サイダとアンジェリク

 セイラー公爵が目を覚ましたのは航海中の船底であった。拘束をされていない事に気づくと立ち上がり着衣に付いた埃を払う。

 「いかがです? 道中御無礼はございませんでしたか?」

 声のする方向へと顔を向けると、そこには椅子へと逆向きに座り背もたれに両手を乗せた若い男が笑顔を浮かべていた。

 「人に質問する前にまずは名乗ったらどうだね?」

 「おっと、そう言えばそうですね」

 セイラーに無礼を指摘されても、男は全く悪びれる様子を見せない。

 「でも自分が一体何者であるのか、あなたは答える事ができるのですか? 人生の最大の目的は自分が何者であるかの探求なのではないでしょうかね?」

 「哲学者ごっこは他所でやってくれ。パトリシアは無事だろうな?」

 「僕が彼女を傷つけるはずがありませんよ」

 男の爽やかな表情を睨み付けながら、セイラーが断定する。

 「アマルティ・ディ・アマルト伯爵か。死んだと聞いていたが」

 「ええ、アマルト伯爵と名乗っていた男は海難事故でお亡くなりになられたようですね。お気の毒に」

 「──なるほど、解かったぞ。アマルト伯爵ことエドガー・ベッカーがイギリス秘密勤務局を裏切った証拠を掴む為に君はアメリカへと渡ったのだ。フィールズ邸を訪れた君はパトリシアに素性を偽りアマルト伯爵と名乗る。そしてフランスへと向かう船上でベッカーを見かけた君は奴を始末する事に成功した。どうかな? これならば話の筋が通る」

 セイラーの推理を聴いて、男がまばらな拍手と共に賛辞を述べた。

 「面白いお話ですね! ではついでに僕の望みも当てて頂きましょうか」

 「〈N.I.P.〉の連中と同じさ。イギリス政府がルパンの莫大な財産を手に入れる絶好の機会を逃す理由がない」

 「ではお譲りいただけますかね?」

 「──条件によるな。まずはパトリシアを解放してもらおう」

 「それは出来ませんね。すでに彼女は安全な場所へ匿われています。なぜマフィアノがパトリシアに目を付けたか御存知ですか? 奴は彼女こそがポール・シナーだと信じているのです! まあジェームズ・マッカラミーに近しい人間でしたから可能性はゼロではないとも言えますが」

 「ポール・シナーとは何者なんだ?」

 「おやおや、敵から情報を得ようとするなんて、天下のアルセーヌ・ルパンも地に堕ちたものですね! 御自身のネットワークを駆使しなさいな。九月五日まではまだ時間がありますしね」

 男の言葉に初めてセイラーが動揺を示した。

 「なぜその事を知っている?」

 「その事? ああ、アンゲルマン銀行の金庫が九月五日にしか開かない話ですか。〈N.I.P.〉内では有名な話ですよ。その日がルパンの乳母であるビクトワールの誕生日であるのと同じくらいね」

 男の言葉が終わる前にセイラーが彼へと躍りかかった。

 「あの女には手を出すな!」

 男の首元を締め上げるセイラーの腹の辺りでカチリと撃鉄を起こす音がする。

 「あなたが協力的な態度を示して下されば、僕の仲間がビクトワールも保護します。反対に敵対的な行動を取る様でしたら、見せしめとして彼女へ言い寄っている近所の豚肉屋の主人を痛めつけてもいいのですよ」

 銃を突き付けられながらも、セイラーは愉快そうに笑い声を上げた。

 「それは是非やってくれ! 色気づいた年寄りほど見ていて気分の悪いものはないからな!」

 「おやおや。ママに焼き餅かい、坊や」

 そう笑いながら男が銃を下ろす。同時にセイラーも身を引いて返答した。

 「いいだろう、君を信じよう。彼女たちに自由を与えたまま保護してくれるのであれば、相応の報酬を支払おう。それ以上を望むのであれば、それは別の話だ──そうだろう?」

 「いいでしょう。話の通じる相手との交渉はいつだって楽しい物ですからね──さて、仕事の話はこれでおしまいだ! この後は船内を自由に歩き回っていただいて構いませんよ。数日中にはル・アーブル港へ到着します。私は別件がありますので一足お先に失礼しますよ。では公爵様、九月五日にアンゲルマン銀行にてお会いしましょう!」


