九月五日

 その日のアンゲルマン銀行は物々しい雰囲気に包まれていた。

 銀行のロビーには黒服を着た男たちが行き来し、来店した顧客へと鋭い視線を向ける。それだけで自己防衛本能が働いた一般人たちは銀行への用事が実はそれほど急いではいないという事を思い出し、足早に建物から去って行った。

 午前十時、銀行の前へと真っ黒なロールス・ロイスが停車した。助手席から降りた執事風の男が後部座席のドアを開けると、車の中からパトリシアが姿を現した。そのまま先立って銀行の中へと歩いて行くと、執事然した男も彼女の後方へと付き従う。

 アーチ状の入り口の左右を固める警備員たちが、怪し気な男の姿を見て近づいて来るが、パトリシアが胸元でちらつかせた認識票を見て、何事も無かったかのように元の場所へと戻った。建物の中へ入ると数人の黒服がパトリシアの姿に目を留めたが、特段近寄って来るような事もなかった。パトリシアの足取りには迷いが無く、そのまま奥の階段を目指して行く。パトリシアが大理石を削って造られた豪華な階段を昇って行こうと脚を掛けると、背後に付き従っていた男が懐へ手を入れながら声を掛けた。

 「地下へ降りると聞いていましたが?」

 パトリシアは首だけ巡らせると、極めて落ち着いた自信に満ちた口調で男へと答える。

 「地下へ行く為には二階から直通のエレベーターを使うしかないのです。もし強盗が入ったとしても電源を遮断してしまえば閉じ込める事ができますから。一階にエレベーターが無いのは侵入者がすぐに逃走できないように時間を掛けさせる為でしょう」

 「なるほど。さすが泥棒が設計しただけの事はある。盗まれない事に主眼を置くのではなく、始めから盗まれた場合の事を考えている訳だ」

 「ねえ──」

 独りごちながら感心している男へと向かってパトリシアが呼び掛ける。

 「あなたの事は何て呼べばいいの?」

 「御髄意に。呼び難ければ〈ディセットゥ〉(dix-sept)で構いませんよ」

 「十七? それがあなたのコードネームと言う訳ね」

 「イギリスでは〈ワンセブン〉と呼ばれますから、〈アンセットゥ〉(un sept)でもどちらでもお好きなように」

 「一つ確認して置きたいの、ディセットゥ。あなたは私を守ってくれるの? それともルパンの財産を手に入れる事が任務なの?」

 「今のところは両方ですね。任務遂行の両立が困難となった場合は上司の指示に従います」

 「上司の指示って事は──もう指示されている訳でしょう?」

 「それはあなたが知る必要の無い事ですよ」

 ディセットゥはそれ以上の質問を拒否する意志を明確に示しながら言い切った。

 「自分の身は自分で守れって事ね。解かったわ、行きましょう」

 正面へと向き直ったパトリシアは階段を一段ずつ力強く踏みしめながら昇って行った。


 エレベーター前での身分証明を通過し、パトリシアたちが地下へと降りて行く。

 扉が開いた先は大広間となっており、すでに十数人の先客が何箇所かに分かれて立ったまま会食をしている。その中にマフィアノがいた事にも驚いたが、それよりも更に衝撃を与える人物がパトリシアを待ち構えていた。

 「アマルティ! あなた何故生きているの?」

 驚きの余り、パトリシアは彼へと駆け寄って行く。動揺していたパトリシアは、アマルティが彼女の背後に立つディセットゥへ目線で合図を送ったのには気づかなかった。ディセットゥはスッとパトリシアから離れ、室内全体を見渡せる位置へと移動した。

 「パトリシア! また会えて嬉しいよ! 君があの時、認識票を持っている事を教えてくれれば、こんなに遠くまで来て貰う必要はなかったんだけどね」

 その言葉を聴いて、パトリシアはピタリと脚を止めた。

 「それがあなたの目的だったのね? ということはフィールズの所にいたのもアマルティを名乗っていたベッカーから認識票を奪う為だったのでしょう? 待って──だとしたらジェームズを殺したのもあなたなのね!」

 パトリシアがなじるように糾弾する。

 「それは論理の飛躍という奴さ。もし僕が彼らを殺しまでして認識票を奪うつもりだったら、君を生かしておく理由が無い。そもそもマッカラミーもフィールズも昔ルパンの被害に遭ったというだけの一般市民だからね。彼らから認識票を奪うだけなら殺人を犯す必要すらないよ」

