年が跨っていたからだ。

 「ロドルフ! あなたこんな処で何をしてるの? いえ、それよりも何で虎に跨っているの?」

 驚いたのはパトリシアも同じであった。

 呆気に取られていたルパンであったが、虎を遠巻きにする警官隊を見て大笑いを始めた。

 「アハハッ! ほら、ベシュ! 男を上げるチャンスだぞ! 凶暴な虎から少年を救い出せば姫君の心は君の物だ──何? 姫君の心よりも自分の体が大事だって? そりゃそうだ! だから君は奥方に捨てられたのさ! さあ、道を開けてくれ。アルセーヌ・ルパンは逃げも隠れもしない! 事件と無関係な外国からお客様方を解放したら、責任を持って男爵殺害犯を捕まえて来るさ! 勿論、手柄は君にくれてやるよ、親友!」

 先に立って歩き出すルパンとパトリシアを見守るかのようにロドルフとサイダが殿を務める。気づけばどさくさに紛れてアマルティは姿を消していた。

 「待ってろよ、ルパン! 次こそは逃がしはせんぞ!」

 虎の背中を睨み付けながらベシュが叫ぶ。

 ルパンは振り返る事もなく、巡査部長に向って大きく手を振って返事とした。


 檻に入れられたサイダを積み込んだアメリカ行きの太平洋横断客船の出港時間が近づいていた。船の前へと横付けした車の中からロドルフとアンジェリクが飛び出して来る。

 「ママ! 先に乗ってサイダの様子を見て来るからね!」

 元気一杯の少年たちがデッキへと向かってタラップを駆け上がって行った。

 一足遅れて車から二人の男女が降り立つ。

 「──ねえ、あなたの本当の名前を教えて頂戴」

 パトリシアが隣りに立つアマルティへと向き直って、正面から問いかけた。

 「もう君には関係の無い事じゃないか」

 アマルティはつれなく拒否する。

 「大有りよ──だって私はあなたを愛してしまったから!」

 パトリシアはアマルティの首へと手を回すと、背伸びをして口づけをした。

 続けて、戸惑っているアマルティの耳元へと口を寄せてそっと囁く。

 「それに、お腹の子にパパの名前くらい教えてあげないとね」

 パトリシアは嬉しそうに笑いかけるとアマルティから身を離した。

 「待ってるわよ! あまり長く待たせるようならサイダを連れてイギリスまで押し掛けるから!」

 悪戯っぽく笑ったパトリシアはそう言い残して、息子たちの後を追って行った。

 「──先輩」

 アマルティは予想外の事実を突きつけられて呆然としながら、車の運転席に座る男へと呼び掛けた。

 「聴いてたよ」

 ルパンは他人事だとは思えないのか、何とも言えない複雑な感情を込めて返事をした。

 「人生最大の危機だ! どうすればいい?」

 助手席へと乗り込んだアマルティへと、ルパンはニコリと笑みを向けながらこう答えた。

 「なるようになるさ(Ce qui sera,sera.)」


 「やあ、ビクトワール! 大活躍だったんだって?」

 彼女の為に新しく購入したセーヌ川沿いの〈赤い館〉へ入って来たルパンは上機嫌に乳母へと声を掛けた。

 「誰から聴いたか知りませんけどね、話半分に聴いておいた方がいいよ」

 調理場に立つ老婦人は、包丁を握る手を止めることなく返答する。

 「いやいや、堂に入った名探偵っぷりだったそうじゃないか! 何でも次はアルセーヌ・ルパンを捕まえるらしいね」

 「あの男を捕まえるのは簡単ですよ。『いつものスープが出来ているよ』と声を掛ければすぐに現れますからね」

 「違いない」

 ビクトワールの言葉にルパンが笑う。

 その間にもビクトワールは出汁に塩胡椒を加えた鍋の中へとベーコン・キャベツ・人参と、刻んだ具材を次々と入れて煮込み始めた。

 「それにしても、あんたが呼ぶ前に来るなんて珍しいね。どういう風の吹き回しだい?」

 ルパンは指で頬を掻きながら言い難そうに答えた。

 「まあ、今回はほら、ビクトワールにも迷惑を掛けたからさ──」

 「おやおや、あんたも大人になったものねぇ! あんたの辞書には〈迷惑〉って言葉は載っていないのかと思っていたよ」

 「その辞書をくれたのはビクトワールだろう? 覚えているかい、初めて二人で仕事した時の事を?」

 「もう忘れたよ、そんな昔の話は」

 ビクトワールが苦虫を噛み潰した様な顔をしながら包丁を振り上げた。

 「おお、怖っ! もしかしてルパンを捕まえるのではなくて、殺すつもりなんじゃないのかい? ほら、まだ完成まで時間が掛かるんだろう? たまには昔話でもしようよ。確か、あれはモンティヴィリエでの出来事だったかな──」


