伯爵の正体

 パリのエトワール広場近くにある〈エトワール・パークホテル〉に投宿したパトリシアはフランスでの濃密な一日の疲れを取るかのように、丸一日眠り続けた。

 翌日の朝、目が覚めたのもベシュがホテルの部屋のドアを叩いたからであった。

薄着のまま寝ぼけ眼でドアを開けると、興奮気味のベシュが飛び込んで来る。そしてパトリシアのあられも無い姿を見て、違う方面でも興奮に囚われて目を背けた。

そんなベシュの反応を見て初めて自身の姿を認識したパトリシアは、彼を部屋から追い出して着替え始めた。

 「五分待って!」

 五分後、あらためて部屋へと通されたベシュは落ち着きを取り戻していたし、パトリシアも何事もなかったかのように冷静に応対していた。彼女がテーブルの上にコーヒーを並べてベシュと向かい合って座ると、巡査部長が調査結果を報告する。

 「アマルティ・ディ・アマルト伯爵の正体が判ったよ」

 「本当に?」

 驚きの余りにパトリシアが立ち上がった。

 「ああ。彼の本名はエドガー・ベッカー。イギリス人で秘密勤務局の人間だった」

 「──だった?」

 「現役の職員の名前ならイギリスの諜報機関が教えてくれる訳がない。どうやらベッカーは母国の利益よりも自己利益を追求したようだね」

 パトリシアはベシュがなぜか敬語をやめて親しげに話し掛けて来るのが気に障った。まさか素肌を見たくらいで自分の女になったとでも思っている訳ではあるまいし──いや、この男ならその程度の勘違いは幾らでもやらかしそうだ。なんにせよ、今現在協力者らしい協力者はこの出来損ないの巡査部長しかいないのだ。

 (忍耐は肌に悪いかしら──)

 パトリシアは自身のどうでもいいような思考を鼻で笑い飛ばした。

 「実はベッカーの住まいも判っているんだ。ポーツマスから遠くない所に家を持っている。どうだい、行ってみるかい?」

 (ポーツマス──彼が海に落ちた場所からならば泳いで辿り着けなくはないわ)

 アマルティにもう一度会いたい、という想いの前にはベシュとの二人旅だという事実は何の障害にもならない程度のささやかな事であった。


 パリから電車でル・アーブルへと行き、港から定期船に乗ってポーツマスへと渡る。実際の処、旅の道連れとしてのベシュはそれ程不快な相手ではなかった。

 女性に対して生真面目なのか臆病なのか、口説いたり手を出して来る事は無かったし、退屈な道中はジム・バーネットとの想い出話を語ってくれて飽きる暇がなかった。確かに所々不自然に自身の手柄を誇張している箇所もあったように思えたが、それぐらいの脚色はバーネットだって許してくれるであろう。何と言っても二人は〈親友〉なのだから。

 「ところで、あなた。仕事は大丈夫なの?」

 パトリシアは心配になってベシュへと尋ねた。

 「ああ、私はパリ市警唯一の特務捜査官だからね。〈奴〉が関連する事件に関しては自由に動けるんだ」

 「それは良かったわ──あら? でもちょっと待って。フランスの警察はマサンと不文律のルールを締結したのではなくて?」

 「その通り。だから私は普段は仕事がなくて困っていたんだ。奴と引き合わせてくれたおかげ美女と公費で旅行に出る事まで出来た! 君には本当に恩に着るよ」

 (それって厄介払いの閑職ではないかしら──)

 パトリシアは真実を見抜いたが、あえてそれを指摘しない程度の優しさと慎み深さは持ち合わせていた、


 ポーツマス港へ着くと、二人はそのままタクシーでベッカーの住まいへと直行した。

 しかし、家は空き家となっており、門扉から垣間見える庭内は経過した歳月を感じさせるほど荒れ果てていた。ベシュは鍵の掛かっていない扉を開けようと試みたが錆びているのか変形してしまったのかピクリとも動かない。