 「じゃあ誰がジェームズを──」

 「さあね。フィールズたちの失策はこの計画を実行する為にルパンの昔の部下たちへ声を掛けたことさ。イエス・キリストの十二人の高弟になぞらえて利益を十二等分する条件で共犯者を募ったが、そこにマフィアが関わってしまった。利益を分配する人数が少なければ少ないほど報酬が増えるのは当たり前だからね」

 「ちょっと整理させて──フィールズは仲間を集めた癖に、その仲間を殺して回っているということ? 論理的ではないわ!」

 「その通り。つまり殺人を指示していたのはフィールズではない。彼の名前を騙っている誰かだ。ということは、すでにフィールズはこの世にいない可能性が高い」

 「まあ! なんてこと──」

 「幾らルパンが高尚な理想を掲げた怪盗だからって、その部下たちも同様な信条を持っている訳ではないってことさ。そもそもルパンの組織には直接の部下よりも孫や曾孫のような下請けの方が多く、ルパン自身も把握していないような犯罪者集団も一味に加担していたんだよ。例えば、彼のようなね──」

 「えっ?」

 アマルティが顎を使って指し示した方向をパトリシアが向いた途端に、その腕をマフィアノが掴んだ。その隣には小銃を構えた彼の部下が周囲を睨め付けている。

 「アマルティ! 俺の認識票を返せ! 従わなければこの女をぶっ殺す!」

 「そう言えばそうだ。君の認識票は僕が持っていたんだった。一体君はどうやって地下まで降りて来たんだい?」

 惚けるアマルティに対してマフィアノが下品な笑みを浮かべた。

 「アルバートの奴が突然来れなくなってね。悪い奴じゃなかったが気の毒に」

 「殺して奪ったのか! 全く君って奴は下衆の中の下衆だな、本当に!」

 「そいつは大した褒め言葉だ! さあ、俺の認識票を返して貰おうか!」

 「いいだろう。でもアルバートの認識票と交換だ」

 アマルティが涼しい顔で言ってのける。

 「おいおいおい、アマルティさんよ。俺は極めて紳士的に交渉しているつもりだぜ。女も認識票も両方手に入れようなんて虫が良すぎるとは思わないか?」

 「確かにね。君も明日を迎えるのと認識票の両方を手に入れるのは困難だと言う事に気づくべきだ」

 「どういう意味だ?」

 マフィアノの言葉と同時に彼の部下が床へと倒れ伏した。

 「クソッ!」

 マフィアノ自身が銃を取り出すべく懐へと手を入れたが、その後頭部へとディセットゥが銃口を突きつける。

 「僕たちはルパンと違って任務遂行の際に人殺しを躊躇する事が無い様に訓練されているんだ。ましてや君のような蛆虫を踏み潰すことに良心の呵責なんて微塵も感じないね。アデュー、ナンバー五」

 アマルティの言葉を合図にディセットゥが引き金を引いた。

 パトリシアが目を逸らす。

 マフィアノが倒れると同時に成り行きに注目していた周囲の者たちも、何事も無かったかのように元の会話へと戻って行った。

 アマルティがパトリシアをエスコートしながら殺人現場から離れて行く。間も無くしてエレベーターから数人の掃除夫が降りて来た。

 「気持ち悪いくらい手際が良いのね」

 彼らの姿を見掛けたパトリシアが唾棄するかのように呟いた。

 「まあ、ここで争い事が起きる程度は想定内なんだろうね」

 アマルティが他人事のように答えた。

 「想定内? 一体誰の──」

 「首謀者だよ、〈N.I.P.〉の。〈議長〉とも呼ばれているけどね。自身は〈ポール・シナー〉と名乗っているんだ」

 「ポール・シナー──」

 「おっと、そろそろ約束の正午だ。何が起きるか楽しみだね」

 アマルティがワクワクとしながら両手を擦り合わせる。

 パトリシアは不安と重圧で胸が押し潰されそうであった。


 時計の針が正午を刻むと、男の声とも女の声とも捉えられる中性的な性質を持つ音声が増幅装置を通じて室内へと響き渡った。

 「同志諸君、この日を迎えるまで本当に良く尽くしてくれた。感謝する。我が名はポール・シナー。皆の罪を一身に背負う者だ。金庫室内に保管されている財産は約束通り十二分割する。認識票番号を読み上げられた者は名乗った上で、認識票を壁のパネルへと填め込むのだ」

 指示されたパネルの存在を探してパトリシアが室内を見回す。するとコンクリートの壁の一部に天井まで伸びる真っ直ぐな亀裂が走っており、その壁の横には板状の機械が設置されていた。