 「ねえ、アンジェリク」

〈コルネーユの館〉の居間の暖炉の前でロドルフは虎のサイダに寄りかかったまま読書をしていたが、年上の女友達が戻って来たのを知って立ち上がり彼女へと声を掛けた。

 「なぁに、ロドルフ」

 森の木々の朝露に濡れたコートを脱ぎながらアンジェリクが問い返す。

 「そろそろ僕、ババスール叔母さんの家に帰ろうと思うんだ」

 ロドルフの言葉を聴いて、アンジェリクは驚きに目を見張った。

 「まあ! 一体どうしたの、ロドルフ! 昨日の夜は、次は『モンテ・クリスト伯』を読むって張り切っていたじゃない!」

 抱えていた荷物を投げ出し、慌ててロドルフの元へと駆け寄って行く。

 「うん、そうなんだけど──」

 ロドルフは一旦言い難そうに口を噤んだが、意を決したかのように言葉を続ける。

 「僕、見たんだ。アンジェリクの隠し持っている懐中時計が時を刻んでいるのを。この家の中で時間が止まっているというのは嘘なんでしょ?」

 「嘘じゃないわ。時計は機械で動いているから止められないのよ」

 「それだけじゃないよ。最近暖炉を使わない理由だって解かるんだ。火を起こせば煙が出る。煙が出るとこの家に誰かが住んでいることが判っちゃうから都合が悪いんでしょう? つまり、アンジェリクは僕をこの家に閉じ込めたがっているんだ!」

 少年の告発を受けてもアンジェリクの平然とした態度は変わらなかった。

 「ねえ、ロドルフ──あなたは私の事が嫌い?」

 「好きさ! 大好きだよ!」

 少年は純粋な想いを叫んだ。

 「だったら、このまま私と一緒に暮らしてくれればいいじゃないの。私はずっとサイダと二人きりだった。あなたも私たちを捨てて出て行くと言うのね?」

 「捨てるなんて絶対にしないよ! でもババスール叔母さんだって心配してるだろうし、ママにもここにいる事を教えておかなきゃ──」

 ロドルフが母親の事を切り出した瞬間、アンジェリクの態度が豹変した!

 「ダメよ! お母さんには連絡させないわ!」

 アンジェリクは背中へと手を回すと、拳銃を取り出した。

 「あなたはここで暮らすのよ、ロドルフ!」

 彼女の悲痛に満ちた表情を見て、ロドルフは哀しげに俯いた。

 「そんなアンジェリクを見たくなかったよ──」

 それが合図だったかのようにロドルフの背後からのっそりと立ち上がったサイダが、彼とアンジェリクの間を遮るかのように立ち塞がる。

 「嘘でしょ? サイダ! あなたまで私を裏切るつもり?」

 「サイダがアンジェリクを裏切った訳じゃないよ。アンジェリクの悪い心がサイダの信頼を裏切ったんだ」

 「──私がサイダを裏切った?」

 銃を持つアンジェリクの手から力が抜けて行く。そのタイミングでサイダが吠えた!

 驚いて銃を落とすアンジェリク。

 サイダはゆっくりとアンジェリクの元へと近づいて行くと、前脚で落ちた銃を踏みつけながら、その場で身を丸くした。

 「有り難う、サイダ! アンジェリク、僕は行くよ。きっと大人の人が来るけど逃げないでね。僕が森で怪我をしたから君たちが看病してくれてた、っていう風に話すから」

 「私は全てを失くしてしまったのね──」

 アンジェリクは切ない表情を浮かべながらロドルフを見つめた。

 「そんな事は無いよ! アンジェリクが綺麗な心を取り戻せばサイダはまた友達に戻ってくれるよ」

 「あなたは──あなたはどうかしら?」

 「僕? 僕たちは今でも友達だよ! 今度はママも連れて来る! この家の方がババスール叔母さんの家より百倍は快適だって説得するから、また一緒に本を読もうよ!」

 ロドルフの言葉にアンジェリクは涙を浮かべながら微笑んだ。

 「有り難う、ロドルフ──」

 「じゃあ、またね。アンジェリク!」

 背中を向けて部屋から出て行こうとするロドルフ。それをアンジェリクが呼び止めた。

 「待って、ロドルフ! あなたのお母さんは今フランスに居るの。私とサイダなら彼女を救い出す手助けが出来るわ」


 ロドルフが来た時には気づかなかったが、〈コルネーユの館〉の玄関へと向かう通路はかなりの傾斜をしていた。

 (そうか、僕は地下で暮らしていたんだ!)