 「どうする? 裏口を探してみようか?」

 ベシュの問いかけをパトリシアは大声を上げながら遮った。

 「あーあ、残念! せっかく二人きりになれる場所を探していたのに! 帰りましょう!」

 「え? ええ?」

 戸惑うベシュの手を引いて港方面へと歩き出す。

 ベッカー邸からある程度離れると、パトリシアが小声で囁いた。

 「しっかりしてよ、刑事さん! あの屋敷は見張られてたわ。そんな処にベッカーが帰って来る訳ないじゃない! それよりもここが彼の地元だったのならば知り合いがいるはずよ。友人の元に匿われている可能性があるわ。何しろ彼は〈魅力的〉だから」

 「私とは違う、とでも言いたいのかい」

 拗ねるベシュを可愛く感じたパトリシアが彼を小突く。

 「あなたにはあなたの魅力があるわ。そう例えば──例えばそうね、今はまだ解からないけど、きっと何処かに必ず」

 パトリシアのフォローはベシュをますます凹ませる効果をもたらした。


 港の傍にある小さな居酒屋〈セント・ジョージ〉。今にも崩れそうな建物だった為、ベシュは入るのに抵抗を示したが、店内はこざっぱりとしており亭主のジョージは赤毛で気のいい大男であった。

 「エドガーの彼女か! さてさて一体何人目だったかな? エドガーの彼女が奴を追いかけてこの店を訪れるのは数年ぶりだからな。そうそう、そこの壁だ。そこにエドガーの等身大の似顔絵を貼り付けたべニヤ版が立て掛けてあって、女たちがアイスピックを突き立てる儀式をやってたものさ。一人一穴って決めてたのに、十年もしない内にボロボロになっちまって。多分まだ物置にあるはずだが、あんたもやっていくかい?」

 「いいえ。私は直接本人へ突き刺したいと思っているの」

 パトリシアが真顔で冗談を述べた。

 それを聴いたベシュは引き攣った笑みを浮かべたが、ジョージは神妙な顔をして言い難そうに切り出した。

 「そうか──あんたはまだ知らなかったんだ。そいつは悪い事をした。俺は想い出話に花を咲かせるつもりだったんだが」

 「まさか──」

 パトリシアが言葉を切って息を呑む。

 「数日前に港に上がった水死体、あれがエドガーだったのさ。船のスクリューに巻き込まれたらしくて体はズタズタだったが、あの顔は間違いない、エドガーさ」

 「遺体は今何処に?」

 「確か親戚が引き取ったんじゃなかったかな? まあ奴も最後は故郷の海で死ねたんだ。悪くない人生だっただろうよ──さあ、一杯めは俺の奢りだ! エドガーの為に乾杯してやってくれ!」


 ベシュは地元の警察へ情報提供を依頼したが、エドガーの親戚というのが何処から来たのか誰も答えられなかった。

 「そうだとしたら、本当は死んでいないという可能性もあるわよね?」

 イギリスからフランスへ戻る船の中で、パトリシアは自身に言い聞かすかのように淡い期待を込めてベシュへと問いかけた。

 「どうかな? 身元不明だった時からあらゆる人間が遺体を見ていた訳だから、死んでいたのは間違いないだろう。身元が判明し近隣に知れ渡ったにも関わらず、誰からも異論が出なかったという事は、遺体はベッカーで確定だと思うな」

 ベシュが言い辛そうに答える。パトリシアは手の中に握り締めていたアマルティの認識票をじっと見つめた。

 「そう──もう彼には逢えないのね」

 「仕方ないさ。元々アマルト伯爵なんて存在しなかったんだから──」

 「──本当にそうかしら?」

 「えっ? どういう意味だい」

 「確かに私が出逢ったアマルト伯爵はエドガー・ベッカーだった。でも、もしかしたら彼とは別に本物のアマルト伯爵が存在するのかも──」

 「フランス警察のネットワークに引っ掛からなかったんだぜ?」

 「だとしたらフランス人ではないのでしょうね」


 「やあ、男爵。先日のお祭りは大変楽しませて貰いましたよ」

 アンゲルマン男爵邸を訪れたセイラー公爵が館の主人である銀行家へと慇懃に挨拶した。

 「それは光栄でございます、公爵様。貴方様の歓びこそ、私どもの幸せでございます」

 玄関でセイラーを出迎えたアンゲルマン男爵が自ら貴賓室へとセイラーを案内して行く。男爵はセイラーより年上に見えたが肌艶に衰えは見えず、白髪ながら顔付きは若々しくきりっと引き締まっていた。