 「ナンバー一、ジェームズ・マッカラミー」

 「マッカラミー氏の代理人、アマルティ・ディ・アマルトです」

 シナーの声に返答すると、アマルティはパネルへと向かって行った。〈1〉と記されている部位に認識票を当て嵌める。

 「ナンバー二、フレデリック・フィールズ」

 「フィールズ氏の代理人、エティエンヌ・ストラトニース」

 名乗りを上げた男がパネルへと歩み寄って行くのを見届けながら、パトリシアが戻って来たアマルティへと囁いた。

 「あなたの言う通りね、フィールズは来なかった。と言う事は彼が犯人なのかしら?」

 「まあ、道端に落ちていた認識票をたまたま拾ったと言う訳ではないのは確かだろうね」

 パトリシアはストラトニースの横顔をじっと見つめた。何処かで会った事が有る様な既視感を覚えたが、明確な記憶としては呼び起こせなかった。

 「ナンバー三、アマルティ・ディ・アマルト」

 それ以降ナンバー五のマフィアノを含め、四回登壇したアマルティへ〈同志〉たちは苦々しげな視線を投げかけていた。

 「凄く視線が突き刺さるんですけど──」

 アマルティの隣りに立つパトリシアが苦言を呈した。

 「そもそもは僕のせいじゃない。マフィアノが引き起こした事態さ。それにしても不思議だと思わないかい? 認識票を持った〈入場者〉に認められているのは同伴者が一名のみのはず。僕が六枚持っているという事はその時点で権利者は五人減り、僕は一人で来たから同行者は六人減るはずだ。つまりこの広間には君を含めた六人とそれぞれの同伴者プラス僕の合計十三人だけが入れるはず」

 「でも、どう見ても二十人はいるわ」

 「ひいふうみい──ああ、やっぱり! 君と僕を含めて二十二人だ。マフィアノとその相棒が退場したから二人足してみると丁度二十四人。十二使徒とその一番弟子って訳か!」

 「どういう意味?」

 「どうもこうもないよ。奴らは全員共犯者って事さ! マフィアノが〈N.I.P.〉の同志たちを出し抜こうとした訳じゃない。〈N.I.P.〉の総意が創設者であったルパンの被害者たちや元部下たちの排除だったという事だ! こいつはとんだ茶番劇だな。君が最後の認識票を填めた瞬間、何が起きるか断言できるよ」

 「じゃあ、どうすればいいの?」

 あくまでも他人事の様なスタンスを崩さないアマルティの姿に、パトリシアは怒りを覚えながら問いかける。

 「ナンバー十一、ロベール・ドルレアン」

 シナ―の声が十一番目の人物の名を告げる。

 「今更『権利を放棄します』なんて言ったところで通用しないだろうね。それにおそらく奴らはルパンの怒りの矛先を僕らに向けるつもりなんだ──そうか、だから君がポール・シナー役として選ばれたんだ! ロドルフ誘拐は君を思い通りに操る為の布石だったと言う訳さ」

 「私がポール・シナー? それに何故あなたがロドルフの事を知っているの?」

 「君の事は何でも知っているよ、マドモアゼル──ほら、議長様がお呼びだ」

 「ナンバー十二、パトリシア・ジョンストン」

 シナ―から名前を呼ばれて、パトリシアはアマルティへと詰め寄った。

 「どうするの! 認識票を填めたら金庫が開くのでしょう?」

 「そうだろうね。でも拒否したところで逃げ道はないから同じ事さ。少なくとも君にはまだ利用価値があるから命だけは助かるだろう」

 「あなたとディセットゥは?」

 「なるようになるさ(Ce qui sera,sera.)」

 「ナンバー十二、パトリシア・ジョンストン」

 シナ―による呼び出しが繰り返される。

 すでにその場の全員の視線がパトリシアの一身へと集まっていた。

 (本当にとんだ茶番劇だわ!)

 パトリシアは内心の怒りを押し殺して、パネルへと歩みを進めて行く。

 すると、その前を一人の男が遮った。

 「あなたはエティエンヌ──」

 フルネームを思い出せずパトリシアが言葉に詰まると、男は不敵に笑った。

 「そんな名前などどうでも良いですよ。さあ、認識票を私に下さい」

 予想もしなかった展開にパトリシアは助けを求めるかのようにアマルティを見た。その瞬間に、首から下げていたネックレス状の認識票を男が奪い取った!