 モンティヴィリエに住むダンドレジ青年は正直言って金に困っていた。

 競馬で負け、賭博で負け、それでいて湯水の様に金を使っていたのだから破産寸前に追い込まれているのも必然ではあったのだ。

 しかし先日起死回生のチャンスを手に入れたのである。

 パリからル・アーブルへと向かう列車の中でたまたま知り合った〈メチェルスキー公爵夫人〉から自動車を買おうか迷っている、という話を聴いたのだ。勿論ダンドレジは自動車販売会社に勤めている訳でも、仲介業を営んでいる訳でもなかった。

 だが、自身が所有している二十四馬力の少々くたびれた車を処分する絶好の機会だと捉えたのだ。幸い、公爵夫人は裕福な上に自動車に関しては無知に等しかった。ダンドレジには小奇麗にした愛車を口八丁手八丁で高値にて売りつける自信があったのだ。

 青年の住む櫟荘の前に一台の馬車が停まった。馬車は二人の人物を降ろすと家の前から走り去って行く。降りて来た二人の内一人がメチェルスキー公爵夫人であった。

 夫人はダンドレジの姿を見つけると、おっとりと近づいて来て挨拶を交わした。後ろに付いている男は使用人のジャンだと、夫人が紹介した。

 早速、ダンドレジは自家用車の前へと夫人を案内する。

 だが夫人は車の周囲をウロウロするばかりでドアの開け方すら判らない様であった。

 「こちらですよ」

 ダンドレジがドアを開けると、夫人は驚きながらも運転席へと乗り込んだ。

 「広くて快適ですわね。この後は──」

 夫人の戸惑いは増すばかりで、エンジンキーを回す事すら叶いそうもなかった。

 ダンドレジが助手席へと乗り込んで運転手順を説明する。

 夫人は教わった通りにやっているつもりではあったが、なぜか車が走り出す気配はない。

 「難しく考えなくても大丈夫ですよ」

 ダンドレジのアドバイスを受けると、夫人は使用人を呼んだ。

 「ジャン! 助けて頂戴」

 夫人は使用人へと運転席を譲ると、一旦車を降りて助手席側から様子を窺っていた。だが、ジャンの知識も夫人と五十歩百歩と言った処で教わった通りの手順でエンジンこそ掛けたものの、アクセルを踏み込む事を怖がって走り出せなかった。

 「ねえ、ダンドレジさん。ジャンは私の言う事ならば何でも聞くのよ。助手席からペダルを踏むように言ってみますわ」

 夫人からの丁重な申し入れを受けて、ダンドレジは助手席から降りた。代わりに公爵夫人が乗り込む。ドアが閉まった途端、車は突如走り出して熟練した運転手の様に華麗なターンを決めると、櫟荘の前から遠ざかって行った。

 独り取り残されたダンドレジは呆然とその車影を見送っていた──。


 「確かにあれはダンドレジ青年が気の毒だったねえ、公爵夫人」

 「誰が公爵夫人ですか! ほら出来ましたよ、ジャン」

 ルパンのおどけた呼び掛けに、ビクトワールもふざけながら返答する。

 そしてビクトワール特製のスープと自家製のパンが食卓へと並んだ。

 「そうそう! これだ。この香りと味の所為に僕は幾つになっても乳離れが出来ないんだなぁ」

 匙でスープを掬いながらルパンが満足げに言い放つ。

 「本当に困った坊やだこと! 私だっていつまでも傍に居る訳には行きませんからね。いい加減に身を固める決心をしなさいな」

 「そうだな。ビクトワールの様に僕を理解し、許してくれるのならばどんな女性だって構いはしないさ」

 「私はあんたの悪さを許したことなど一度もないよ。メチェルスキー公爵夫人の時だって、お金にだらしがない知り合いを懲らしめる為に、って言うから協力したんじゃないか。まさかあんた──」

 これまで考えもしなかった結論に思い至ってビクトワールは言葉を失った。

 「よしてくれ。僕がビクトワールを騙したことなんて一度でも有ったかい? 結果論だけどダンドレジ青年は見事に立ち直ったじゃないか! まあ確かに彼の車を借りて〈仕事〉をした際には多少の迷惑を掛けたかも知れないけど、あの頃はまだ〈迷惑〉って言葉を知らなかったからね」

 「本当にあんたって子は──」

 ビクトワールは諦めたかの様に深い溜息を吐いた。

 ルパンはスープを味わいながら饒舌に言葉を続ける。

 「ねえ、ビクトワール。今度一緒にイギリスへ行かないか? 知り合いに養蜂場を営んでいる頑固な老人がいるんだよ。彼をからかってやったらさぞかし痛快だろうねぇ」

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