 「ところで運用は順調ですか?」

 歩きながらセイラーが問いかけると、先に立つ男爵は首だけ回しながら返答した。

 「勿論です! 貴方様の御指示通りに行っておりますが、信じられないくらいの額の利益を生み出しております」

 「なるほど。噂ではあなたもそこに乗っかって小銭を稼いでいるようですから、ゆめゆめ私を裏切るような真似は致しますまいな?」

 セイラーの言葉に男爵の歩みがピタッと止まる。慌てて振り返りながら釈明した。

 「も、勿論でございますとも! 潰れかかった当行が立ち直ったのも公爵様のおかげであれば、若く美しい妻に出逢えたのも貴方様のおかげです! 私は貴方様の忠実なしもべでございますとも!」

 「そう信じているからこそ、あなたに任せたのです。これからもそうあっていただきたい物ですね」

 「この命に賭けてお約束いたします」

 男爵は深々とお辞儀をしてから向き直ると、目の前にある両開きの扉を開いた。

 すると貴賓室にはすでに一人の人物が待ち構えていた。

 「お久しぶりです、ボス。長い間ほったらかしにするなんて、随分冷たくありませんこと?」

 セイラーの元へと高価な衣服や装飾品で着飾った若い女性が近づいて来る。燃える様な赤髪が印象的な野性味溢れる美女であった。公爵は跪くと彼女の手の甲へと口づけをする。

 「他人様の奥方に会いに来る理由がありませんからね」

 セイラーは顔を上げてそう告げると、立ち上がって一歩退いた。

 「あら? 貴方は私に対して責任を持つ立場にあるのではなかったかしら?」

 アンゲルマン夫人は笑顔を崩さないまま、公爵を非難する。

 「マリーテレーズ、御主人の前でこんな話をするのは感心しないな」

 「構わないでしょう? 主人は身も心も貴方に売ったのですから。代わりにあなたのお下がり品を押し付けられた──」

 パンッ!

 「黙れマリー! 公爵様、大変失礼致しました」

 妻を平手打ちしたアンゲルマンが平身低頭に謝る。

 「いえ、やはり私はここに来るべきではありませんでしたね。男爵、これだけは伝えておきたかったのです。何者かが私の財産を狙っています。今現在私の資産の大半はアンゲルマン銀行が管理していますから、奴らはここを襲う可能性が高いです。充分警戒して下さい」

 「畏まりました。しかしながら、ここの防犯設備は貴方様が立案し監督した上で設置した玄人中の玄人が造った物。そう易々とは侵入する事は出来ますまい」

 「男爵──どんなに凄い道具を作ったところで使うのが人間である以上、完璧など有り得ないのですよ。完璧でない以上、必ず穴はあるはずです。今日のルパンには金庫のある場所まで侵入出来ないとしても、明日のルパンならば難なく入り込むでしょうね」

 「それはルパンの話でしょう? 彼のような稀代の怪盗は他にはいませんよ」

 アンゲルマンの褒め言葉をセイラーは鼻で笑い飛ばした。

 「それはどうでしょうね。時代は変わって行く──だからと言って私はそれに流されるのを良しとはしませんがね」


 パリへと戻ったベシュとパトリシアであったが、その後の捜査の進展は芳しくなかった。一方でセイラーとの連絡も途絶えた為、新聞社と息子の為にパトリシアは一旦アメリカへと帰る決心をした。帰りの船旅は寂しいくらいに平穏で、まるでこれまでの日々が夢の中の出来事であったかのように感じられた。

 (アマルティもルパンもベシュも全て私の中の創り物──もしそうだったら、私はまたロドルフの成長を見守りながら、仕事に明け暮れる日々を過ごすのだわ)

 その発想は安心をもたらすと同時に、冒険への決別を意味する物のようにも思えた。

 (いずれにしても九月五日には私は戻って来る。その時には全ての謎が明かされるはず)

 パトリシアは遠ざかって行くヨーロッパを舷窓から臨みながら、再来を誓った。

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