 「何をする!」

 ナンバー四と呼ばれた男が叫ぶ。同時にその周りにいた同伴者たちが一斉に銃を取り出してパトリシアと彼女の前に立つ男へと向けた。

 「いいね! この全面的に歓迎された会場の雰囲気! 私はこの瞬間を味わう為に生きているような物だ!」

 認識票を手にした男が両手を広げながら雄叫びを上げた。

 「アルセーヌ・ルパン──」

 シナ―がそう呟くと、同志たちがざわつき始める。

 「ルパンが何だ! こんな老いぼれに一対二十で何が出来るっていうのだ?」

 ナンバー四の呼び掛けを受けて、同志たちが活力を取り戻した。

 「さあ、命が惜しければ認識票をパネルへと填めるのだ! そして大人しく引っ込んでいるんだな!」

 ルパンはナンバー四の脅し文句がまるで耳に入っていないかのように、アマルティへと声を掛けた。

 「何人いける?」

 ルパンの質問の意味を悟って、アマルティはニヤリと笑った。

 「四人までなら瞬殺できますが、急所に限らなければ倍は戦闘不能に出来ますよ」

 「君も同じか?」

 ルパンがディセットゥを見遣ると、彼も黙って頷いた。

 「八×三=二十四人だ。どうする? アルセーヌ・ルパンの財産を手に入れる為に命を懸ける覚悟はあるかね?」

 大仰に告げるルパンの気迫に〈同志たち〉は完全に呑み込まれていた。

 「ま、待て! 手打ちと行こうじゃないか! 何もそんなイギリス野郎どもにあんたの財産を分け与える必要は無い。我々は奴らにくれてやるつもりの額の半分で手を引こう!」

 ナンバー四の提案をルパンは鼻で笑い飛ばした。

 「君たちは何か勘違いをしているようだが、私が彼らに与えると約束したのは報酬だよ。アルセーヌ・ルパンたる者が脅しに屈して汗水垂らして貯め込んだ財産を黙って分け与えるとでも思っているのかい?〈盗る〉という事は単に〈得る〉よりもよっぽど難しいんだぜ! 何倍もの危険が伴うのさ。そう、丁度今の君たちの様にね」

 「ここから無事に帰れると思っているのか? 銀行の中にも外にも組織の関係者が五万といるんだぞ!」

 「知っているさ! こんな絶好の機会をパリ市警が逃すとでも思っているのかい? 今頃階上ではベシュ巡査部長率いる警官隊が、君たちの仲間を一網打尽にしているはずさ」

 ニヤリと笑うルパン。追い込まれたナンバー四が部下たちへ命ずる。

 「撃て! 撃ち殺せ! こいつの戯言など信じるな!」

 銃弾が一斉にルパンへ向かって放たれる!

 ルパンは隣に立つパトリシアを突き飛ばすと、身を翻して床へと這いつくばった。そして拳銃取り出し、ろくに狙いも付けずに連射する。

 暫しの間、室内には銃弾が飛び交っていたが、やがて完全なる沈黙が訪れた。静寂を切り裂くように近づいて来る靴音を耳にしてルパンは身を起こした。

 「とんでもない法螺吹きでしたね! 僕とディセットゥの二人で十七人はやっつけてますよ! あなたは一人しか仕留めていない」

 アマルティがパトリシアへと手を差し伸べたが、彼女はその手を拒否して自力で立ち上がった。

 「囮としては充分な働きだっただろう?──ディセットゥは?」

 「いい奴でした」

 アマルティがあっさりと告げると、ルパンは無念そうに肩を落とした。

 「若者が死に、年寄りが生き残る──無情な世の中だよ」

 「そうかも知れませんね。だからこそ人は自己利益を追求し、限られた生を謳歌するのではないのでしょうか?」

 「この歳になると金に対する執着心など無くなるよ。私にとって重要だったのは『ルパンは財産を奪われるのを阻止した』という事実さ。欲しいだけ持って行けばいい」

 ルパンはパネルへと近づき、最後の一つの認識票を填めると、壁が割れ、ゆっくりと左右へ開かれて行く。

 「凄いな、このパネルを起動する為には特殊回路を内蔵した鍵を必要とするはずなのだが。アンゲルマンの奴め! 忠臣の振りをして相当な悪だったな!」

 苛立つルパンが男爵の姿を探すかのように広間をグルッと見回す。

 その間、開いて行く金庫の中を見つめていたパトリシアが呆気に取られたかのように言葉を漏らした。

 「確かに、相当な悪さをしたようね」

 「その程度の財産で驚いてはいけないよ。私の資産はここ以外にも──」

 話しながら振り返ったルパンが金庫の中身を見て、続く言葉を失った。

 開かれた金庫の中は空っぽだったのだ!

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