 実際にはどれくらいの時間が経ったか解からなかったが、ババスール叔母さんやトムたちが僕を探していない訳がない、そう信じていたロドルフは誰にも発見されなかった理由が判明し、一人納得していた。

 先を歩いていたアンジェリクが通路の突き当たりにある壁を押すと、その先はボロボロに崩れ落ちた館の広間へと通じていた。

 通路から出てロドルフが振り返ると、通路だった所には罅割れた鏡が掛けられていた。

 「鏡の国のアリスみたいだ!」

 ロドルフの素直な感想を聴いてアンジェリクがクスクスと笑う。

 すると、遠くから男たちの声が聴こえて来た。

 「おい! 今建物の方から子供の声がしたぞ!」

 数人の男たちの足音が響き、段々と近づいて来る。

 今度はロドルフが先頭に立って、建物の外へと歩を進めた。

 入り口の扉だった物を押し開けると、眩しい朝の光が差し込んで来る。久方ぶりの陽の光がロドルフの目を焼いた。

 「ロドルフ! ロドルフじゃないか!」

 建物を囲んでいた男たちの中から見知った顔が駆け寄って来た。

 「パパ!」

 ヘンリー・マッカラミーの姿を捉えたロドルフが彼の胸へと飛び込んで行く。

 「心配したんだぞ! 無事か? 無事だったんだな!」

 息子を力強く抱きしめながら、ヘンリーが喜びの声を上げた。

 「動くなっ!」

 離れた場所から建物を包囲していた男たちが廃屋から出て来たサイダの姿を見て、一斉に猟銃を構える。

 「やめて! 彼らは僕の恩人なんだ!」

 父親の胸元から飛び出したロドルフはそう叫びながら友達を庇うように立ち塞がった。


 ロドルフから、失踪期間中はアンジェリクたちに看病して貰っていた、との説明を聴いたヘンリーは半信半疑ながらも彼の言葉を受け入れた。

 ヘンリーに同行していた捜索隊の村人たちは、アンジェリクの許可を得て興味津々な様子で〈コルネーユの館〉内の探索へと向かっている。

 「実はロドルフ──言い難いんだが、ママの事で」

 ヘンリーが歯切れ悪く切り出すと、ロドルフがその言葉を遮った。

 「知ってるよ! ママは九月五日にフランスに行くって言ってたもの」

 「フランスだって? ママはシカゴで行方不明になったんだぞ」

 「僕には解かるんだ! ママは絶対にフランスに居る!」

 ロドルフの確信に満ちた純粋無垢な瞳に見つめられて、ヘンリーは大きく溜息を吐いた。

 「──わかった。フランスの知人に調べて貰うように連絡するよ」

 「ううん、パパ。僕がママを迎えにフランスへ行くよ!」

 「おまえが? おまえ一人を外国へ行かせる訳には行かないよ」

 「僕は一人じゃないよ! アンジェリクとサイダも一緒に行ってくれるって!」

 ロドルフの言葉を聴いて、ヘンリーは目を丸くした。

 「虎も一緒にかい! やれやれ、とんでもない息子に育ったものだ──いいだろう、金はパパが出してやる。絶対にママを連れて帰って来るんだぞ!」

 ヘンリーは腰を屈めて目線の高さを息子に合わせると、右手を差し出した。そこにロドルフが拳をぶつけてフィストバンプを決める。

 「初めて知ったんだけど──」

 ロドルフが驚いたようにヘンリーを見つめながら言葉を発した。

 「何をだい?」

 「パパって、ママが言うほど嫌な奴じゃないね!」

 「──ママの前でも同じ事を言ってくれ」

 息子の率直な感想を聴いて、ヘンリーは肩を落としながら苦笑いを浮かべた。

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